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福岡地方裁判所 昭和52年(ワ)1253号 判決

目次

当事者の表示

主文

事実《省略》

第一 当事者の求めた裁判

一 請求の趣旨

二 請求の趣旨に対する答弁

第二 原告らの請求原因

一 当事者

1 原告ら

2 被告国(厚生大臣)

3 その余の被告

二 スモン

1 スモンの症状等 (一)〜(七)

2 患者の苦しみ

三 キノホルム

1 沿革

2 作用

四 因果関係

1 スモン患者のキノホルム剤服用率

2 キノホルム剤販売量とスモン発生数との関係

3 行政措置後の激減

4 動物実験

5 スモン協の総括

五 生命・健康の絶対性

1 生命・健康の絶対性についての宣言

2 公害裁判の到達点

六 医薬品の危険性

1 医薬品の本質的危険性

2 医薬品の社会的危険性

(一) はじめに

(二) 医薬品を高利潤獲得の手段とした製薬企業

(三) 製薬企業を保護育成した薬事行政

(四) 国民の置かれている状況

七 キノホルムの危険性――予見可能性

1 一般的な危険性

(一) 外用消毒薬としてのキノホルムを内用薬とすることの危険性

(1) 外用消毒薬を内用する要件 ①〜③

(2) 吸収情報の存在

(3) 毒性情報の存在

(4) 添加剤による吸収の増大の可能性とキノホルムの危険性の増大

(5) キノホルムの無害性の神話とキノホルムの吸収

(6) 結び

(二) キノホルムの劇薬性が示す危険性

(三) デービツドの警告が示す危険性

2 内臓障害についての危険性

(一) 胃腸障害の危険性

(二) 肝臓・腎臓障害の危険性

(三) 膵臓障害の危険性

(四) その他の危険性

3 神経障害についての危険性

(一) 序 (1) (2)

(二) キノリン系化合物の神経障害作用

(1) キノリン誘導体の神経障害作用

a キニーネ

b 四・アミノキノリン、八・アミノキノリン

c アトフアン

d その他

e まとめ

(2) キノリンの神経障害作用

a

b

(三) オキシキノリン系化合物の神経障害作用

(1) オキシキノリン類の神経障害作用

a オキシキノリン硫酸塩

b オキシキノリン・スルフオン酸

(2) オキシキノリンの神経障害作用とハロゲン化の影響

(四) キノホルムの神経障害作用

(1) 組織培養試験におけるキノホルムの神経障害作用

(2) キノホルムの急性神経障害作用

(3) キノホルムの亜急性、慢性神経障害作用

八 被告国の責任

1 薬事行政上の安全性確保義務

(一) 序

(二) 薬局方収載の際の安全性確保義務

(三) 製造許可等の際の安全性確保義務

(四) 医薬品の安全性の継続的確保義務

(五) 全体としての安全性確保義務

2 キノホルムに関する特殊事情と高度の安全性確保義務

(一) 被告国によるキノホルムの開発、製造と薬害防止義務

(二) 被告国によるキノホルムの戦時薬局方収載と薬害防止義務

(三) 被告国によるキノホルムの劇薬指定解除と薬害防止義務

(四) 特殊事情の総体に基づく被告国の薬害防止義務

3 予見可能性・結果回避可能性

4 キノホルム及び各キノホルム剤の安全性確保義務違反

(一) 被告国の日本薬局方及び国民医薬品集収載時の安全性確保義務違反

(二) 被告国の製造許可等時の安全性確保義務違反

(三) 被告国の製造許可等後又は日本薬局方・国民医薬品集収載後の安全性確保義務違反

5 まとめ

九 被告会社の責任

1 医薬品(キノホルム)の危険性に伴う責任

2 医薬品製造等に際しての注意義務

3 被告チバの過失

(一) 内服用キノホルム(エンテロ・ヴイオフオルム)製造販売開始前の安全性確保の懈怠

(二) エンテロ・ヴイオフオルム製造等再開前の安全性確保の懈怠

(三) エンテロ・ヴイオフオルム製造等再開時及びその後の安全性確保の懈怠

(1) 昭和二八年当時の状況 a〜d

(2) 動物における神経障害の発現と被告チバの対応

(3) 米国FDAの規制と被告チバの対応

(四) まとめ

4 被告武田の過失

5 被告田辺の過失

(一) エマホルム販売のいきさつ

(二) 安全性確保義務違反

6 被告会社の損害賠償義務

一〇 被告らの損害賠償義務の関係

一一 損害

1 損害のとらえ方

2 原告らの損害

(一) スモンの症状による苦痛

(二) スモンによる生活破壊

(三) 伝染病説による社会的疎外

(四) 被告会社の加害行為の罪悪性

(五) 被告国の加害行為の罪悪性

(六) 被害の非代替性、不可避性

(七) 原告らの怒り

3 損害額の評価

4 弁護士費用

一二 結論

第三 被告国の請求原因に対する認否及び主張 一〜七

第四 被告チバの請求原因に対する認否及び主張 一〜七

第五 被告武田の請求原因に対する認否及び主張 一〜七

第六 被告田辺の請求原因に対する認否及び主張 一〜七

第七 証拠関係

一 原告ら 1〜5

二 被告国 1、2

三 被告チバ 1〜4

四 被告武田 1〜3

五 被告田辺 1〜4

理由

第一章 スモン………………………六六

第一 小史……………………………………六六

一初期の報告から疾患概念の成立

まで………………………………………六六

二病因論…………………………………六七

三キノホルム中毒説の端緒……………六八

1 緑色物質に関する研究

2 椿によるキノホルム説の提唱

四行政措置とキノホルム説の展開……六八

第二 臨床像及び病理像……………………六九

一臨床像…………………………………六九

二病理像…………………………………七〇

第三 予後・治療……………………………七〇

一予後……………………………………七〇

二治療……………………………………七〇

第二章 キノホルム…………………七〇

第一 化学……………………………………七一

第二 沿革……………………………………七一

一開発及びわが国への輸入……………七一

二内用化…………………………………七一

三わが国におけるキノホルムの開発と日本薬局方等における取扱いの経緯…………………………七一

四被告会社によるキノホルム剤の輸入・製造・販売………………………七一

1 被告チバ、同武田

2 被告田辺

五キノホルム規制の現状………………七二

第三章 因果関係……………………七二

第一 はじめに………………………………七二

第二 キノホルム説の検討…………………七二

一キノホルム剤服用とスモンとの関係…………………………………七二

1 スモン患者のキノホルム剤服用状況調査とその解析

2 スモン協班員によるキノホルム剤服用状況調査

3 対照群を設定した調査結果

二量と反応の関係………………………七四

1 はじめに

2 キノホルム剤販売量とスモン発生数との関係

(一) キノホルム剤の生産販売量の推移

(二) 甲野のグラフ

(三) 椿らの研究

3 DRRに関する主要報告の概観

(一) 服用率と発症率との関係

(二) 服用量と重症度との関係

(三) 一日服用量と服用期間の関係

4 スモン協の総括

5 問題点の考察

(一) はじめに

(二) 少量・短期服用患者

(三) 発症曲線について

三行政措置後のスモン発生激減………七七

1 はじめに

2 スモン発病患者数の推移

3 行政措置以前からの減少

(一) 行政措置前減少の事実の確認

(二) 考察

4 スモン「診断」が減つたのか

5 「激減」はキノホルム説と矛盾するか

6 患者発生の最終報告における年月日上の問題点

7 行政措置後のスモン発生

四動物実験………………………………八〇

1 はじめに

2 実験報告の概観

3 実験結果の要約

4 実験方法上の問題点

(一) 被告会社らの反論  (三) 実験目的  (二) 大量投与  (四) 漸増投与等  (五) まとめ

5 被告会社らによる追試実験

(一) はじめに  (二) スイスチバ社の実験(その一・定量法)  (三) スイスチバ社の実験(その二・漸増法)  (四) スイスチバ社の援助による実験  (五) スイスチバ社と被告田辺との共同実験  (六) 被告田辺の実験  (七) その他の実験

6 原告らの反論

(一) はじめに  (二) 立石の批判  (三) ハンチントン・リサーチ・センターの実験

7 ビーグル犬に対するキノホルム再投与実験

8 まとめ

五小括……………………………………八五

六その他のキノホルム説に対する疑問点の解明……………………………八五

1 キノホルム剤非服用スモンについて

(一) はじめに

(二) 服用・非服用確認の困難性

(三) 誤診混入の可能性

(四) まとめ

2 何故昭和三〇年代に急激に発生したか

(一) はじめに

(二)戦前スモン

(三) 投薬量及び期間の変遷

(四) 考察

3 外国スモン

(一) はじめに

(二) 欧州調査

(三) 考察

4 小児スモン

(一) はじめに

(二) 井形らの研究

(1) 投与期間  (2) 診断

(三) 小坂らの調査

(四) 考察

七キノホルム説検討結果のまとめ……八八

第三 他の病因論について…………………八八

一はじめに………………………………八八

二中毒説等………………………………八九

1 中毒説(農薬、重金属等)

2 アレルギー説等

3 考察

三感染説…………………………………八九

1 はじめに

2 感染説に有利・不利な現象

3 コツホの条件の修正

4 井上ウイルス説の根拠

5 疫学的特徴

(一) 小坂らの研究 (二) 反論

6 井上ウイルスの存在

(一) 発見 (二) 形態 (三) 性質 (四) 培養 (五) 抗体反応 (六) 動物実験

7 井上ウイルス説への反論

(一) はじめに (二) 追試 (三) 検出率 (四) 潜伏期 (五) 病変

(六) 動物実験 (七) 凍結措置

8 考察

四他原因考察のまとめ…………………九四

第四 結論……………………………………九四

第四章 被告会社の責任

(その一)――総論………………九四

第一 医薬品の特性…………………………九四

一医薬品…………………………………九四

1 はじめに

2 定義

3 特性

二有用性…………………………………九五

1 はじめに

2 有効性

3 安全性

4 有用性

5 まとめ

三純正医薬品の欠陥とその推定………九六

第二 医薬品製造業者の注意義務…………九七

一医薬品製造の目的……………………九七

二注意義務の程度………………………九七

1 はじめに

2 行政取締との関係

(一) はじめに (二) 審査の実態

(三) まとめ

3 日本薬局方収載との関係

(一) はじめに (二) 日本薬局方の性格及び改正の実態 (三) まとめ

4 まとめ

三医薬品製造業者の注意義務…………九九

四医薬品輸入業者の注意義務…………九九

五医師の注意義務との関係……………九九

六欠陥医薬品の製造と過失の推定……九九

第五章 被告会社の責任

(その二)――各論…………一〇〇

第一 わが国におけるキノホルム

の欠陥…………………………………一〇〇

一副作用………………………………一〇〇

二有効性………………………………一〇〇

1 繁用

2 整腸効果

3 アメーバ赤痢、腸性末端皮膚炎

三欠陥…………………………………一〇一

第二 予見可能性…………………………一〇一

一はじめに……………………………一〇一

二予見可能性の有無の判断基準時…一〇一

三予見可能性の対象と素材…………一〇一

1 対象

2 素材

3 まとめ

四文献の検討に際して注意すべき事項……………………………………一〇一

1 はじめに

2 動物実験の限界

3 類似構造化合物

(一) はじめに (二) 構造特異性

(三) 構造活性相関 (四) 考察

五文献の検討…………………………一〇三

1 一九二〇年代まで

(一) キノリン

(1) ビアツク (2) ハインツ

(3) ストツクマン

(二) オキシキノリン類

(1) シヤルロツテンバーグ

(2) シユーベル (3) マハト

(4) テルクング

(三) まとめ

2 一九三〇年から一九四五年まで

(一) キノホルム内用についてのデービツドらの研究

(1) アンダーソン (2) アンダーソン (3) リーク (4) デービツド (5) アンダーソン (6) デービツド (7) デービツド (8) デービツド

(二) キノホルムに関するその他の文献

(1) ホーグ (2) グラヴイツツ

(3) 徳山 (4) 田辺 (5) アレマン

(6) ペルモント

(三) 吸収情報

(1) パルム (2) デービツド

(四) 考察

3 一九四七年から一九五九年五月(基準時)まで

(一) キノホルムのヒトに対する副作用の報告

(二) 類似構造化合物による神経障害

(1) はじめに (2) オービング

(3) オービング (4) シユミツト (5) シユミツト (6) リヒター

(三) 吸収情報

(1) オールブライト (2) ナイト

(3) ハスオンス

4 基準時以降一九七〇年まで

(一) ヒトに対する副作用の報告

(1) ホツブス (2) 水間 (3) ゴルツ (4) ベルグレン・ハンセン

(5) エサリツジ (6) ストランドビク (7) ケーザー (9) ケーザー

(二) 動物に対する副作用の報告

(1) ハンガルトナー (2) シヤンツ (3) ロエシユ (4) ミユラー

(5) マイヤー・ルーゲ (6) ピユシユナー

5 キノホルムの劇性について

(一) 劇薬の指定基準

(二) 文献の検討

(1) アンダーソン (2) デービツド (3) スイスチバ社

(三) キノホルムの劇性

6 まとめ

六まとめ………………………………一一四

第三 被告会社の責任……………………一一四

一被告チバの責任……………………一一四

1 被告チバの行為

2 被告チバの過失

3 結論

二被告武田の責任……………………一一五

1 はじめに

2 被告武田と被告チバとの関係

(一) 戦前 (二) 戦後

3 被告武田によるキノホルム剤製造の有無

(一) 昭和二八年以前 (二) 昭和二八年以降

4 被告武田の販売活動の実態

(一) 一手配給契約の内容

(二) 販売活動の実態

5 考察

6 結論

三被告田辺の責任……………………一一八

1 被告田辺の行為

2 被告田辺の過失

3 結論

第六章 被告国の責任……………一一八

第一 序(争点)…………………………一一八

第二 反射的利益論について……………一一九

第三 被告国の行為………………………一二〇

第四 被告国の医薬品安全性確保義務

の存否…………………………………一二〇

一はじめに……………………………一二〇

二問題の所在…………………………一二〇

三旧薬事法の法的性格をめぐつて…一二一

1 薬事法制と薬務行政の変遷

(一)薬務行政の混沌期

(二) 医薬制度の建設期

(1) 医薬制度の調査の着手

(2) 医制の制定

(3) 司薬場の創設

(4) 粗悪医薬品の取締りと毒薬の取扱い

(5) 薬務行政の内務省移管

(6) 粗悪医薬品と毒劇薬取締りの強化

(7) 売薬規則の制定

(8) 薬品取扱規則の制定

(9) 製薬免許手続の布達

(三) 医薬制度の整備完成期

(1) 日本薬局方の制定

(2) 薬品営業竝薬品取扱規則の制定と改正

(3) 第二改正日本薬局方の制定

(4) 第三改正日本薬局方の制定

(5) 新薬、新製剤の届出制

(6) 薬品の無害有効主義に基づく行政指針

(7) 製薬事業の奨励

(四) 医薬制度の整理期

(1) 薬剤師法の制定

(2) 売薬法の制定

(3) 第四改正及び第五改正日本薬局方の制定等

(4) 製薬事業の発展

(5) 薬務行政の厚生省移管

a 厚生省誕生

b 薬務行政の厚生省移管

(6) 統制期の薬務行政

(7) 価格の統制等

(五) 旧々薬事法(昭一八法四八)の制定

(1) 制定に至る経過

(2) 旧々薬事法制定の趣旨及び目的

(3) 旧々薬事法の骨子

(4) 医薬品と監督に関する規定

(六) 戦後の薬務行政

(1) 終戦直後

(2) 昭和二三年(一九四八年)

(七) 旧薬事法(昭二三法一九七)の制定

(1) 制定の趣旨

(2) 旧薬事法の内容

a 目的

b 医薬品の定義

c 公定書

d 薬事委員会

e 医薬品に関する規整

f 監督事項

g その他

(3) 公定書外医薬品に関する規制

a 旧薬事法施行規則による規制

b 行政指導による規制

c 包括建議

(八) 旧薬事法下におけるその他の薬務行政の例

(1) 学術調査班の設置

(2) チビオンの製造許可の例

(3) イソニコチン酸ヒドラジドの製造許可の例

2 薬局方について

(一) 薬局方の定義及び内容

(二) 薬局方制定の目的

(三) 薬局方制定の方針

(四) 国民医薬品集

(五) 公定書収載の基準

(六) 第六改正日本薬局方

(七) 常用量及び極量の意味

四まとめ………………………………一三二

1 薬事法制の歴史の根底に一貫しているもの

2 新憲法と国民の生命・健康の保全

3 生命・健康保全の権利思想―その世界的動向

(一) ヴアジニア憲法とアメリカ独立宣言

(二) 世界人権宣言

(三) WHO憲章

4 旧薬事法下における医薬品と国民とのかかわりあい

5 公定書と医薬品の安全性

6 医薬品の製造等許可と医薬品の安全性

7 小括

8 被告国の主張に対する見解

第五 医薬品安全性確保義務の顕現……一三八

一はじめに……………………………一三八

二医薬品安全性確保義務の具体的内容……………………………………一三九

三欠陥医薬品と過失の推定…………一三九

1 欠陥医薬品の推定

2 過失の推定

四過失の有無の判断基準時…………一四〇

五予見可能性の対象と素材…………一四〇

六予見可能性の有無…………………一四〇

1 はじめに

2 被告国によるキノホルムの開発と劇薬指定

3 キノホルムの戦時薬局方への収載と劇薬指定解除

4 キノホルムの劇薬性

(一) 毒薬と劇薬

(二) キノホルムの経口致死量

(三) ドイツ薬局方におけるキノホルムと極量

(四) スイス薬局方とキノホルムのセパランダ(劇薬)指定

5 日本薬局方等におけるキノホルムの取り扱い

(一) 準薬局方とキノホルム

(二) 戦時薬局方(第五改正日本薬局方)とキノホルム

(三) 初版国民医薬品集とキノホルム

(四) 第六改正日本薬局方とキノホルム

(五) 第二版国民医薬品集とキノホルム

(六) 第七改正日本薬局方とキノホルム

(七) 第八改正日本薬局方とキノホルム

(八) 第九改正日本薬局方とキノホルム

6 被告国から民間へのキノホルム製法特許実施権等の払下げ

7 一応のまとめ

七被告国の主張に対する見解………一四五

1 被告国の主張

2 被告国の主張に対する当裁判所の見解

第六 違法性について……………………一四七

第七 被告国の行為とスモンとの

因果関係………………………………一四九

第八 総括…………………………………一四九

第九 現行薬事法と被告国の医薬品

安全性確保義務………………………一五〇

一現行薬事法(昭三五法一四五)の制定…………………………………一五〇

二現行薬事法の概要…………………一五〇

1 目的

2 薬事審議会

3 医薬品の製造業及び輸入販売業

4 医薬品の販売業

5 医薬品の基準及び検定

6 医薬品の取扱い

7 医薬品の広告

8 監督

9 その他

10 薬事法施行規則による定め

三現行薬事法下の薬務行政の実例…一五二

1 薬剤師法及び薬事法の施行について

2 昭和三七年医薬品製造指針

3 医薬品等製造承認特別審査について

4 医薬品の安全確保の方策について

5 アンプル入りかぜ薬の販売自粛について

6 昭和四一年改訂版医薬品製造指針

7 医薬品の製造承認等に関する基本方針について

8 アミノ塩化第二水銀(白降汞)を含有する製剤等の取扱いについて

9 シクラミン酸カルシウム及びシクラミン酸ナトリウムを含有する医薬品等の取扱いについて

10 キノホルムを含有する医薬品の取扱いについて

11 薬効問題懇談会の答申と医薬品再評価の実施

12 医薬品の副作用報告

13 副作用情報と行政措置

14 医薬品再評価が終了した単味剤たる医療用医薬品の取扱いについて

15 医薬品再評価に伴う単味剤たる医療用医薬品に関する監視指導上の措置について

16 医薬品再評価の実施結果

四まとめ………………………………一五八

第一〇 結論………………………………一五八

一結び…………………………………一五八

二付論――被告会社と被告国の法定帰責原因の相違…………………一五九

第七章 被告らの相互の責任

関係…………………………一五九

第一 被告会社相互の責任関係…………一五九

一被告チバと被告武田の責任関係…一五九

二被告チバ・被告武田と被告田辺の責任関係………………………一五九

第二 被告国と被告会社相互の責任

関係……………………………………一五九

第八章 損害総論…………………一五九

第一 はじめに……………………………一五九

第二 スモンによる個々の被害…………一六〇

一初期の症状…………………………一六〇

1 腹部症状

2 神経症状

(一) はじめに

(二) 学者の説明

(1) 井形昭弘の場合

(2) 豊倉康夫らの場合

(3) 安藤一也、祖父江逸郎の場合

(三) 初発症状の苦悩

(四) 原告患者らの訴え

(1) 七番宮津三紀子

(2) 一〇番井上美知子

(3) 四八番白尾サトリ

(4) 八九番山本松子

(5) 一二五番大塚トキエ

(6) 一五〇番入江栞

(五) 失明者の嘆き

(1) 三五番諸岡富美子

(2) 九〇番芳川憲夫

(3) 一二三番三宅博文

(4) 一四六番朽網ツタエ

3 リハビリテーシヨン

(一) リハビリテーシヨンに励む姿

(1) 五番別宮逸郎

(2) 八六番橋爪貞男

4 医原病スモンの特異性―特にスモンの再燃・増悪

(一) はじめに

(二) スモンの再燃・増悪

二後遺症………………………………一六四

1 はじめに

2 腹部症状

3 神経症状

(一) 異常知覚

(二) 痛み

(三) 冷感

4 歩行障害、運動機能障害

(一) その程度

(二) 学者の説明

5 視力障害

(一) 六六番鳥羽道子

(二) 一二三番三宅博文

(三) 一番越智義信

6 その他の症状

(一) 排便、排尿障害

(二) 不眠

(三) 易疲労感、倦怠感

(四) 性生活障害

三死亡患者……………………………一六六

四病因論と精神的被害………………一六七

1 病因不明による不安

2 ウイルス説による不安

(一) はじめに

(二) ウイルス説による患者の不安

(1) 五五番雪丸正利

(2) 一一八番吉村富子

(三) 他人からの仕打

(1) 九三番住吉キミ子

五経済的被害…………………………一六八

六長年月の闘病生活と時間の喪失…一六八

1 はじめに

2 三番中島美代子

3 八八番山元典子

4 九三番住吉キミ子

5 夫婦ともスモン

第三 スモン被害の広がり………………一六九

一日常生活の現状……………………一六九

1 粗描

2 買物、洗濯、掃除、炊事

3 スモン患者の日常生活構造

4 他の神経疾患との比較

二失われた人生………………………一七〇

三家庭破壊――二次被害……………一七一

第四 その他の問題………………………一七二

一加令とスモン………………………一七二

二合併症とスモン……………………一七二

三医原病と医療疎外…………………一七二

四救済の立ち遅れ……………………一七二

第五 おわりに―原告らの訴えるもの…一七三

第九章 損害各論…………………一七三

第一 はじめに……………………………一七三

一スモンの認定………………………一七三

1 スモン協の臨床診断指針

2 統一診断書について

3 スモンの臨床症状

(一) 腹部症状

(1) 内容

(2) 腹部症状の経過に伴う分析

(3) 腹部症状と神経症状の関連

(4) 被告田辺の主張について

(二) 神経症状

(1) 初発神経症状

(2) 神経症状の完成

(3) 知覚障害

(4) 運動障害

(5) 腱反射及び異常反射

(6) 視神経障害

(7) 脳神経障害、精神症状

4 類似疾患について

(一) 多発性硬化症

(二) デビツク病

(三) ギラン・バレー症候群

(四) 糖尿病性ニユーロパチー

(五) 脊髄癆

(六) クロラムフエニコールによる神経障害

(七) エタンブトールによる神経障害

(八) イソニコチン酸ヒドラジドによる神経障害

(九) ビタミンB12欠乏(悪性貧血)

(一〇) ペラグラ

二キノホルム剤の服用………………一七八

1 はじめに―立証の必要性

2 投薬証明書について

三損害額の算定………………………一七九

1 包括請求について

2 算定に際し考慮すべき事項

(一) 障害の程度(重症度)

(二) 発症時の年令

(三) 治療期間

(四) 職業関係

(五) 家族構成

3 損害額算定の基準時

第二 損害額………………………………一八〇

一 越智義信   三 中島美代子

四 亡中村和弘   五 別宮逸郎

六 松延ツヤ子   七 宮津三紀子

八 和藤勝美   九 阿部康子

一〇 井上美知子  一一 岡部千代子

一二 川口進  一三 熊谷喜久男

一四 児嶋政仁  一五 酒井ナツヨ

一六 篠原萬里子  一七 髙砂佳枝

一八 髙橋千代子  一九 田中重雄

二〇 亡田中小一  二一 坪井洪

二二 藤シノブ  二四長尾ヤエコ

二五 西利雄  二六 原田澄子

二七 前田顕  二八 前田ツタエ

二九 間地高明  三〇 松本ヨシエ

三一 宮本摂子  三二 牟田要

三三 川崎龍哉  三四 佐野ハルエ

三五 諸岡富美子  三六 山本ヨシエ

三七 古賀喜規  三八 池田ミツエ

三九 石松サワノ  四一 牛島寿美子

四二 梅崎エツ  四三 江崎シゲノ

四四 大賀利平次 四五 鐘ケ江スガエ

四六 古賀邦芳  四七 坂井清

四八 白尾サトリ  四九 富森アサ子

五〇 福山カツ  五一 船崎周一

五二 森フジ子  五三 山口

五四 山口豊  五五 雲丸正利

五六 龍作一  五七 龍ミヨカ

五八〜六〇 亡栗原義一  六一〜六五 亡芳野カヨノ

六六 鳥羽道子  六七 細井タツ子

七〇 岩本キミエ  七一 権丈トモエ

七二 坂本義和  七三 近見タネ

七四 原田ミサエ  七五 原富男

七六 的場マサ子  七七 吉田富美子

七八 山口シズエ  七九 亡佐野瀧吉

八〇 出雲タエノ  八一 宇野善文

八二 浦縄次郎  八三 小田日出丸

八四 早稲田録  八五 伊藤ヨシ

八六 橋爪貞男  八七 原田昭雄

八八 山元典子  八九 山本松子

九〇 芳川憲夫  九一 城後ヤスエ

九二 鈴木陽一  九三 住吉キミ子

九四 田浦ヤエノ  九五 中村静子

九六 花田カヅエ  九七 馬場ハツエ

九八 原ナツ  九九 松延静枝

一〇〇 松橋カオル 一〇一 安沢春美

一〇二 武末キミヨ 一〇三 井上政子

一〇四 大村英信 一〇五 川野正博

一〇六 草場重弘 一〇七 徳永シヅエ

一〇八 徳永ハナエ 一〇九 奈良恭子

一一〇 不破宮子 一一一 松延ツルエ

一一二 和田民之助 一一八 吉村富子

一二〇 中村国一 一二一 松尾大次郎

一二三 三宅博文 一二四 大久保タキ

一二五 大塚トキエ 一二六 懸野ユキ子

一二七 川野治平 一二八 河野タミ

一二九 川畑寿重 一三〇 木下スズ子

一三一 佐伯勇 一三二 佐渡村ミツ子

一三三 高見キクノ 一三四 細川サキ

一三五 三宅アヤ子 一三六 宮本章

一三七 山本秀子 一三九〜一四四 亡西林清人

一四五 尾木正子 一四六 朽網タツエ

一四七 古沢利雄 一四九 石原広喜

一五〇 入江栞 一五二 加藤ヨシノ

一五三 梶原キヨ子 一五四 河野初子

一五五 坂田ハツヨ 一五六 末松松

一五七 田中トメ 一五八 堤徳福

一五九 中田ミキ子 一六〇 宮本里子

一六一 本石章 一六二 柳田ヒサノ

一六六 亡山本太良治 一六八 有山太郎

一七〇 藤孝子 一七一 松本アサ子

一七二 栗栖嘉美子 一七三 細川寿恵子

一七四 吉松正蔵 一七五 吉松チヨコ

第三 弁護士費用〈省略〉………………一八四

第一〇章 結論……………………一八四

別紙(一) 原告別請求・認容一覧表………一八四

(二) キノホルム剤製造許可等一覧表

〈省略〉

(三) 文献一覧表〈省略〉

(四) 原告主張損害関係一覧表〈省略〉

(五) 死亡患者相続一覧表〈省略〉

(六) 書証目録〈省略〉

原告

越智義信

外一六三名

原告ら訴訟代理人

副島次郎

外一四一名

被告

右代表者法務大臣

瀬戸山三男

右指定代理人

布村重成

外一二名

被告兼国補助参加人

日本チバガイギー株式会社

(原告早稲田録関係)

右代表者

エツチ・エツチ・クノツプ

右訴訟代理人

赤松悌介

外一七名

被告

武田薬品工業株式会社

右代表者

小西新兵衛

右訴訟代理人

日野国雄

外七名

被告

田辺製薬株式会社

右代表者

平林忠雄

右訴訟代理人

石川泰三

外一二名

主文

一  被告日本チバガイギー株式会社、同武田薬品工業株式会社、同田辺製薬株式会社のうち別紙(一)原告別請求・認定一覧表の「被告会社」欄に○印の付されているもの(ただし、同一覧表の「備考」欄に棄却とあるものを除く。)及び被告国は各自(ただし、原告出雲タエノ、同早稲田録、同松尾大次郎、同吉松チヨコについては被告国のみ。)原告らに対し、右一覧表中各原告に対応する⑥「認容額・合計」欄記載の金員及びそのうち④「認容額・損害額」欄記載の金員に対する昭和五二年一二月一四日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らの右被告らに対するその余の請求をいずれも棄却する。

三  原告権丈トモエ、同的場マサ子及び同松橋カオルの被告日本チバガイギー株式会社及び同武田薬品工業株式会社に対する各請求、並びに原告細井タツ子の被告田辺製薬株式会社に対する請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用中、前項に掲記の原被告ら間に生じた分は同原告らの、補助参加によつて生じた分は補助参加人の各負担とし、その余はすべて前記一覧表の各原告に対応する一項掲記の被告らの負担とする。

五  この判決の一項は、前記一覧表の⑥「認容額・合計」欄記載の金員の各三分の一の限度において、仮に執行することができる。

事実《省略》

理由

第一章  スモン

第一  小史

〈証拠〉によれば、次の各事実を認めることができ、これを左右する格別の証拠はない。

一初期の報告から疾患概念の成立まで

昭和三〇年(一九五五年)頃から和歌山県、三重県で腸疾患加療中に神経炎症状や下半身麻痺症状を併発した原因不明の患者が数例発生した。学会報告としては、昭和三三年(一九五八年)の楠井賢造ら(和歌山県立医大)の一例(丁第一一九号証の一)、翌三四年の菅田政夫ら(東北大)の三例、昭和三五年の清野祐彦ら(山形県立山形病院)の一二例(戊第三号証)及び藤田浩ら(三重県立医大)の二例(丙第一号証)等が最も初期のものであつた。その後も、鹿児島、再び和歌山、福岡、東京、岡山、関西、京都、釧路、再び三重、熊本、再び東京、徳島というように続々と全国各地から学会或いは誌上の同様の症例報告が相次いで現われ、とくにその中のいくつかは地域的多発、或いは家族・集団内多発として注目を惹いた。死亡者も出て、剖検例も報告されるようになつた。こうして同様症例が全国の内科医師らの注目を集めるなかで、昭和三九年(一九六四年)五月第六一回日本内科学会総会(会頭前川孫二郎(京大))においてこの問題がシンポジウムとしてとりあげられ、「非特異性脳脊髄炎症」の主題下に楠井賢造の司会で、五名の演者並びに四名の予定発言者が臨床及び病理所見を披瀝し、この下痢又はその他の腹部症状に続発し、多くの場合脊髄炎、時には脳・脊髄炎或いは脱髄疾患の病像を呈する疾患群を一つの独立した単位疾患(共通の原因、症状がみられるもの)として認め得るか否かを中心に議論をたたかわせた(丁第四三号証)。ここでは独立した単位疾患か一つの症候群(症状は似ているが、原因は多数あるもの)かについては議論が分れたが、本症の病理像が確立されたのは大きな収穫であつた。司会者の全国集計によれば、この時までに本症例数は八二三例でうち賠検二四例、このうちの下痢又はその他の腹部症状を伴うものは五六〇例で、昭和三〇年から現われ年を追つて急増していた。そして概ね女性に多く、二〇ないし六〇才、初夏から初秋に発生する例が多いようであつた。右シンポジウムにおいて椿忠雄、豊倉康夫、塚越広(東大)は、腹部症状に続いて神経症状を呈する例の中に臨床的及び病理学的に極めて特異な所見を有する一群の疾患のあることを見出し、それは Subacute Myelo-Optico-Neuropathy(亜急性脊髄・視・神経症、この頭文字をとつたものがスモンSMONの呼称の起源である。)と呼ぶことができ、従来知られている如何なる疾患にも一致しない、原因は不明である、しばしば腹部症状に続いて神経症状を発現するが、腹部症状が必ず先行るものか否かは決定し難い旨述べた。そして、当時少なくとも――炎(-itis)という名称をさけて、SMONという表現をとつた理由は ①この病変の成り立ちは亜急性である ②少なくとも神経組織自体にみられる変化には、炎症性若しくは感染性のものであるという確実な証拠はない ③病変の主座は末梢神経、脊髄の後索と側索、視神経にあり、いずれも対称性でかつ末梢ほど変化が強い一種の偽系統的変性であり、病因は広い意味では何らかの代謝障害として一括できる性質のものであり、かつ神経病理学的特徴にある程度の共通点を有するという意味から、一つの病因グループと理解した、と述べられている。

なおこの年に、前川孫二郎を班長として、厚生省科学研究費による下痢を伴う脳脊髄炎症の原因及び治療の解明を企画した研究班が発足し、昭和四一年まで活動したが、同四二年に右研究費は打ちきられた。

他方、昭和四〇年の第六回日本神経学会総会において、再び本症に関する多くの症例が各方面から報告され、論議されたが、ようやく本症をして独立した一つの疾患単位として取り扱うのが妥当であろうとする意見が強まつた(丁第五号証七九頁、戊第七一号証四頁)。

二病因論

初期の報告において、菅田ら及び清野らが細菌性或いはウイルス性の感染因子を念頭においたのに対し、楠井らは栄養障害とくにビタミン欠乏症を考え、高崎浩(三重県立大)・藤田らは腸内細菌毒素、ウイルス、アレルギー、脊髄血管障害、代謝障害とくにビタミン欠乏等の多因説に立つた。そして多発地域の報告者は感染説に、散発例の報告者は非感染説に立つ傾向があつた。昭和四〇年に、奥田邦雄・新宮正久ら(久留米大)は、本症患者からエコー二一型ウイルスを分離した旨報告したが、その後行なわれた国立予防衛生研究所等によるウイルス学的追試はすべて陰性成績であつた。ウイルス説に対しては、本症の病理がいわゆる感染症の像ではないことが大きな否定材料となつていたので、甲野礼作(国立予防衛生研究所)は、西部ニユーギニアの高地人一部族内に流行する神経病クルーやイギリスなどのヒツジの神経病スクラピー、アメリカのミンク脳症等で明らかにされたスローウイルス感染症を考慮した。甲野によれば、神経系の病理組織像はスモンと、クルーやスクラピーとでは非常に異なつているが、他方両者ともに脳炎、ポリオ等の急性ウイルス性のものと異なつて、炎症性反応とくに血管周囲浸潤等が乏しいこと、一種の系統性若しくは偽系統性変性症であること、潜伏期が長いこと、疾患は亜急性又は慢性に経過することなど性格的には類似点が少なくないということであつた(丁第一一六号証の二)。

かくして病因不明のままスモンが全国的社会問題となつてきたので、政府も放置できなくなり昭和四四年(一九六九年)九月二日、厚生省科学特別研究費と科学技術庁特別研究促進調整費とでもつてスモン調査研究協議会、即ちスモン協が結成され、スモンの病因と治療に関する研究が委託された。スモン協は臨床・病理・病原・疫学の四班より成り、スモンに関心を有する研究機関の殆んどが参加した。

なお、スモン協は昭和四六年四月以降、右四班から疫学・治療予後・病理・キノホルム・保健社会学・微生物の六部会へと発展的に編成替えされた。

三キノホルム中毒説の端緒

1 緑色物質に関する研究

昭和三八年(一九六三年)釧路でのスモン多発に際して、椿忠雄は、患者の舌がしばしば緑色の苔に覆われていることに注目し、スモンの本態に関連があるのではないかと考えたが、とくに深い研究は行なわなかつた(甲第三号証)。又、高崎浩も、しばしば黒褐色ないしは黒緑色の厚い舌苔を観察したこと及びときに緑色便を呈する症例に遭遇したことを昭和四一、四二年に報告した(戊第七一号証)。更に昭和四四年には、東京の石山功ら(石山病院)及び岡山の島田宜浩(岡山大)が緑灰色舌苔観察を報告した。

昭和四五年(一九七〇年)二月七日の日本神経学会関東地方会において、高須俊明、井形昭弘ら(東大脳研究所神経内科、当時)は「スモン患者にみられる緑毛舌について」研究発表をしたが、その内容は概ね、①スモン患者の緑舌は緑色調をおびた舌毛から成り、緑毛舌と呼ぶのが適当であり、緑の色調はスモンに特異的であるという印象が強いこと ②緑舌はスモンにかなり一般的な現象といつてよいと思われること ③緑舌はその大多数例において急性腹部症状、神経症状の初発又は再燃を伴つて発現しており、スモンの診断、再燃の予知に有力な参考条件となるのみでなく、スモンの病因と何らかの関連をもつ可能性が強く示唆されること等であつた(甲第一〇号証)。更にその頃、井形らは、緑黒便とスモンの臨床経過の消長に関連があることを報告した(甲第一一号証)。

緑色物質の分析同定は難航していたが、昭和四五年(一九七〇年)三月から東大薬学部薬品分析化学教室(田村善蔵教授)でも開始した。五月に緑尿を材料にし始めてからは田村教室の分析は急速に進み、六月には結果が出されたが、それによれば、尿中の緑色物質は三価の鉄イオンとキノホルムとのキレート化合物(同一中心金属イオンに対して、一つの配位子が配位結合により二つ以上の配位座を占めて環状構造をもつ化合物)であつた(甲第一三号証の一)。更に、孤塚寛(科学警察研究所)・井形らは、緑色舌苔からヨードを検出し、キノホルム分子中に含まれるヨードによるものと推定したが(甲第一四号証)、今成登志男(東大)・田村はガスクロマトグラフイーによつて緑色舌苔中のキノホルムの存在を確認した(甲第一五号証の一)。

2 椿によるキノホルム説の提唱

昭和四五年(一九七〇年)六月末のスモン協で緑舌の分析結果が発表された後、椿らは、「緑舌が患者のかなりの率に出現し、それが疾患の消長に関係のあることより、これがスモンの成因と関係があるのではないかと考え、両者の関連を主として疫学的に調査したところ、推定を裏付ける成績を得た」(甲第三号証)として、同年八月六日スモンの発生はキノホルム服用と関係があることを公表し、新潟県衛生部を通じてその旨を厚生省に報告した(乙第一二号証一〇五頁以下)。

九月五日の第三四回日本神経学会関東地方会において、椿ら(甲第三号証)、吉武泰男(石山病院)・井形(甲第一六号証の二)、高須ら(甲第一七号証)は、スモンの病因がキノホルム剤服用であることを示唆する研究発表を行なつた。ここではまず、椿らの主張の主な根拠を掲げておくこととする。即ち、①新潟県の六病院及び長野県の一病院においてスモンと診断された患者一七一例について調査したところ、神経症状発現前にキノホルムを服用したものはスモン患者の九七%に達する。②神経症状の発現時期とキノホルム服用時期には密接な関係がある。③キノホルム一日服用量の多いものは、比較的短期間の服用で発病する場合がある。④服用量と重症度にはある程度の相関があるごとくである。⑤病院のキノホルム使用量の推移と患者発生頻度の推移は関連がある。⑥集団発生のため伝染を疑われた病院の発生は、キノホルムを以て説明できる。⑦本邦におけるキノホルムの販売量の推移は患者発生数の推移とよく並行する。⑧県別一人当りの販売量の多い県はスモン発生率が高い(丙第九号証)。

四行政措置とキノホルム説の展開

昭和四五年(一九七〇年)九月七日、中央薬事審議会(会長石館守三)は「本病発生に対してキノホルムがなんらかの要因になつている可能性を否定できないので、事態がさらに明確になるまで当分の間下記の措置をとることが適当である」として、①キノホルム及びキノホルムを含有する製剤の販売を中止させるとともに、これらの使用を見合せるよう警告すること、②他の八・ヒドロキシキノリンのハロゲン誘導体についても同じ扱いをすること、③腸性末端皮膚炎等医療上本剤を使用することが特にやむを得ない場合については、別途考慮することの三点を厚生大臣宛答申し、これを受けて、同年九月八日、各都道府県知事あて厚生省薬務局長通知(以下単に「行政措置」ともいう。)が発せられたが、その内容は、①キノホルム及びブロキシノリン並びにこれらを含有する医薬品の販売を当分の間中止させること。②キノホルム及びブロキシキノリン並びにこれらを含有する医薬品であつて、既に販売されているものについては、その使用を見合わせるよう広く一般に周知を図ること。③腸性末端皮膚炎等医療上これらの医薬品を使用することが特にやむを得ない場合の措置については、追つて通知すること。④キノホルム及びブロキシキノリン並びにこれらを含有する医薬品の製造(輸入)は、今後当分の間承認及び許可しないことというものであつた(乙第三二号証の一・二)。

右の中央薬事審議会で意見を求められたスモン協の会長甲野礼作は、キノホルム説を疑わしいとは思いつつ、確信を持てなかつたのであるが、もしもキノホルムがスモンの原因であるならば、その発売中止をすることによつて爾後の患者の発生を防ぎ得る、そういう意味では疫学的には将来に向つての実験即ちプロスペクテイブスタデイの一つにもなりうる旨の見解を表明し、発売中止等の行政措置に賛意を発表したのであつた(乙第一五号証九〇頁以下)。

その後スモン協においては、全国スモン患者のキノホルム剤服用状況調査の分析結果、班員による疫学的調査研究、動物実験等によつて次第にキノホルム説が有力となつていつたが、ついに昭和四七年(一九七二年)三月一三日のスモン協総会において、会長甲野は「スモンと診断された患者の大多数はキノホルム剤の服用によつて神経障害を起こしたものと判断される」旨の総括をなすに至つた(甲第一号証)。

そして更に、スモンの発症機序等多くの不明の点を解明するために研究が続けられたが、同年七月にスモンはベーチエツト病等七疾患と共に「特定疾患」に指定されたのでそれに伴い、研究組織の名称は厚生省特定疾患調査研究スモン班(以下「スモン班」と略称する。)に変更された。

ところで同年九月二四日、スモン協としては最後の総会が開催されたが、研究会終了後会長甲野から、今後の研究の柱をキノホルムの代謝を中心としたスモン発症機序の研究及びスモン患者の治療、リハビリテーシヨンにおくこと、並びに井上ウイルス(京大井上幸重らによつてスモンの病因であると主張されているウイルス)の研究は新しい事態がおこるまで凍結したい旨の提案がなされ、了承された。

第二  臨床像及び病理像

一臨床像

〈証拠〉により認められる事実は以下のとおりである。

スモンの臨床像の把握は、スモン協において作成された「スモンの臨床診断指針」(以下単に「診断指針」という。)によるのが簡易かつ的確である。これは、キノホルム説登場以前の昭和四五年(一九七〇年)五月八日に正式に決定されたものであり、かつ診断基準ではなく、スモンを正確に診断するためのガイダンスである。診断指針の内容は次のとおりである。

必発症状

1 腹部症状(腹痛、下痢など)

おおむね、神経症状に先立つて起る。

2 神経症状

a 急性又は亜急性に発現する。

b 知覚障害が前景に立つ。両側性で、下半身、ことに下肢末端につよく、上界不鮮明である。とくに、異常知覚(ものがついている、しめつけられる、ジンジンする、その他)を伴ない、これをもつて初発することが多い。

参考条項(必発症状と併せて、診断上きわめて大切である。)

1 下肢の深部知覚障害を呈することが多い。

2 運動障害

a 下肢の筋力低下がよくみられる。

b 錐体路徴候(下肢腱反射の亢進、バビンスキー現象など)を呈することが多い。

3 上肢に軽度の知覚・運動障害を起こすことがある。

4 次の諸症状を伴なうことがある。

a 両側性視力障害

b 脳症状、精神症状

c 緑色舌苔、緑便

d 膀胱・直腸障害

5 経過はおおむね遷延し、再燃することがある。

6 血液像、髄液所見に著明な変化がない。

7 小児には稀である。

なお、必発症状である腹部症状については更に分析がなされており、甲第一八号証(井形ら)、丙第七号証(大村一郎ら)、丁第六号証(七七頁以下、黒岩義五郎ら)、戊第二二号証(安藤一也ら)及び戊第二五号証(加瀬正夫ら)の各研究を総合すれば、スモン患者の神経症状発現に先行する腹部症状は、キノホルム剤服用の端緒となつた下痢に代表されるような一般的な胃腸障害にみられる腹部症状と、キノホルム剤服用の結果発現した腹痛、食思不振、便秘、悪心、嘔吐、腹部膨満等の出現するイレウス(腸閉塞)様症状等いわゆる前駆腹部症状との二種類に分けられ、後者はスモンの神経症状の一部(自律神経への影響)と考えられていることが認められる。しかしながら、スモン研究の過程においては、後者のスモン特有の腹部症状は神経症状と呼ばないのが一つの約束事とされていたように見受けられるので(概念の混乱を避けるためであろう。)、以下神経症状というときは、この腹部症状を含まない神経症状の意味で用いることとする。

二病理像

〈証拠〉によれば、死亡患者剖検例の検討の結果は概ね次のようにまとめられる。

病変の主座は脊髄と末梢神経にあり、脊髄では長神経路即ち後索と側索の対称性の変性がある。後索の変性は腰髄下部ないし仙髄上部より始まり、上行するに従つてその程度を強め、かつ内側のゴル索(薄束)に限局する傾向を示す。側索の変性は、中部ないし下部胸髄の高さより以下にみられ、これは後索変性の場合とは逆に、下行するに従つて明瞭となる。頸髄の高さでの変化のみられないことは、側索の変性が二次変性(ウオラー変性)ではなく原発性のものであること等の所見がみられる。末梢神経では末端ほど強く侵され、その変化は常に左右対称性であり長い神経路の遠位部ほど侵され方が強く、神経線維の軸索、髄鞘の双方に病変(びまん性或いは単性の脱髄と、同部のシユワン細胞の増殖等)があるが、どちらかというと軸索の変化のほうが早く現われ、かつひどい(脱髄疾患との相違)。視神経は通常視索と視神経交叉附近に脱髄変性が強く、乳頭黄斑線維束がとくに侵され、綱膜の神経細胞も変性に陥る。その他延髄オリーブ核、小脳皮質、赤核、四丘体など中枢神経系の広範囲な神経細胞変性が認められる。

神経系以外の病変は、スモンに特異的なものを見出すのがむずかしいが、腸、肝、膵、腎などに病変が報告されている。ただ舌の過角化症はかなり特有で、キノホルム鉄キレート化合物の沈着によつて、しばしば緑毛舌といわれるような状態を示す。

第三  予後・治療

一予後

〈証拠〉によれば、スモン協治療予後部会は、昭和四六年五月三一日を調査票提出期限として、スモンの予後調査を実施したこと、九八一例の資料が回収され、その集計結果は以下の如く要約されていることが認められる。

1 六〇才以上の高令者は若年者に比べ一般に予後が悪い。予後については男女差はみられない。

2 ライフ・テーブル法による累積死亡率によると、一般にみられる期待値の約二倍である。

3 全体として発症後七ないし一二か月で約八〇%にはなんらかの改善がみられ、それ以後の経過でもほぼ同じ率である。

4 発症時にみられた腹部症状は経過に伴い激減している。

5 神経症状のうち、運動障害の予後が最も良好である。知覚障害の全治例は極めて少ないが、経過に伴い約六〇%は軽快する。視力障害は経過に伴い約四〇%は全治、軽快するが、約九%に悪化がみられ、運動障害、知覚障害に比べ悪化する率が高い。

6 発症後長期間キノホルム服用群では短期間服用群に比べ、高度、中等度の運動障害、知覚障害、視力障害の頻度が高い。死亡率も長期間服用群に高い。

7 再燃は16.7%で、発症後一八か月までに再燃の六八%がみられる。男女別には再燃頻度に差がない。キノホルム長期間服用群では再燃が高率にみられる。

8 歩行不能、介助を要するものは10.5%であるが、着衣、用便不能の率は極めて低い。

9 発症後一二か月以上では、約六五%は社会復帰し就労している(なお、主婦では家事をしている場合就労として取り扱つている。)。就労率は性別には差はないが、高令者程低い。

10 約二〇%は治療を受けていない。治療を受けていない率は若年者の方が高い。年令別では高令者程入院治療を受けている率が高い。

又、〈証拠〉によれば、片岡喜久雄(国立東京第二病院)らが昭和四八年に、発症後二年から一二年を経過した一三二例の予後調査をしたところ、「知覚障害は病盛時にくらべて半数以上が軽快していたが、発症当時重症例でも軽快率はよく、却つて軽症例の方が軽快率が悪かつた。これはたとえ軽症でも後遺症として残る可能性の多いことを示すものである。運動障害は知覚障害に比して軽快率はよく七〇%であつたが、視力障害の軽快率は最も悪く19.6%にすぎなかつた。一般に高齢者程各神経症状の軽快率は悪くなる。」との結果を得ていることが認められる。

二治療

〈証拠〉によれば、スモン協治療予後部会は昭和四七年にスモンの治療指針を作成したこと、これは要するに当時におけるスモンの主要治療法の概説であり、その内容は、全身状態に関する配慮、腹部症状に対する処置、神経症状の治療、眼科的治療、日常の生活指導、心理指導と精神安定剤などの規制、リハビリテーシヨンの七主要項目から成り、更に神経症状の治療については薬物療法(ステロイド或いはACTH療法、各種ビタミン及び神経代謝賦活剤の応用、血管拡張剤の応用等)、硬膜外麻酔療法、高圧酸素療法の三ジヤンルに分けて具体的療法が考えられ実施されているが、多様な治療法の存在にも拘らず、スモンの経過は概ね遷延し、難治性の症状がいつまでも残ることは以前とあまり変化がないことが認められる。

第二章  キノホルム

第一  化学

〈証拠〉によれば、キノホルムの分子構造式は、キノリンの八位に水酸基がついた八・ヒドロキシキノリン(単にオキシキノリン又はオキシンと呼ばれることもある。)の、五位、七位の各水素がそれぞれ塩素、ヨードによつて置き換えられたもの、即ちC9H5ONC1Iであることが認められる。その性質については、丁第一二二号証の三(グツドマンとギルマン共著「治療学の薬理学的基礎」第三版一九六五年)によれば、かさばる、海綿状、褐黄色、無味の粉末で水に殆ど溶解せず、約四〇%のヨードを含有していることが認められる。

キノホルム剤とは、右キノホルムを有効成分として含む医薬品であることは当事者間に争いがない。

第二  沿革

一開発及びわが国への輸入

〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

キノホルムは一九〇〇年(明治三三年)に、ヴイオフオルムという商品名で防腐創傷剤として、スイス国バーゼル化学工業会社(頭文字をとつてチバ社と呼ばれた。これが一九七〇年にJ・R・ガイギー社と合併してスイス国チバガイギー社となつたことは原告らの明らかに争わないところである。)から製造発売された。一九一三年(大正二年)、チバ社は日本におけるチバ製新薬の総代理店を横浜カールローデ商会に委託した。同年欧州より帰朝した今井源四郎は右総代理店内にチバ日本学術部を設置して、チバ製新薬の輸入発売を始め、防腐創傷剤ヴイオフオルム「チバ」は、その一手発売元となつた東京三共株式会社から販売されたが、全チバ製新薬の関西における特約店は大阪武田長兵衛商店(被告武田の前身)に依頼することとなつた。

二内用化

〈証拠〉並びに文献10、11、14によれば、次の事実を認めることができる。

一九二九年(昭和四年)、梶川静夫(梶川内科病院)は、ヨードホルムが赤痢又は急性大腸カタルの治療に効果があることの経験に基づいて、その代用薬であるヴイオフオルムを急性大腸カタル、疫痢等の患者に内服処方し、効果のあることを報告し、又、一九三一年(昭和六年)チバ社(ニユーヨーク市)他一社の援助を受けたアンダーソンらは、ヴイオフオルムがモルモツトでの有効な殺バランチジウム剤であることが判明し、かつ、サルに反復投与しても比較的低毒性であることを指摘し、かくしてヴイオフオルムの内用薬としての使用法が発見された。更に、一九三三年(昭和八年)デービツドらがヴイオフオルムを使つてのアメーバ症患者に対する臨床試験治療に関して報告したことを契機に、各国においてアメーバ症患者における内用薬としてのヴイオフオルム使用効果に関する文献が多数発表された。その結果チバ社は、一九三四年(昭和九年)に、ヴイオフオルムの腸内面における乳化とその分布を容易にし以て薬効を大ならしめるために、ヴイオフオルムにサパミンを配合したエンテロ・ヴイオフオルム(商品名)を製造したが、これはヴイオフオルム同様わが国でも発売された。なお、既に一九二二年(大正一一年)以降は、大阪武田長兵衛商店がわが国におけるチバ製新薬の総代理店発売元となつていた。

三わが国におけるキノホルムの開発と日本薬局方等における取扱いの経緯

右については後記第六章第五の六の2及び3並びに同5に認定しているとおりである。

四被告会社によるキノホルム剤の輸入・製造・販売

1 被告チバ、同武田

〈証拠〉に、当事者間の争いのない事実を総合すると、次の事実を認めることができる。

昭和二五年頃、被告武田はキノホルム及びビオメチンを製造販売していたが、昭和二七年一二月に、スイスチバ社の一〇〇%出資子会社であるチバ製品株式会社(その後スイスチバ社の合併に伴い被告チバとなる。)が設立され、翌二八年にエンテロ・ヴイオフオルム原末の輸入が開始されるとともに、チバ製の全医薬品を被告武田に一手供給し販売させる旨の同年三月三一日付の配給契約が締結された。しかしチバ製品は製剤のための打錠、小分けの設備を有していなかつたので、昭和三六年(一九六一年)までは被告武田の工場において打錠、小分けの作業が行なわれた。かくして、被告チバがエンテロ・ヴイオフオルム、メキサホルム等のキノホルム剤を輸入又は製造し、被告武田がこれらを販売するという体制が昭和四五年(一九七〇年)九月に行政措置がとられるまで続けられた。

2 被告田辺

第二次大戦前東京衛生試験所においてキノホルムが生産されていたが、右製造方法を開発した技手篠崎好三は、大戦後八洲化学に入社するとともに国立衛生試験所から製造用機械等を譲り受けて、昭和二一年(一九四六年)八月にキノホルムの製造を開始した。その後昭和二八年(一九五三年)二月頃から、八洲化学は、キノホルムの消化管内での分布分散力を強化するためにカルボキシメチルセルローズ(CMC)を添加した「乳化キノホルム“ヤシマ”」を製造販売したが、昭和三〇年(一九五五年)四月に同社は倒産した。

被告田辺は、八洲化学の債務整理の原資捻出方策の一環として、同社立石工場の工場設備一式を賃借し、これを稼働し、完成品として換価することを引き受け、同年一一月には被告田辺の全額出資によつて立石製薬株式会社を設立し、同社をして八洲化学立石工場の工場設備一式を使用してキノホルム、乳化キノホルム等の製造を行なわせることとした。そして被告田辺は、右立石製薬からキノホルム、乳化キノホルムを購入し、製造許可に基づいて昭和三一年(一九五六年)四月にエマホルム、エマホルム錠の販売を開始し、昭和四五年(一九七〇年)の行政措置まで継続した。

以上の事実は当事者間に争いがない。

五キノホルム規制の現状

〈証拠〉によると、国際消費者連盟は、一九七四年七月から一九七五年一月の間に国際的に行なつた調査結果を、一九七五年(昭和五〇年)六月に「クリオキノール入手状況と使用上の注意」と題する報告書として発刊しているが、八四か国の各国薬剤協会へのクリオキノール(キノホルムのこと)の入手に関する制限状況の照会に対し、回答を寄せた三五か国での状況は次のとおりであることが認められる。

1 使用を禁止している国 日本、米国

2 処方箋によつてのみ、かつ、腸性末端皮膚炎に対してのみ使用することができる国 ノルウエー、スウエーデン

3 処方箋によつてのみ入手することができる国 オーストリア、フインランド、フランス、アイスランド、イタリア、オランダ、ユーゴスラビア、ニユージランド、オーストラリアの数州、フイリツピン

4 一四日間、一日一錠三回と明示していないなら、処方箋によつてのみ入手することができる国 デンマーク

5 処方箋なしで、薬局でのみ入手することができる国 ベルギー、ジブラルタル、アイルランド、ルクセンブルグ、スペイン、スイス、ビルマ、バミユーダー、カナダ、グワテマラ、ガーナ、南アフリカ、タンザニア、エジプト、レバノン

6 処方箋なしで、どんな店ででも入手することができる国 英国、ケニア、ザンビア、香港、マレーシア

7 回答中で法的規則の状況については直接ふれていないが、処方箋なしで入手することができるとしてサンプルを送つてきた国 ブルガリア、ギリシヤ、ポルトガル、西ドイツ、ベリーズ、ブラジル、エクアドル、メキシコ、アルジエリア、チユニジア、イラク、イスラエル、インド、インドネシア、シンガポール、スリランカ、台湾、タイ

8 回答中で法的規制の状況については直接触れていないが、入手につき処方箋を必要とするとしてサンプルを送つてきた国 トルコ

第三章  因果関係

第一  はじめに

原告らは、スモンはキノホルム服用による中毒症である旨主張し、その根拠として、①スモン患者は、神経症状発現前にキノホルム剤を服用していることがその大多数について判明していること。②わが国におけるキノホルム剤販売量とスモン発生数との間に比例的な相関関係がみられること。③行政措置後スモン患者の発生数が激減したこと。④動物実験によつてスモンと同様の症状及び病理変性が見られたこと、以上の事実を挙げている。

これに対して被告会社は、スモン全体像を説明するにはキノホルム説では不十分である旨反論して争い、被告チバは日本特有の何らかの要因(但し、特にそれを具体的に明示しているわけではない。)の存在を主張し、又被告田辺は井上ウイルスがスモンの病因である旨主張している。よつて本章においては、まず原告らの挙げる根拠の順序に従つてキノホルム説の検討を行なつた上で、他病因の主張(即ち被告田辺が強力に主張するウイルス説)について検討することとする。もつとも、キノホルム説によつてスモンを説明するにはまだ残された問題がないわけではないが、特に被告会社の反論の要約を次に列挙し、後で適宜説明を加えることとする。

(一)  キノホルムを服用せずにスモンになつた例が少数ながらある。

(二)  少量短期服用で発症したり、逆に大量長期服用で発症しない例がある。

(三)  女子に多い。

(四)  子供に少ない。

(五)  欧米に少ない。

(六)  何故昭和三〇年頃から発生し急増したか。

(七)  キノホルム消費量が不変な時期に発生が減つた事例がある。

(八)  服用していても軽快する例がある。

(九)  行政措置以前に既に減少の傾向がある。

(一〇)  動物実験での投与量が人の常用量より多い。

(一一)  行政措置以後に少数ながら新発生がある。

(一二)  何故腹部症状を伴うのか。

第二  キノホルム説の検討

一キノホルム剤服用とスモンとの関係

1 スモン患者のキノホルム剤服用状況調査とその解析

〈証拠〉によれば、昭和四五年九月から一〇月にかけて、「確実なスモン患者で、発病前後の服薬状況の明らかなものを対象に、キノホルムの服用状況を調査し、スモンとキノホルム剤の因果関係を検討すること」を目的として、スモン協臨床班所属の班員二〇名に対し調査依頼がなされ、スモン協として第一回目の調査が実施されたが、その集計結果は、調査症例八九〇例から薬剤使用状況の不明な一四八例を除いた七四二例のうち、スモンの神経症状発現前六か月以内にキノホルム剤を服用していたものは六一〇例(82.2%)であり、右同期間にキノホルム剤を確実に服用していないものが一一〇例(14.8%)であつたこと(二三五頁表四参照)が認められる。ちなみに、服用・非服用が確実とされるもののみについていえば、服用率は84.7%で非服用率は15.3%である。

そして〈証拠〉によれば、重松逸造(国立公衆衛生院)らは本調査の総括として、①神経症状発現前後におけるキノホルム使用の有無別及び使用キノホルムの量別(キノホルム使用量とは、製剤の種類に拘らずキノホルム純量として総使用量を計算したもの)に、スモンの各症状の程度、経過、重症度、再燃の有無、既往の手術或いは性、年令との関連を、キノホルム剤使用の有無が明らかな六七二例について観察したが、いずれの場合も明瞭な量と反応の関係は認められなかつたこと。②しかし一部にはそのような傾向を示す所見があり、この場合神経症状発現前のキノホルム使用量よりは、発現前後合計のキノホルム使用量の方がより関連が深いように思われたこと。③ただし、ここでみられたキノホルム使用量とスモン症状との関係が真に量と反応の関係を示しているのか、即ち、キノホルム投与量が多かつたから患者が発症し、或いは悪化したのか、それともスモン患者だからキノホルムが大量に使われたのかといつた点は慎重に検討される必要があること。④なお報告例数の偏り補正の意味で、一班員二〇例ずつを抽出して一五班員三〇〇例について同様の観察を行なつたが、その結果は全数観察の場合と大差はなかつたこと等述べていることが認められる。

次に、〈証拠〉によれば、翌昭和四六年に、「全国スモン患者のキノホルム剤服用状況を調査し、両者の因果関係を検討すること」を目的として、スモン協による第二回目の服用調査(今回はスモン協の臨床班員を含む全国の医師に協力を求めて行なつたもの)が実施されたが、その集計結果は、調査総数二四五六例から薬剤使用状況の不明な六一七例を除いた一八三九例のうち、スモンの神経症状発現前六か月以内にキノホルム剤を服用していたものが一三八一例(75.1%)であり、右期間内にキノホルム剤を確実に服用していないものが二六九例(14.6%)であつたこと(九四頁表四参照)が認められる。やはり、服用・非服用が確実とされるもののみについていえば、服用率は83.7%であり、非服用率は16.3%である。

そして〈証拠〉によれば、山本俊一及び中江公裕(いずれも東大)は本調査の総括として特に結果への信頼度につき、①調査標本はスモン患者の地域分布と多少異なつて近畿、中国地方に偏在する傾向があるが、報告県は一応三八道府県に及ぶこと及びスモンの示す実態像には著明な地域差はみられないことを考慮すると、データ脱落に基づく偏りについては、それ程重大に考慮する必要はなさそうに思われること ②第一回調査の結果と比較してみると両者は殆ど大差ない成績であり、このことは、この二回にわたる調査結果に対する信頼性を裏書きするものであると思われること ③ただ、調査結果の解釈にあたつては、記載の不明確さ、サンプル数の不均一さ、対照群を欠くこと等の理由のために、慎重でなければならず、今回の結果は、他の疫学調査の結果と併せて検討することによつて、はじめてその意味するところを正しく評価することができると思われること等述べていることが認められる。

2 スモン協班員によるキノホルム剤服用状況調査

スモン協班員の個別の調査研究において、スモン患者の大多数が神経症状発現前にキノホルム剤を服用していたとの結果が示されたものを列挙すると、次のとおりである。

(一) 椿ら(甲第三号証三〇頁)―一七一例中一六六例(97.1%)……新潟県と長野県の調査による。

(二) 井上尚英、黒岩義五郎(九大)ら(甲第二一号証)―二七例中二五例(92.6%)……福岡市南部六地区の調査による。

(三) 祖父江逸郎(名古屋大)ら(丁第二号証一三二頁)―二八二例中九二%

(四) 藤原哲司(京大)ら(同号証一九五頁)―三三例中三〇例(90.9%)……京都地区の調査による。

(五) 三好和夫(徳島大)ら(同号証二〇〇頁)―二四例中二二例(91.7%)……徳島大学病院ないし関連病院の調査による。

(六) 伊東弓多果(伊東内科医院)ら(丁第六号証一二頁以下)―二二例全員……釧路市立病院の調査による。

(七) 越島新三郎(国立東京第一病院)ら(同号証九三頁)―五一例全員

(八) 井形ら(甲第七号証一〇二三頁)―三四例全員……都内石山病院の調査による。

右のようにみてくると、調査限界を考慮に入れれば、殆どのスモン患者は発症前キノホルム剤を服用しているものと考えられる。

3 対照群を設定した調査結果

〈証拠〉によれば、別々に行なわれた四つの「キノホルム服用および非服用患者よりのスモン発症に関する症歴調査」(症歴調査とは、対照群との比較によりその疾病発生に影響する因子を探求する方法であり、もし差異が認められたときは、それが偶然事象としては起き難いことを統計学的に検討することが必要である。戊第七〇号証七一頁)においては、いずれも、五%又は0.1%以下の危険率で、キノホルム治療を受けた群にスモンの発生が有意に高かつたことが認められる。なお、同表中の吉武泰男(石山病院)らの調査は甲第一六号証の一・二、青木国雄(愛知県がんセンター研究所)らの調査は丁第八号証(二五七頁以下)、椿らの調査は甲第四号証にそれぞれ詳述されているが、更に椿は丁第三七八号証において、甲第四号証とは別の病院についての調査結果をも報告しており、この病院においてもスモンとキノホルム服用の相関は0.1%の危険率で有意であつた旨述べている。(ちなみに、危険率及びその関連概念である帰無仮説についてふれておこう(丁第一三六号証の三、戊第三五八号証の一参照)。本件においては要するに、キノホルム服用とスモン発症との間には有無の相関が存しないという仮説をたてて、その仮説が正しいとした時に偶然によつて両者の相関が出現する確率を計算してみると、それは五%又は0.1%以下という非常に小さな率であつたので、めつたに起こらないことが自然に起こるはずはないという考え方から、仮説は捨てられ、両者間には有意の相関が認められるという結論を引き出したわけである。この率を危険率というのは仮説が正しいにも拘らず仮説を捨ててしまう危険がやはり残されているからである。乙第一五号証(一一五頁)によれば、甲野は、危険率が0.05、即ち五%(俗つぽく言えば、一〇〇回に五回の割合でしか、ちがつた結果が発生しないこと)以下ならば有意と考えるのが医学的常識である旨述べている事実が認められる。)

ところが、被告田辺は、右各症歴調査のうち吉武らの調査について、この調査においてはキノホルム剤服用の有無以外の各種要因(症例数、疾患別分類、年度別分類、年令性別分類、手術時期、手術々式分類、輸血分類等)が両群できわめてバランスがとれており、このようなことが偶然に起こつたとすれば、これは医学的常識上きわめて奇異な現象といわねばならないし、他の調査についても、それらはいずれも対照群の集め方を誤つており(統計の)専門家の承認が得られるようなものではない旨主張するが、右主張を根拠づけるに十分な証拠は存しない。

ちなみに、椿らの調査(甲第四号証)においては、同人らは、キノホルムを服用する消化器疾患と服用しない消化器疾患とは異なるのではないかという批判を考慮して、消化器疾患になんらかの「偏り」があつたかどうかを調査し、数の多い胃炎、腸炎、胃腸炎それぞれの組み合わせでカイ自乗検定を行なつたが、いずれも有意の差はなかつたことを確認していることが認められる。更に、乙第一二号証(一〇七頁)によれば、椿は、キノホルム剤服用群(特に一四日以上服用群)の方が下痢が長く続いたという差異があつたことを認めているが、長期の下痢の存続する病気がスモンであると結びつけるわけにはいかないことは同人の述べるとおりであり(一〇八頁)、以上の事実は、椿らが対照群の選び方についても慎重な態度をとつていたことを窺わせるものといえよう。

二量と反応の関係

1 はじめに

量と反応の関係(dose-response rela-tionshipの頭文字をとつてDRRと呼ぶこともある。)について、重松は次のように述べている(戊第二四三号証、三六頁)。

「もともとこの関係は、中毒学の方で毒物の量と生物反応がS状曲線(シグモイド又はドウス・リスポンス・カーブともいう。)を示すことでよく知られているが、毒物の代りに病原体を用いた場合でも、また宿主である生物が人間の場合でも、多数例について観察すれば、同様の関係が成立することが確かめられており、このことから逆にこの関係が認められる場合には、因果関係の存在する公算が大きいというわけである。」

即ち、乙第一二号証(一一五頁)の椿の表現によれば、量が多くなるほうが患者の発生が多くなるという関係であるということができるであろう。

そこで以下において、キノホルムとスモンとの間にDRRが存すると認められるか否かについて検討するが、その順序としては、まず巨視的にキノホルム剤販売量とスモン発生数との関係(これをDRRといつてよいかについては疑いなしとしないが、一応の傾向を知るという意義を見い出せよう。)を見た後で、次に、キノホルム服用とスモンとの間にDRRが見られたとする報告を、(一)服用量と発症率との関係、(二)服用量と重症度との関係、(三)一日服用量と服用期間との関係の三項に分けて見ていくことにしよう。

2 キノホルム剤販売量とスモン発生数との関係

(一) キノホルム剤の生産販売量の推移

〈証拠〉によれば、昭和四五年九月二日に厚生省で行なわれたキノホルムに関する打合せ会において、以下の内容の資料が配付された事実が認められる。

(1) 戦前のエンテロ・ヴイオフオルム生産販売量(キノホルムとして原末換算)

昭和一一年(一九三六年)  8.1kg昭和一四年(一九三九年)  1.2kg

昭和一二年(一九三七年) 20.6kg昭和一五年(一九四〇年) 33.9kg

昭和一三年(一九三八年) 26.4kg  (昭和一六年以降不明)

(2) 戦後のエンテロ・ヴイオフオルム生産販売量(同右)及びキノホルム原末生産輸入量

エンテロ・ヴイオフオルム

キノホルム原末

(製造+輸入)

昭和二八年(一九五三年)

三八・三kg

昭和二九年(一九五四年)

一七六・五kg

昭和三〇年(一九五五年)

三四一・五kg

昭和三一年(一九五六年)

七四二・七kg

昭和三二年(一九五七年)

一五五八・九kg

昭和三三年(一九五八年)

二五四九・三kg

昭和三四年(一九五九年)

三六八三・九kg

昭和三五年(一九六〇年)

四五一八・八kg

昭和三六年(一九六一年)

六九五八・〇kg

昭和三七年(一九六二年)

八四四八・五kg

二三・四t

昭和三八年(一九六三年)

八三七四・〇kg

三六・三t

昭和三九年(一九六四年)

一一五七四・二kg

三〇・七t

昭和四〇年(一九六五年)

一一一九八・二kg

三二・二t

昭和四一年(一九六六年)

一〇一八八・三kg

二四・一t

昭和四二年(一九六七年)

一〇二二九・三kg

二九・六t

昭和四三年(一九六八年)

九五五六・四kg

三三・六t

昭和四四年(一九六九年)

一〇六七二・五kg

三六・三t

もつとも右資料は、わが国における全キノホルム剤販売量の動向を示すものではない。しかしながら、一応の傾向を知るための手がかりとしては十分な資料であると評価できる。

(二) 甲野のグラフ

甲第六号証の図8は、「キノホルム剤の年次別生産および輸入量(原末換算)とスモン患者の年次別発生数の関係」と題して、国産キノホルム原末生産量、外国産E剤輸入量、同M剤輸入量及びスモン患者発生数のそれぞれの年次別推移を折れ線グラフで表示したものであるが、同図によると、キノホルム剤の生産・輸入量は昭和三〇年頃から三五年頃にかけて急増していること、一方スモン患者の発生は昭和三三、四年頃から三七年頃にかけて急増し、一旦横ばいの傾向を示した後で昭和四〇年頃から再び急増していることがそれぞれ認められるのであつて、両者の増加傾向に何らかの関連があることを窺わせるものである。

(三) 椿らの研究

〈証拠〉によれば、椿らは、まず図7として、「本邦における年度別キノホルム剤生産量(C社分)とスモン患者発生数」をグラフに表わして、その説明として「スモン患者の発生は昭和三〇年頃から起り、次第に増加している。一方キノホルム剤は三〇年前より本邦で用いられているといわれているが、実際に生産量は昭和三〇年頃より増加しはじめ、その後急激に増加している。すなわち、キノホルム剤生産量とスモン患者発生数はほぼ並行している」旨述べていること、次に図8として「C社提供の資料により同社の府県別キノホルム剤販売率(昭和四三年度)を計算して、これと昭和四二・四三年の府県別患者初診率とを比較したところ、この両者は比較的よく並行している」旨述べていることが認められる。(ちなみに図8については、〈証拠〉によれば、0.1%の危険率で有意差が認められるという。)これらによれば、原告ら主張の如きキノホルム剤販売量とスモン発生数の増加傾向の一致が窺えなくはない。

もつとも、〈証拠〉によれば、椿は、①後者のように県全体でみるというような見方は、あまり正確でないこと(一二四頁)②キノホルム剤を生産・販売していたのはC社だけではないから、その点で誤差が出てくること(一二五頁)を自認していることが認められるが、もともと傾向を知るための調査にすぎないのであつて厳密なものではないから、右各点を以て直ちに前掲各研究の有する意義を否定することはできない。

3 DRRに関する主要報告の概観

(一) 服用量と発症率との関係

丁第六号証(一一頁以下)の伊東らの報告によれば、釧路地方のスモン多発年である昭和四〇年のキノホルム服用外来患者五六四名について、一〇gきざみに(但し、五g以下の発症はなかつたので一〇g以下は更に〇ないし五と五ないし一〇とに分けた。)スモン発症率を計算し、横軸に使用量、縦軸に発症率をとつてこの関係をグラフに画いてみたところ、ほぼ直線になつたことが認められ、更に同様のことを昭和三九、四一年度の例について行なつたところほぼ同様の結果が出たことから、両者にはかなりきれいな直線的な比例関係があるといえるという。

次に、〈証拠〉によれば、以下の各事実が認められる。

椿は、H病院での調査結果に基づき、縦軸に発症までのキノホルム総服用量を一〇gずつ目盛り、横軸に症例数をとつて、「スモンとその疑い」、「その他の神経症状」及び「神経症状記載なし」の三つについて一〇gごとに症例数を棒グラフで表わした(スライド四一)。これによれば、総服用量が多くなるほど、スモン患者の占める割合が大きくなつている。もつとも、五〇g以上の欄についてはグラフ上だけからは量と反応の関係が明瞭でない。

しかし、それは縦軸の総服用量が神経症状発現までの量であるからであつて、五〇g以下で発症した人々は五〇g以上服用すれば必ずスモンになつていると言えるのであるが、五〇g以上の欄で、発症しなかつたとされている症例数は変化がないから、統計的には、五〇g以上についても発症率は高くなつていると言いうる。

次に、H病院及びS病院のそれぞれについて、服用総量と発症率との関係を折れ線グラフに表わしてみると、量が多くなる程、発症率が高くなるという関係が見られる(スライド四二)。そして、S病院の発症率が八〇g前後あたりで急激に減つている事実についても、椿はスライド四一と同様の説明をしている。

(二) 服用量と重症度との関係

〈証拠〉によれば、スモン協による第一回服用状況調査の総括として、「明瞭なDRRは認められなかつた。しかし一部にはそのような傾向を示す所見があり、この場合神経症状発現前のキノホルム使用量よりは、当現前後合計のキノホルム使用量の方がより関連が深いように思われた」旨述べられていたことが認められる。しかし、〈証拠〉によれば、第二回調査結果については、「視力障害の程度、緑色舌苔の合併率、重症度及び再燃率については、神経症状発現前後の総量との間には、正の相関が認められた」旨報告されていることが認められる。もつとも〈証拠〉によれば、神経症状発現前後の服用総量と重症度との相関係数(相関関係の程度を単一の数値で表わしたもので、プラス一に近ければ順相関、マイナス一に近ければ逆相関、ゼロの近くでは相関はないことになる。)は、0.123にすぎない。

〈証拠〉によれば、山本らは岡山県湯原町のY病院におけるキノホルム使用状況とスモン発生状況との関係について調査した結果、重症度とキノホルム投与量との相関係数は0.52で、投与量と重症度との間に高い相関があつたこと、その理由は該調査の経過観察に関する精度が高いことや重症度判断の基準が一定であること等の事情によるものと思われる旨報告した事実が認められる。

〈証拠〉によれば、椿らは、五六例について神経症状の重症度(但し、椿らによれば、重症とは強度の歩行障害又は視力障害のあるもの、軽症とは足首以下に知覚異常が限局しているものをいう。)とキノホルム総服用量(平均値)との関係を検討したところ、服用量の多いものは重症者に比較的多い旨報告した事実が認められる。

更に、〈証拠〉によれば、甲野は次のように述べていることを認めることができる。

岡山県の井原市民病院に収容されている視力障害の強い患者二〇人について調べた奥田観士(岡山大)らの成績によると、全盲八人では平均六四四日にわたり投与量九七九g、一日投与量平均1.52gであつたのに対し、多少とも視力の残存している一二人では平均投与量453.2g、同日数四二三日、一日投与量平均1.03gであつた。全国調査では重症視力障害の発生率は、キノホルム非服用群から1.6%、四〇g以下服用者3.9%、四一ないし一四〇g服用者2.8%であるのに対し、一四一g以上服用者では10.8%となつており、視力障害はキノホルム服用量が多くなるほど発生しやすく、重篤になるといつてよいと思われる。

(三) 一日服用量と服用期間の関係

〈証拠〉によれば、椿は、S病院のスモンとその疑の患者、非スモン患者のそれぞれについて、横軸に一日投与量を、縦軸に投与日数をとつたグラフ上に点で示したところ、非スモンのグラフでは、大部分が左の下のほう(即ち、少量かつ短期間の服用)に入つてしまう事実が認められた旨述べている(スライド四〇)。

なお、〈証拠〉によれば、椿は、キノホルム服用一日量が六〇〇mgのスモン患者六例と一二〇〇mgのスモン患者四六例とのそれぞれについて、発病までの服用期間及びその平均日数を表示したところ、前者は最低が三三日、平均が48.8日で、後者は最低が七日、平均が29.4日であつたこと、すなわち量が多くなれば早く起こる可能性があることを報告した事実が認められる(乙第一二号証スライド三五)。

又、〈証拠〉によれば、井形らが、埼玉県戸田・蕨地区のスモン患者七五例、非スモン患者二四一例について、キノホルム一日投与量と連続投与日数とを縦軸及び横軸にとつた表上に、図示して表わしたところ、スモン患者群の神経症状発現前キノホルム投与パターンは、一定の曲線より上の範囲に存在することがわかつたので、井形らは、キノホルムの一日服用量と服用期間との組合せが、スモン発症との間に関連性を有するのではないかと考え、理論的に、スモンの発症曲線を導き出し、薬物中毒を一日投与量と投与日数のパターンとして認識する考えを試み、量と反応の関係を考える上で新しい方向を示唆していることが認められる。

更に、〈証拠〉によれば、祖父江らは、二医療機関の昭和四四年度全外来患者を対象としてキノホルム使用状況を詳細にしらべた結果、両医療機関における比較検討から、スモン発症とキノホルム服用との関連では一日服用量、服用期間の組合せが重要であり、ことに一日服用量の影響がかなり大きいことを指摘した事実が認められる。

4 スモン協の総括

〈証拠〉によれば、昭和四七年三月一三日のスモン協疫学部会において、重松は右の諸種の研究報告等をふまえ、「昭和四五年九月八日に行なわれたキノホルム含有製剤の販売中止、使用見合わせの行政措置は、疫学的にいつて全国的規模で行なわれた一種のプロスペクテイブスタデイであるが、その結果スモン患者の発生は急減した。このことはキノホルム剤がスモンの発生と直接或いは間接に関係のあることを意味しているが、スモンの発症とキノホルム投与量の間にDRRが成立することも全国調査及び各個研究の幾つかで認められており、両者間の因果関係を示唆しているといつてよい。」と総括報告していることが認められる。

5 問題点の考察

(一) はじめに

前項の諸報告によれば、キノホルムとスモンとの間にも量と反応の関係を概ね認めることができると言つてよいのではないかと思料される。しかしながら、多量に服用しても発症しない例については、キノホルムに限らず他の医薬品についても、個体差の問題として説明されることが常識的といえるにしても、少量・短期間の服用で発症した例についてはどのように説明すべきであろうか、更に、井形らによつて導き出された発症曲線についても、早速、批判がなされている。本項においては、このような残された問題点について考察することとしよう。

(二) 少量・短期服用患者

まず我々は、「少量・短期」という概念の内容が非常に不明確であることに注意すべきであろう。「少量」という言葉が使われている時に、それが一日量を指す場合と、総服用量を指す場合とがあることに留意した上で、では、一日量の「少量」とは何g以下を指すのか、「短期」とは何日以下を指すのかといつたことについては、研究者間での約束事はなされていないようである。

ちなみに、椿は、乙第一二号証において、キノホルムが一g数日服用というような少ない量でスモンを起こすとは考えにくいことであり、むしろその患者がこの他にもキノホルムを服用した可能性を否定できない旨述べている。更に、後述の如く誤診の可能性も否定し得ないであろう。

(三) 発症曲線について

〈証拠〉によれば、高橋晄正(東大)は、井形らが発症曲線を導き出した前掲論文に対して、同論文は「これは一日投与量0.44g以下では長期にわたつてキノホルムを服用してもほとんど発症しないことを意味する」と結論しているが、この結論はデータ的にも又理論誘導の過程にも誤りがある旨の批判を加えている事実が認められる。

一方〈証拠〉によれば、井形らは右高橋批判に対する答えとして、指摘された問題点に対する釈明を行なうとともに、末尾において「われわれの論文の目的は、キノホルム剤の許容量を一日量0.44gと主張することではなく、理論式が実際のデータをよく説明すること、すでに調査されたスモンの大部分(約八〇%)がキノホルム中毒症であり、それは、他の中毒症の場合と同様に、原則として一定基準(方程式の示す基準)以上の薬剤服用によつて発現することを主張しているのである。」と述べている事実が認められる。

更に、〈証拠〉によれば、発症曲線は四つの仮説を立てて、それについて理論的に計算したもので、個体の条件は無視されているから、現実に何g以下の服用では絶対に発症しないかと聞かれても、はつきり答えられないものである旨、同証人は述べているのである。

以上の事実によれば、発症曲線の意義は、井形らが丙第一三三号証で述べているように「旧来の総量(一日量×投与日数)による生体負荷の研究は、時間の経過とともに回復する生体の回復能力の影響をあまり考慮に入れておらず、従つて一般論として、スモンのような亜急性または慢性的経過で発症する疾患に中毒量の考え方を適用するさいには、時間因子を重要な因子として考慮する必要がある」ことを認識させ、キノホルム服用「総量」とスモン発症との相関が必ずしも明らかでない場合でも、一日投与量と投与日数との組合せによつて分析すれば相関が窺える場合のあることを明らかにした点にあるのであつて、発症曲線より下にあるからスモンは絶対に起り得ないというような結論を導き出すのは誤りであるといわねばならない。

三行政措置後のスモン発生激減

1 はじめに

原告らは、昭和四五年(一九七〇年)九月八日の厚生省による行政措置以降、それまで毎月一五〇名を越えていたスモン患者の発生が激減した事実はスモンの病因がキノホルムであることを示すものであると主張し、これに対して被告会社は右主張を争い、その反論の骨子として、①行政措置のとられる以前から、既にスモン発生は減少の傾向にあつたこと、②昭和四五年九月以降は、本来スモンと診断されて然るべき疾患に対して、他の類似疾患の診断が下されている可能性が否定できないことを挙げており、更に被告チバは、③行政措置後に、キノホルム剤非服用スモン患者の新発生まで終熄したということは、キノホルム剤服用の有無とは無関係の現象であることを示すものである旨主張し、又、被告田辺は、④届出のないことを以てただちに発生がないとは結論づけられないことを挙げ、更に被告田辺及び被告武田は、⑤行政措置後もスモン患者の発生が報告されていることを主張している。

よつて、まず原告ら主張の事実の有無を確認した後、被告会社の各反論について逐次検討していくこととする。

2 スモン発症患者数の推移

丁第八号証の三四頁から四〇頁までには、スモンの確実例と容疑例をあわせた、発病府県別発病年月別患者数の表が記載されているが、これによると発病者数の全国計は、昭和三六年以前の総数一五三例、同三七年九八例(月平均8.2例、以下かつこ内に月平均数を示す。)、同三八年一六六例(13.8例)、同三九年二六〇例(21.7例)、同四〇年四五一例(37.6例)、同四一年七三一例(60.9例)、同四二年一四五二例(121.0例)、同四三年一七七〇例(147.5例)、同四四年二三四〇例(195.0例)であつたところ、昭和四五年一月から八月までは月ごとの最高が一七八例、最低が一二六例の間の数字(この間の月平均は151.4例)であつたものが、同年九月は三七例、一〇月は一六例、一一月は四例、一二月は六例となり、翌四六年には年間を通じ二三例(1.9例)、更に同四七年には零となつている事実が認められる。

又、同号証の四一頁から四七頁には、スモン確実例のみについて前同様の発病患者数が表示されているが、それによると全国計(及び月平均数)は、昭和三六年以前の総数が九四例、同三七年七五例(6.3例)、同三八年一〇三例(8.6例)、同三九年一六四例(13.7例)、同四〇年二八八例(24.0例)、同四一年四九四例(41.2例)、同四二年九五六例(79.7例)、同四三年一一一九例(93.3例)、同四四年一四八一例(123.4例)であつたところ、同四五年一月から八月までは月ごとの最高が一一三例、最低が九七例の間の数字(その間の月平均は94.9例)であつたものが、同年九月は一六例、一〇月は七例、一一月は三例、一二月は二例となり、翌四六年には年間を通じ一五例となつている事実が認められる。

右事実による限り、昭和四五年九月からスモン患者発生数はまさに劇的と呼べるほど急激に減少したと言つても不当ではないであろう。

このことを豊倉は、「この行政的措置は、いずれにせよキノホルム病因説の当否についての大きな鍵をにぎるプロスペクテイブスタデイであり、類例のない医学的実験でもあつた」と表現した(甲第二号証五三九頁)。

3 行政措置以前からの減少

(一) 行政措置前減少の事実の確認

丁第八号証二頁の図には、スモン患者の月別発生数(確実例+容疑例)の実測値と理論値との関係が折れ線グラフで示されているが、この図から視覚的に受ける印象によれば、スモン発生数は行政措置以前の昭和四五年五月ころから既に横ばい又は減少の傾向にあつたこと、及び年次の傾向として、昭和四四年までは毎年夏期を頂点として逐年スモンの新規発生数が増加してきた傾向が見られるのに、昭和四五年の夏期は横ばい又は減少の傾向にあつたことがそれぞれ窺える。ちなみに、戌第四〇一号証によれば、豊倉は昭和四四年九月の時点で、スモンはどの地方でもだんだん下火になつてきたとの認識を有していたことが認められる(四七頁)。

次に、多発地区における、行政措置以前のスモン発生減少の報告を見ていこう。

丁第一号証(一二三頁以下)の児玉栄一郎(秋田県衛生科学研究所)の報告によれば、秋田県においてスモンが最も多数発生したのは昭和四二年(三三例)であり、次が同四三年(二四例)であるが、同四四年は急激に減少して五例にすぎなかつたことが認められる。

丁第二号証(三頁以下)伊東の報告によれば、釧路地方では昭和三三年に一例のスモン発生があり、段階的に増加し、昭和三七年に一度ピークがあり、同四〇年に二六例という最多数の発症を見、その後急速に減少し、同四三年に二例、同四四年に一例となつたが、同四五年の一月から七月までに再び四例の発生を見た事実が認められる。

〈証拠〉によれば、金光正次(札幌医大)らは、北海道内のスモン発生の年次的推移について、釧路では昭和三七年及び同四〇年にピークを有する双峰型、室蘭では昭和四〇年を頂点とする急峻な単峰型、空知炭田と札幌、小樽地域では、それぞれ同三九年、四三年を頂点とするなだらかな単峰型の流行曲線を示した旨報告したことが認められる。

〈証拠〉によれば、大村一郎(国立呉病院)は、同病院受診者の年度別発症数について、昭和四一年にピークを示し、その後漸減していたが、同四四年に再び増加の傾向がみられた旨報告したことが認められる。

〈証拠〉によれば、小坂(岡山大)らは、岡山県井原・芳井地区におけるスモンの多発は昭和四四年度の前半で終了した旨報告したことが、又、〈証拠〉によれば、島田らは、井原市民病院でのスモン発生は、昭和四三年五五例、同四四年五三例、同四五年七例であつた旨報告したことが、それぞれ認められる。

(二) 考察

前項での検討によれば、行政措置以前に既に発生の減少傾向を示していた地方が少なからず存することは疑うべくもない事実であるといわねばならないであろう。

この現象に対するキノホルム説の立場からの説明としては、例えば、椿は、キノホルム剤投与を好む医師の転任等の理由による病院でのキノホルム剤使用量の減少を挙げている(乙第一二号証八一ないし九〇頁)。又、前掲丁第二〇号証の伊東の報告中には、患者発生の一番多かつたK病院外来患者のキノホルム服用状況の調査結果も述べられているが(一〇頁)、これによると、胃腸炎患者数は昭和四〇年と四三年との間に発生の差は見られなかつたのに、キノホルム服用患者は昭和四〇年は五六二例(7.4%)、同四三年は三〇三例(4.4%)と明らかに四三年が少なかつたこと、及びキノホルム剤の総使用量は原末換算で、四三年は四〇年に比べて約半量近くになつていたことが報告されている。

しかしながら、他方、戊第三七二号証の一(スライド四二及び四三の説明部分)によれば、島田は、井原市民病院における昭和四三年から四五年までのスモン患者発生数と、エマホルム服用患者数又はエマホルム納入量との各関係をグラフに表わしたところ、四四年後半以後は、エマホルム使用が続けられているにも拘らず、スモン患者の発生率は昭和四四年六月以前の発生率の4.7ないし5.8分の一にまで減つたことがわかつた旨述べており、更に、〈証拠〉によれば、蕨地区のB病院におけるキノホルム一日投与量の増加傾向は、同地区のスモン発生の減少傾向と矛盾する旨の報告がなされている事実を認めることができる。

しかしながら、右に掲げられた各報告例は所詮限られた地域での増減であり、全国的に見れば最も患者発生数が多かつた昭年四四年に比し同四五年一月ないし八月で二〇%程度の減少を示していたにすぎず、これが行政措置を境にスモンの発生数が全国一斉に、しかもむしろ終熄というにふさわしい激減を示したことと、同一次元で評価されるのは相当でない。前記折れ線グラフは右行政措置前の昭和四五年五月ころから既に横ばい又は減少傾向を窺わせてはいたが、それは到底右のような激減を予測させるものではなかつた。したがつて、他にこれという原因も見出し得ない以上、なお右行政措置による激減はキノホルム原因説を強く裏付けるものであり、被告会社のいう前示漸減の事実は未だこれを揺がし得ないものというべきである。

4 スモン「診断」が減つたのか

被告会社は、行政措置以降は、従来ならスモンと診断できた患者をスモンと診断することを躊躇する傾向が医療界に生じたとも考えられ、行政措置後のスモン発生数激減の報告を以て、真実激減したものと考えることは誤りである旨反論している。そして、〈証拠〉によれば、高橋晄正は、「キノホルムがスモンの原因である疑いが大きいという椿氏らの発表ののちには、同じような脳脊髄病でも面倒を恐れて医者たちはスモンという診断を下さなくなつている可能性も考えなければならず、あの時点以後の脳脊髄病の病型を詳しく調査しなければならない」旨述べていることが認められるが、これらは推測の域を出ないのであつて強力な反証とは成り難い。

なお、〈証拠〉によれば、被告田辺の健康保険組合の昭和四四年一月から同四八年一二月末までの六〇か月間のレセプトその他の調査結果において、昭和四五年九月までの二一か月間におけるスモンは六例であつたものが、同四六年一月以降の二一か月間においては三例に減少しているのに対して、多発性神経炎は五例から八例に増加していることが認められるところから、同号証の筆者は、昭和四五年一〇月以後増加した多発性神経炎という病名の患者は、その症状を診断指針に照らしてスモン患者であるといえるのではなかろうかと推測していることが認められるが、かような少数例のみによつて、しかも限られた資料のみによつてかように全体を速断することは適当ではないと思料される。

5 「激減」はキノホルム説と矛盾するか

被告チバは、スモン協によるキノホルム剤服用状況調査の結果約一五%存在するとされたキノホルム剤非服用スモン患者の発生は、キノホルム剤と関係が無く、従つて行政措置に拘らず、その発生は続く筈であるのに、実際は終熄してしまつたという事実は、スモンがキノホルム剤服用とは無関係であることを示唆するものである旨主張する。

しかし、キノホルム剤非服用スモンとされている患者の中には、実はキノホルム剤を服用した者が存在する可能性があること、及びスモンでない者がスモンと診断されている可能性があることは、後に本章第二の六の1において今少し詳しく検討することになるが、これらの可能性のスクリーニングを経たうえでなおキノホルム剤非服用スモンがあるのか、むしろその点に疑問があるといえる。

この点について、〈証拠〉によれば、椿は、「むしろ一五%がなくなつてしまえば、やはり飲んでいなかつたと言われる一五%もやつぱり飲んでいたのではないかという考え方をしたほうが自然である」旨述べていることが認められるが、当裁判所も、右椿の述べるところとほぼ同意見であり、被告チバの主張には未だ賛同できない。

6 患者発生の最終報告における年月日上の問題点

被告田辺は、スモン協によるスモン患者全国実態調査成績(丁第八号証三頁以下)について、表一(一一頁)によれば、スモン発生最終報告年月に都道府県間で大きなバラツキがあり昭和四五月三月以降は調査の連続性が認められないこと、昭和四五年末以後のスモン発生報告未提出県が昭和四七年三月末現在で一〇県もあり、従つて届出のないことを以てただちに発生がないとは結論づけられないこと等の理由により、欠測値を内包したデーターにもとづいて「激減」したといつてみてもなんら科学的な意味を有しない旨主張する。

なる程、前記表1によれば、都道府県別の最終報告月日は昭和四五年三月から同四七年四月まで区々であることが認められる。しかしながら、この程度の報告のバラツキ及び昭和四五年末以後のスモン発生報告未提出県が一〇県あること等からただちに前記調査成績のデータが欠測値を内包しているということはできないのであつて、ことに「激減」の有無の確認といつても、それは傾向を窺い知れれば十分であることに思いを致せば、被告田辺の前記主張は失当というべきである。

7 行政措置後のスモン発生

昭和四七年三月末までにスモン協に報告された発病年月別患者数が、昭和四五年の一〇月から一二月までは二六例、昭和四六年は合計二三例、昭和四七年(但し三月まで)は零であつたことは前記認定のとおりであるが、更に〈証拠〉によれば、その後昭和四七年度中にあらたに報告されたスモン患者数は、昭和四五年一〇月から一二月までは合計三名、四六年は七名、四七年一名で、確実例のみではそれぞれ一名の計三名であつたことが認められる。

又、〈証拠〉によれば、楠井は、スモン協臨床班員(あるいは治療予後部会員)が昭和四五年一月一日から翌年九月三〇日まで初診し、発病したスモン患者に関する調査成績中、行政措置以前は計三九九例であつたものが措置以後は三七例(キノホルム服用歴あり一二例、同なし一八例、不詳七例)であり、後者のうち一八例(非服用一五例)は小坂淳夫班員(同人は島田宜浩らとともにスモン・ウイルス説を支持している。)からの報告によるものであつた旨報告した事実が認められる。

更に、昭和四六年から四八年にかけて、キノホルム剤非服用スモン様症例の報告が個別になされている。即ち、〈証拠〉によれば、小坂・島田らによつて、又、〈証拠〉によれば、その他の研究者によつて、それぞれ右趣旨の報告がなされていることが認められる。そして、〈証拠〉によれば、昭和五一年度になつてもなお散発的にスモン様症例新発生の報告がされていることが認められる。

しかしながら、報告例が極めて少数であること、それらについても誤診が含まれている可能性を否定できないこと等を考えると、右事実はキノホルム説に問題を提起するほどの反論とは成り難いといわざるを得ない。

四動物実験

1 はじめに

病因の解明のためには、動物実験の実施が必要である。その理由は、〈証拠〉によれば、山本俊一によつて次のように述べられている。

「病気の因果関係が普遍性をもつこと、すなわち真の病因であるために備えていなければならない条件をはじめて明示したのは一九世紀の細菌学者コツホであつた。彼によれば、ある患者から微生物が取り出された時、それがそれまで未知の病原体であるといえるためには、次の条件がそろわなければならない。

① その病原体がその病気のすべての患者に存在し、すべてから分離されること。

② それは純粋に分離培養できること。

③ 培養したその病原体は、感受性ある動物で、それと同じ病気を起こすことができること。

④ その病原体は、その動物よりふたたび分離され、ふたたび純粋に培養できること。

この四つの条件をコツホの条件とよんでいる。条件①はヒトにおける結果から原因の解明、②は細菌の特性であるのでさておいて、条件③は動物において原因から結果が起こることの確認、条件④は、ふたたび動物における結果から原因の再確認である。この三つの手続きによつて因果関係の普遍性が証明されることとなる。

これは、本来は細菌性感染症にだけ適用できるものであるが、その考え方の基本はウイルス性感染にも、さらに病原体を病因と言い換えれば、非感染症にも拡大適用可能である。例えば、ある病気があつて(水俣病)、その患者から特定の化学物質(アルキル水銀)が分離され、さらにその物質を実験動物(ネコなど)に投与し、ヒトと同じような症状が発現すれば、これで水俣病の原因はアルキル水銀であるという普遍的な因果関係の存在が証明されたこととなる。」

もつとも、〈証拠〉によれば、医薬品に対する反応は、ヒトと動物とでは差異があり(これを動物における種属差というが)、ヒトにおいて見られる反応が動物実験においては見られないことがあるという事実を認めることができるので、動物実験においてスモン様症状を発現させることに成功しなかつたからといつて、そのことを以てキノホルム説を否定する論拠とはなし得ないというべきである。しかし逆に、動物実験の結果として、スモン様症状が発現すれば、それは、キノルホム説を側面から補強する論拠となることは、右山本の説明から明らかなところである。

故に、キノホルム投与実験によつて、動物にスモンと同様の症状(及び病理学的変性)を起こし得たか否かについて、以下検討することとしよう。

2 実験報告の概観

スモン協において報告された、動物へのキノホルム投与実験のうちで、ヒトのスモンに酷似した症状・病変が見られたものを以下列挙する。

(一) 大月三郎(岡山大)ら(〈証拠略〉、昭和四六年報告(以下報告年を示す。))

イヌにキノホルムを経口(定量及び漸増)投与したところ、八頭中三頭が痙れんを主とする急性中毒症状で死亡した。残りの五頭が慢性中毒又はそれを疑わせる運動失調症、運動麻痺様の症状を呈したが、そのうち三頭に脊髄ゴル束(これは下半身の知覚にあずかる。)の軸索に変性がみられ、他に脊髄神経節、神経根、末梢神経及び視神経並びに大脳、小脳、脊髄等の灰白質の神経細胞にも軽度の変化が認められた。

(二) 黒岩義五郎(九大)ら(〈証拠略〉、昭和四六年)

家兎にキノホルムを静脈投与したところ、末梢神経における有髄線維の髄鞘、軸索、無髄線維の軸索、シユワン細胞に種々の病変が認められた。

(三) 椿ら(〈証拠略〉、昭和四六年)

ラツトにキノホルムを胃ゾンテによつて投与したところ、末梢神経、脊髄根並びに脊髄の後索及び錐体路に軸索の腫脹が認められた。

(四) 豊倉ら(〈証拠略〉、昭和四五年)

家兎にキノホルムを静注したところ、下肢麻痺を含む神経症状の他、下痢、鼓腸等の腹部症状を高率に惹起させ、坐骨神経軸索の高度の腫脹、膨化、断裂、崩壊と髄鞘の変化が認められた。

(五) 池田良雄(国立衛生試験所)ら(〈証拠略〉、昭和四六年)

ニワトリにキノホルムを経口(定量)投与したところ、一日量五〇〇mg/kg群及び一〇〇〇mg/kg群において高頻度に両側性の歩行障害が出現した。一〇〇〇mg/kg/日を投与され、一二日目に右症状の他後趾伸展麻痺、深部知覚異常(亢進)等の症状を呈した一例を殺処分して組織学的検索を行なつたところ、肝の中心性の脂肪変性、末梢神経(坐骨神経)の軸索変性及び髄鞘脱落、並びに脊髄前索及び後索の変性像が認められた。

(六) 上田喜一(東京歯科大)ら(〈証拠略〉、昭和四七年)

マウスにキノホルムを経口(漸増)投与したところ、ドルフイン現像(よちよち歩き)、後肢の伸筋麻痺症状、後肢の交叉現象等の後肢支配神経の麻痺症状を呈した。

(七) 大滝サチ及び江頭靖之(国立予防衛生研究所)(〈証拠略〉、昭和四七年)

昭和四六年二月からウズラにキノホルムを胃内注入(漸増)したところ、全例に肢の運動障害が認められた。病変は、脊髄後索知覚路に一致して左右対称性の軸索変性が認められ、側索及び前索の運動領にも軽微な変化が認められたが、後索に比しはるかに軽く、病変は知覚路に優位に認められた。後根神経線維や神経節にも変性や細胞脱落を示すものがあつた。

(八) 大月ら(〈証拠略〉、昭和四六、四七年)

キノホルムを雑犬及びネコに経口(定量及び漸増)投与、ビーグル犬及びサルに経口(漸増)投与したところ、雑犬、ネコでは早期に急性中毒死するものが多く、とくに雑犬では急性痙れん死がしばしば観察された。慢性中毒症状としては、両下肢の運動麻痺、脱力、筋萎縮、腱反射亢進と痙性、失調性歩行などの神経症状がみられ、長期罹患雑犬、ビーグル犬、ネコなどに視力障害がみられた。慢性中毒動物の病理所見では、脊髄の後索、側索、後根神経節、末梢神経、視神経に変性が認められた。

(九) 高橋理明(大阪大)ら(〈証拠略〉、昭和四七年)

カニクイザルにキノホルムを経口(定量)投与したところ後肢麻痺を呈し、脊髄後索、側索にやや限局した高度の髄鞘変性が認められた。

(一〇) 金光ら(〈証拠略〉、昭和四七年)

イヌにキノホルムを経口(漸増)投与したところ運動障害を呈した。

病変としては、中枢神経組織に光顕的に著変を認めなかつたが、電顕的には脊髄に髄鞘の蜂窩性構造、髄鞘と軸索の解離、軸索内小器官の消失が著明に認められ、坐骨及び脛骨神経に強い髄鞘の変性と部分的消失が認められた。

(一一) 黒岩ら(〈証拠略〉、昭和四七年)

キノホルムを家兎に経口投与又は静注、カニクイザルに経口(漸増)投与したところ、臨床的にスモンと同様、下痢、便秘などの腹部症状が後肢の脱力に先行して認められ、ウオラー変性が主体であり、家兎においては無髄線維やシユワン細胞にも変性が認められた。

(一二) 小口喜三夫(新潟大)ら(〈証拠略〉、昭和四七年)

ラツトにキノホルムを胃ゾンデにより投与したところ、軽い両後肢麻痺を呈し、坐骨神経に病変が認められた。

3 実験結果の要約

〈証拠〉によれば、大月は昭和四七年三月のスモン協総会において、その当時までの各種動物におけるキノホルムの投与実験結果を整理して次のようにまとめていることが認められる。

(一) 臨床

キノホルムに慢性中毒したサル、イヌ、ネコ、ウサギ、ニワトリ、ウズラにみられた運動麻痺、失調は両側性に出現し、後肢に強いところはヒトのスモンと同一で、イヌにみられた後肢の腱反射亢進、尿失禁もスモンに似ている。視力障害はイヌ、ネコで認められたが、スモンで重要な異常感覚、知覚鈍麻等を実験動物で客観的に証明する検査法の確立が望まれる。スモン特有の腹部症状を実験動物で認めることは困難である。

(二) 病理

スモンの病理の特徴である末梢神経、脊髄後根神経節、脊髄長索路の変性は、多くの実験動物において再現され、視束の変化もイヌ、ネコで確認された。その組織像はヒトのスモンと差がみられない。

しかしスモンでは自律神経系、延髄オリーブ核等の病変が指摘されたが、検索された動物が少ないので、更に検討を要する。

(三) キノホルム中毒動物の神経症状発症時の一日投与量及び総投与量が、ヒトのスモンのそれに比し多いことは、種族差、基礎疾患の影響も考えられ、更に検討を要する。

4 実験方法上の問題点

(一) 被告会社の反論

反論の骨子は、要するに、スモン協の動物実験は、スモン症状を発現させるべく意図して行なわれた大量投与の実験であつて、しかも投与量漸増或いは便秘処置といつた異常な方法が併用されているので、異物の大量投与による害作用の発現というべきであり、従つて、右動物実験の結果を以てスモンとキノホルムとの間の因果関係を断定することはできないというにある。よつて、以下判断する。

(二) 実験目的

椿らの疫学的研究その他の報告によつて、キノホルムとスモンとの関連が注目されていたのであるから、スモン再現を意図した動物実験が行なわれたこと、そのことは何ら異とするに足らない。実験の結果、症状・病変の再現ができなかつたならば、仮説に疑問を抱いてその方法等を再検討すればよいのであつて、このような試行錯誤の繰り返しによつて、因果関係が科学的に解明されていくのである。

(三) 大量投与

〈証拠〉によれば、医薬品開発における動物実験について、副作用を動物実験ですべて鑑別するのは、極めてむずかしいので、現在では、有効量よりはるかに大量に用いた中毒実験をもつて代用し、薬を大量に与えたとき、或いはやや大量を長期間続けたときの中毒現象のなかに、常用量で現われる副作用がやや強い表現をもつて出現したとして判断していることが認められるのであつて、前掲各報告における投与量には何ら問題はないというべきである。丁第九号証(五七頁)に述べられている如く、スモン患者と実験動物とでは投薬前の身体条件に差があることも投与量の差につき考慮されて然るべきであろう。

(四) 漸増投与等

〈証拠〉によれば、漸増投与方法がとられた理由は、慢性中毒動物実験を行なうためには急性中毒死を避ける必要があつたということに尽きる。故に、この方法を異常と決めつけることはできないし、丙第二九八号証の一(一三七頁以下)のロベルト・ヘスによる批判は傾聴すべきではあるが、漸増投与法による実験が無意味ということにはならない。

又、便秘処置に限らず各種合併処置を施して影響に差がみられるか否かを検討することも、別段非常識な実験とは考えられない。(ちなみに、〈証拠〉によれば、雑犬における便秘処置では発症が僅かにはやまつたが神経病変については有意差を及ぼさなかつた旨報告されている。)

(五) まとめ

スモン協による動物実験については、新しい試みが散見されるものの、重大な方法論的問題はないと評価し得る。

5 被告会社による追試実験

(一) はじめに

被告会社は、スモン協の前記動物実験の追試の形で多くの動物実験を行なつたが、キノホルム中毒による神経病変は、臨床的にも病理学的にも認められなかつた旨主張しているので、右主張に沿う証拠を概観しておこう。

(二) スイスチバ社の実験(その一・定量法)

〈証拠〉によれば、チバ社はエンテロ・ヴイオフオルムの家兎への二八日間静注投与(丙第七七号証)、一〇日間経口投与(丙第七八号証)及び八八日間経口投与(丙第七九号証)において、並びにニワトリへの経口投与(丙第七五号証)おいて、いずれも神経毒性反応が認められなかつた旨の実験成績を報告していることが認められる。

更に、〈証拠〉によれば、チバ社はエンテロ・ヴイオフオルムのビーグル犬に対する急性(丙第七一号証)、一二二日間(丙第八〇号証)、一年間(丙第八一号証)及び二年間の各経口投与実験の結果によつても、神経毒性反応が認められなかつた旨報告していることが認められる。

(三) スイスチバ社の実験(その二・漸増法)

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

ヘスらは、二六匹のビーグル犬を用い、最終一日投与量は五〇〇ないし一〇〇〇mg/kgでそれに至る漸増期間は六ないし二八週間に及ぶエンテロ・ヴイオフオルムの漸増経口投与試験を行なつたが、その結果、七匹に、視神経及び視索における急性の異栄養証(ジストロフイー)型の変性が、又このうち五匹に、脊髄薄束における同様な変性が見られた。しかしヘスらは、右変性は生体全体の重篤な障害のため二次的に(循環又は栄養障害によつて)生じたものであると考え、投与された薬剤の直接作用ではなく、従つて、右所見は特異的な神経毒性効果が生じなかつたことを示していると判断した。

(四) スイスチバ社の授助による実験

〈証拠〉によれば、米国メリーランド州在株式会社フロー研究所のバロンは、イヌに対する九〇日間経口投与試験及び急性試験のいずれにおいても特異的な神経毒性が認められなかつた旨、ニユージヤージー州のチバ社宛報告した事実が認められる。

(五) スイスチバ社と被告田辺との共同実験

〈証拠〉によれば、被告田辺の甲和ら及びスイスチバ社のヘスらは共同で慢性毒性試験を行ない、カニクイザルにキノホルムを二年一〇か月の長期にわたつて経口投与したが、一般行動や生理学的機能検査及び病理学的検査ではキノホルムに起因すると思われる障害は何ら見出せなかつた旨報告した事実が認められる。

(六) 被告田辺の実験

〈証拠〉によれば、被告田辺は、キノホルム剤販売停止時における医薬品製造承認基準に準じて各種の動物試験及び基礎試験をおこなつたこと、その結果いずれの試験においてもスモン様神経障害の発現を示唆する所見は得られなかつた旨報告したことが、それぞれ認められる。

(七) その他の実験

以上の他にも、〈証拠〉によれば、米国オハイオ州在メレル・ナシヨナル研究所のニユーバーンは、アカゲザルに一か月又は六か月間キノホルムを経口投与した結果、多量(二〇〇mg/kg/日)投与のサルについてのみ、その腎臓に散在性の尿細管の膨大及びタンパク円柱形成が見られた以外には、薬剤に関連した変化を証明するものは何も見られなかつた旨報告した事実が認められる。

なお、スモン協の研究報告中にも、小坂らによるグン・ラツトへの一二か月間投与実験報告(丁第九号証一六二頁)のように、キノホルム中毒を示す所見は全く得られなかつたという報告がある。

6 原告らの反論

(一) はじめに

スモン協の動物実験成績は追試によつて確認されていないという被告会社の主張に対して、原告らは、①スイスチバ社の実験については、その不完全さを立石潤(九大)が批判していること②イギリスのハンチントン・リサーチ・センターにおけるキノホルム投与動物実験で、日本におけると同様の結果が得られたこと等の事実を挙げて反論している。これらの点について、以下見ていくこととしよう。

(二) 立石の批判

〈証拠〉によれば、立石は、スイスチバ社の前記実験について、次のような批判を下していることが認められる。

まず定量法による前記の実験については、例えばウサギへの二八日間静注とか、ビーグル犬に一二二日間経口投与などの実験では、いずれも臨床的・病理学的に神経病変はなかつたと報告されているが、これらの動物の病理検索に際しては、病変の初発する後索ゴル束遠位部(頸髄)の軸索損傷の検索がなされていない。立石らは、この部の軸索の変性、脱落が初発するため、頸髄上部の軸索染色が必須の検索法であることを強調して来たが、チバ社の実験はこの事実を故意か不注意のためか無視している。更に、チバ社の行なつた他イヌ・ウサギ・ニワトリなどの実験はすべて投与量、投与期間、病理学的検索法のいずれかが不完全であつた。

次に漸増法による前記のビーグル犬の実験については、視神経系病変よりも症状の出やすい脊髄病変の記載が少ないのは、脊髄検索の不備によるものと思われる。しかし報告書に記載された限りの病変は、立石らの実験動物及びスモン患者の視神経系、脊髄の病変と同質のものである。ところがヘスらは、これらの病変は痙れん又は循環不全又は栄養障害による全身性の重篤な変化に基づく二次的変化であるといつている。そのうち、痙れん又は循環不全によりかかる特徴的な病巣分布が起る可能性は考えられないが、栄養障害に基づく疾患、例えばビタミンB群の欠乏によるペラグラ、連合性脊髄変性症や栄養不良によるクワシオルコル症候群などとの鑑別が問題となる。これらはスモンの病理学的鑑別診断に際し最初にわが国で問題となつた疾患群である。又、死亡時の全身状態の悪化の影響はスモン患者にも実験動物にもみられよう。従つて、これらの諸因子による病変の混在又はキノホルムによる代謝系の障害など病因自体への関与もありうる。しかしながら、スモン及びキノホルム投与動物にみられる臨床症状並びに視神経系及び脊髄後索の遠位部から始まる連続性、対称性の変性は、これらの病態とは区別されるものである。結果的に、キノホルム慢性投与動物の脊髄・視・神経症はキノホルム投与動物にのみ特有のものであり、それが日本のみならず、スイスチバ社でも再現されたことは重大な意味をもつ。

(三) ハンチントン・リサーチ・センターの実験

〈証拠〉によれば、イギリスのハンチントン・リサーチ・センターは、ビーグル犬二四頭を使つて、体重一kgあたり一日につき一週目は五〇mg、一〇〇mg、一五〇mg、二週目以降は一〇〇mg、二五〇mg、四〇〇mgのキノホルムを二六週間経口投与する実験を行つたところ、二五〇mg及び四〇〇mg投与されたものに、異常な反射及び反応に関連した歩行障害がみられ、四〇〇mg投与群の四頭のイヌには中枢神経系の組織病理学的検索により、脊髄薄束に病理学的変化が見られ、二五〇mgの投与群のイヌ六頭中四頭には、何らかの病変がみられたが、これらの病変の主たる形態学的特徴は、軸索の変性及び腫脹、ミエリン食細胞を伴つたミエリンの崩壊であり、一六一日目に屠殺された雌イヌでは視神経の変性もみられたこと等を報告し、その考察では臨床症状及び病理像は、日本の研究者が記載したものと相違しない旨結論づけている(一九七五年、昭和五〇年)事実が認められる。

更に〈証拠〉によれば、同センターは、スイスチバ社の後援による一九七三年(昭和四八年)一〇月九日からのビーグル犬一八頭を使つた二五週間にわたる一kgあたり一日二五〇mg及び四〇〇mgのヒドロキシキノリン体の経口(定量)投与実験の研究においても、右報告と同様の所見が確認され、一層明らかになつたことを報告した(一九七五年、昭和五〇年)事実が認められる。

7 ビーグル犬に対するキノホルム再投与実験

裁判所に職務上顕著な事実によれば、前記大月による総括以降も、スモン班においてキノホルムの動物投与実験が繰りかえされてきたところ、昭和四九年度スモン班の池田久男(岡山大)。立石潤らは、「キノホルムの固定量の投与では、例えば一日三〇〇mg/kgをビーグル犬に長期投与しても神経毒性がみられないとのチバ社の動物実験による反論に接し、再度ビーグル犬にキノホルム投与実験をくり返し、チバ社と同一条件の固定量投与群ももうけ漸増投与群とともに検討したところ、まず全例が後肢の失調性歩行、腰の横揺れで発症し、発症初期に屠殺した二頭を除く他のイヌは更に症状が進行し、後肢の脱力、腱反射亢進が生じ、逐には後肢が立たなくなり、既報の慢性中毒と同程度ないしむしろ強い後肢の脱力がみられた。特に他より遅れて発症した一頭は、発症後三日目には既に後肢が立たず、座つたままで摂食、排尿便を行なつた。投与開始後六三日目に全犬の投薬を中止するまで右の神経症状は進行し、休薬後はやや改善した。病理所見では、固定量群の一頭には小腸に広汎な腸捻転があり壊死のため黒柴色を呈し、他の一頭では小腸に巨大な腸重積があり、これが死因と思われた。漸増群の一頭には小腸に異常に強い収縮像がみられた。神経系では多くのイヌで頸髄ゴル束が肉眼的に白く、正常な透明度を失なつていた。鏡検では腎近位尿細管上皮細胞の変性、脱落が認められ、肝では肝細胞の変性がみられた。神経系の検鏡でも既報のキノホルム慢性中毒イヌ、ネコと同一の病変が認められた。対照イヌには何らの病変もみい出されなかつた。

今回のビーグル犬の病理所見も従来の慢性キノホルム中毒動物と同様の脊髄・視・神経症であつた。チバ社のヘスらは、われわれのキノホルム慢性中毒イヌの病理変化は死後変化、標本作成時の人工産物、血行障害、ジステンパーなどのウイルス感染又は動物の低栄養状態により作り出される可能性があると反論した。しかし、かかる特徴ある病変の組合わせが、死後変化、人工産物、血行障害などでおこる可能性はなく、ジステンパーにみる如き炎症所見や斑状の病巣などとも異なる。しかし、キノホルム投与動物では一過性にせよ食欲低下や腹部症状、体重減少のみられる場合があるため低栄養状態の可能性は残る。このためわれわれは別に絶食動物をもうけ検討したが、成犬は飲料水のみで一か月以上生存し、自然死をまつて剖検しても、神経系に著変を認めなかつた。

従つてチバ社の反論には何ら根拠がなく、キノホルム投与動物の臨床・病理所見は、その再現性からもキノホルムに特有な神経毒性によるものと再確認した。更に、チバ社の動物実験では何ら神経症状はみられぬというが、同一条件での今回の追試で明らかな臨床・病理所見を得たことをわれわれは重視せざるをえない。」と報告し、これらを受けてスモン班の発生病理分科会(分科会長田村善蔵)は、総括研究報告において、「因果関係をめぐる国際論争に終止符をうつ有意義な成果であつた。」と述べていることが認められる。

8 まとめ

以上の検討を要約すれば、スモン協及びスモン班において多くの研究者が、動物へのキノホルム投与実験によつて、動物でのスモン再現に成功した。被告会社は、スモン協の成績は追試に成功していないと反論したが、スイスチバ社による追試の方法には重大な問題点が存し、一方イギリスでは、チバ社後援の研究においてもスモン協の成績と同様の成績が得られた。

五小括

結局、スモン患者のキノホルム剤服用調査の結果、DRRの存在、行政措置後のスモン発症の劇的終熄及びキノホルム投与動物実験におけるスモン様臨床像、病理像の再現という四本の柱によつて、いまやキノホルム説は不動の地位を確立したと評価し得る。

そこで次に、キノホルム説に残された問題として被告会社によつて主張されている点について、それが果してキノホルム説によつて説明できないものであるか検討を加えることとする。

六その他のキノホルム説に対する疑問点の解明

1 キノホルム剤非服用スモンについて

(一) はじめに

被告会社は、「各調査において、キノホルム剤を確実に服用していないと報告されたスモン患者が相当多数存在するということは、かえつてスモンの原因がキノホルムではないことを明白に物語るものである。何故なら、すべてのスモンの病因が同一であるとの前提に立てば、一例でもキノホルム剤非服用スモン患者が確実に存在すれば、キノホルムとスモンとの間には因果関係が成り立たないからである」旨主張する。そしてスモン患者のキノホルム剤服用状況調査において、14.8又は14.6%の症例が「服用確実になし」とされていることは既に認定したところであり、又、〈証拠〉によれば、小坂らは井原市民病院のスモン患者について、「一九六八、一九六九及び一九七〇年において、それぞれスモン患者五五例中八例、五三例中三二例、及び七例中二例が神経疾患の初発前にキノホルム剤を投与されていないことがわかつた」旨報告した事実が認められる。

そこで、以下において、キノホルム剤を服用していないスモン患者の存在という、キノホルム説に対する反論について検討することとする。

(二) 服用・非服用確認の困難性

〈証拠〉によれば、服用状況調査における「服用確実になし」の裏づけの方法は「カルテを調べた」若しくは「患者に聞いた」又はそれら両者が主であつたことが認められる。ところが、〈証拠〉によれば、(一)患者はしばしば二人以上の医師を受診しているが、余程よく注意しないとすべての医師についての調査を行ない得ないし、又患者自身が受診した医師を失念していることがあること (二)患者が自分で気づかぬうちにキノホルムを服用していることがあること (三)病院と病歴は必ずしも一患者一帳となつていないので、見落すことがあるし、ことに病歴の一部が紛失している場合があること (四)医師又は患者が記憶違いをしていることがあること等の理由で、キノホルム剤服用・非服用の厳密な確認は困難であることが認められる。そして、「ないこと」の証明が困難を伴うことはしばしば我々の経験するところであることに思いをいたせば、「服用確実になし」と報告された患者が真実キノホルム剤を服用しなかつたものとたやすく決めつけることはできないのである。

ちなみに、〈証拠〉によれば、田村は、スモン協による調査結果ではキノホルム非服用とされたスモン患者の血清から、或いはキノホルム非服用とされたスモン患者剖検例の肝臓・腎臓からキノホルムを検出した事実が認められ、このことはキノホルム非服用調査の困難性を示唆するものとして重要である。

(三) 誤診混入の可能性

〈証拠〉によれば、診断指針は全国のスモン患者の調査のために全国共通のスモン診断の一指針として作成されたものであり、同証人としては、参考条項がいくつかついていると、神経専門でない一般の医師であつてもスモンの診断が可能であると考えていることが認められる。しかしながら、同証言からも明らかなように、スモンはキノホルム中毒であるという立場に立ち、キノホルム服用が診断の一要素となり得てその診断は容易であると言い得るのであるが、キノホルム服用が診断の条件とされていない場合(診断指針、もつとも緑舌等が参考症状として挙げられてはいるが。)でも、鑑別診断が容易であるとまでは述べていないものと解せられる。ちなみに、〈証拠〉によれば、井形は昭和四七年末の時点で、「診断指針をみてもスモンの診断は必ずしも容易でなく、若干の誤診がはいることは止むをえないばかりかむしろ当然であろう」と述べていることが認められる。

更に、〈証拠〉によれば、小川勝士ら(岡山大)は、スモン協による診断指針によつて診断された「スモンの症状を呈していた患者」群を対象とした疫学的研究は、必ずしも病理学的に確実なスモンだけを対象に行なわれたものとはいい難いことから、病理学的方面から検討を行なつた結果、①同人らが岡山地方で昭和四八年末までに剖検した「臨床診断スモン」二八患者のうち五例(一七%)はスモン以外の疾患で、そのうち四例はキノホルムを服用していなかつたこと ②剖検輯報昭和四一年ないし四四年の四年間における全国剖検例の脊髄疾患七三一例中記載の正確な六〇六例では、臨床の誤診率が三〇%、スモン一二〇例では二七%であつたこと ③以上の事実から、「臨床診断スモン」患者にはかなり高率に非スモン患者が含まれているものと推定されること等述べていることが認められる。

なお、特にキノホルム非服用のスモンが多いとされる井原市民病院に関する前記小坂らの報告について一言しておく。〈証拠〉によれば、井原市民病院においては、腹部症状出現の段階でスモンと診断するような早期診断が重視されたことが窺えるのであり、同病院のスモン診断基準はスモン協の診断指針よりも緩やかなものであつたと推認される。従つて、同病院においてキノホルム非服用スモン患者とされている患者が真実スモンであるか否かの認定は、殊更に慎重になされるべきであつて、前記報告の数字を鴉呑みにすることは控えるべきであろうと考えられる。

結局、以上の事実によれば、スモン協の診断指針によつて臨床的にスモンと診断された患者中には相当の割合で非スモン患者が含まれていることが合理的に推認できるのであつて、これに反する証拠は存しない。

(四) まとめ

以上のとおりであつて、もともとこの種の薬剤服用の有無といつた過去に遡つての調査は、それ自体すでに困難を伴うものであり、殊に非服用といつた「ないこと」の確認には、種々の問題を含んでいるのであるが、それにもかかわらず、スモン協の二回の全国的な調査により、発症前のキノホルム服用率が八〇%前後(「不明」「不確実」を除外すれば優に八〇%を超える。)という高い数字が得られたことは、キノホルム原因説を強く裏付けるものであつた。そして、その後のスモン協班員等による個別的な服用状況の調査はキノホルム服用率を一層高めるものであつたが、更に前記したような、キノホルム非服用スモンとされている者の中にキノホルム剤を服用した者が存在する可能性、あるいはスモンでない者がスモンと誤診されている可能性等を併せ考えるならば、おそらくこの調査はその精度を高めれば高めるほど、キノホルムの服用率は高まり(調査の限界からして一〇〇%には至らないであろうが)、スモン患者の殆どが発症前にキノホルム剤を服用したことをいよいよ裏付ける結果となるのではないかとさえ推測させる。反面、更に調査を重ねたにしてもキノホルム非服用スモンの例を完全に否定し去ることもできないであろうが、右に述べたような調査上の問題点を考慮するならば、その存在は未だ以てキノホルム説を左右するほどのものではないというべきである。

2 何故昭和三〇年代に急激に発生したか

(一) はじめに

被告会社は、キノホルムは昭和初期から内服薬として使用されていたにも拘らずスモン発生の報告がなされるようになつたのは昭和三〇年代に入つてからであるという事実は、キノホルムがスモンの原因であるという推論に対し合理的な疑いをさしはさむものである旨主張する。これに対し、原告らは、①戦前においてもスモン患者がいなかつたわけではないこと ②昭和三〇年代に急増したのは、わが国におけるキノホルム剤の販売量が急増し、かつ治療にさいしてのキノホルム投薬量及び期間が大量・長期化したためであることを主張、立証して反論するので、以下これらの点について検討する。

(二) 戦前スモン

〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

昭和一三年(一九三八年)に兼田功(大阪市立桃山病院)らによつてなされた「腸チフス永続排茵症のヴイオフオルム療法」という報告においては、ヴイオフオルムを長期間連続服用により総計一〇〇g内外に及んだ例においても何ら副作用が認められなかつたとされている。しかし、片平らはこの報告された二九例中二八例のカルテを検討したところ、ヴイオフオルム投与後の神経症状の記載がカルテに見い出された患者が三例発見され(うち一例は生存していた。)、豊倉、高須と共に診断した結果、三例ともスモンが疑われた。特にうち一例(九g投与後一旦中止し、その再開後四二日間で総量六三g以上合計七二gの投与を受けたもの)については、スモンの可能性が強いと判断して差支えないとの結論であつた。

(三) 投薬量及び期間の変遷

昭和三〇年代に入つてから、わが国におけるキノホルムの販売量が急増したことは、既に二の2で確認した。ここでは、個別患者に対する一日投与量及び投与期間の変遷について検討する。

ところで、〈証拠〉によれば、一般の医師としては、医薬品の投与量及び期間を決めるについては、製薬会社作成の能書或いはパンフレツトを参考にする者が一番多い(調査対象の約半数)という調査結果が得られた事実が認められる。(多忙な医師にとつては、医薬品の情報獲得がこのような過程によるものであることはある程度止むを得ない現象といえるであろう。)従つて、キノホルムに関する被告会社の宣伝文等及び公定書である日本薬局方の記載等を参照すれば、量・期間の変遷について概ね把握できるものと考えられる。

まず一日量について概観する。

甲第一二五、第一二六号証(いずれもチバ時報大正一五年、一九二六年)及び丁第八七号証(同昭和八年、一九三三年)によれば、当時ドイツ又はスイスにおける極量は一回0.3g、一日1.0gとされている旨紹介されている(極量の概念については後述するが、ここでは危険なく使用できる最大量を意味する。)。

戊第一五一号証(チバ時報昭和九年五月号)及び丁第三二号証(注解第五改正日本薬局方、昭和二四年発行)によれば、当時のキノホルムの常用量は一回0.25g、一日0.75gとされていた事実が認められ、甲第三六三号(昭和一六年)、第三六四号証(昭和二二年)によれば、当時の教科書にはヴイオフオルムの一日量は0.3ないし0.6gと記載されていた事実が認められる。

なお、甲第一二七号証(チバ時報昭和一一年、一九三六年)によれば、ヴイオフオルムは極めて少量で以て腸性の諸疾患に対して顕著な効果を示す旨の宣伝文が認められる。

これに対して、昭和二八年(一九五三年)のエンテロ・ヴイオフオルム「チバ」の製造許可内容(被告国の昭和四八年八月二一日付準備書面添附別紙参照)によれば、細菌性赤痢の場合に症状によつてはキノホルムに換算して一日4.5gまでの増量が可とされており、丁第三四号証(第七改正日本薬局方第一部解説書、昭和三六年、一九六一年)によれば、キノホルムの一日量最高3.0gまでの投与が記されている事実が認められる。

次に、投薬期間について概観する。

戊第一五一号証(チバ時報昭和九年)には、「一日量0.75gを一〇日間連用し、一週間の休薬後再び前同様に一〇日間服薬し、全体として一五gの使用即ち二〇日間の服用で治療完了とする。特に重症の場合にはこの量を超過してもよいが、通常のアメーバ赤痢では以上の分量で充分である。」という記載がある。

しかしながら、甲第一二八号証(昭和三四年発行のエンテロ・ヴイオフオルム説明書)及び同第一二九号証(昭和三六年発行の同説明書)によれば、エンテロ・ヴイオフオルムは極めて良好な忍容性があるから、長期にわたる治療、特に敏感な患者や小児、老年者にも使用可能である旨の記載が認められ、甲第一二三号証(メキサホルム説明書、年代不明だが昭和三七年以降であることは勿論である。)によれば、アメーバ症が珍らしくない地域では、患者の大便中に最早病原体が認められない場合、及び症状の改善又は臨床上既に治癒がみられた場合でも、少なくともあと一週間は治療を続けることが望ましい旨記載されている事実が認められる。

(四) 考察

以上の検討によれば、昭和二〇年代末までは、キノホルムの投薬方法については、殆どが一日量は少なく、期間もそれ程長期にわたらなかつたことが推認され(その中でも比較的大量に服用した者でスモン様の症状を呈した患者が戦前にも存在した事実は前記認定のとおりである。)、右事実からは、投薬方法の変化が、昭和三〇年代に入るまでスモンの大量発症が見られなかつたことについての一つの説明として十分に納得をえられるように思われ、そして更に、前記二の2のわが国で昭和三二、三年以降販売量が急増した事実は、その頃からキノホルムが医療機関で繁用されるようになり、それとともに服用者が急増したことを意味し、そのことがスモンの発症を急増させたとの理解を一層可能とするようにも思われる。

そうだとすれば、昭和三〇年代に至つてスモン発症が急増したという事実は、特にスモン・キノホルム説にとつて問題となるものでもなく、この点についての被告会社の主張は採用できない。

3 外国スモン

(一) はじめに

被告会社は、キノホルム剤は世界中で販売・使用されており、反面、日本において特に多量に販売されていたわけでもないのに、日本以外の国でスモンと診断された患者が極めて少ない(それらについても果してスモンと認められるかは疑わしい。)という事実は、スモンの大多数がキノホルム中毒であるという考えと矛盾する旨主張している。そこでこの点についてのキノホルム説の立場からの反論について見て行くこととしよう。

(二) 欧州調査

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

椿及び井形は、昭和四六年夏に、WHCの援助により、二か月にわたつてヨーロツパのスモンないしキノホルムの調査を行ない、八例のキノホルム中毒の情報を得た。それでもヨーロツパにおいては、スモン患者は多くなく、キノホルム中毒例は極めて稀であることが確認された。その理由として椿らは次の諸点を挙げている。第一にヨーロツパではキノホルムの服用量と期間が一般に非常に少なく短い。調査例数は少ないが、ヨーロツパ諸国における胃腸疾患に対するキノホルムの一日量調査によれば、79.1%が六〇〇mg以下であつた。六〇〇mg以下では日本人でもスモンになる人は非常に少ない。又、同使用期間の調査によれば、63.9%は一三日以内であつた。一三日以内でスモンが起ることは日本でも非常に稀である。ちなみにドイツでは総消費量は多いが、これは下痢予防の目的で休暇に際して持参する人の数が多いためであろうと思われた。第二に外国ではスモンに対する認識が殆どないために、医師がスモンの診断を下すことが殆どないと思われる。しかしそれでも、その後日本のスモンについての情報が知られるにつれて、報告例が多くなつて来ている(甲第三五四号証参照)。第三に日本人と外国人との人種差が考えられるが、この点については短期間の調査のため結論は出せなかつた。

(三) 考察

〈証拠〉によれば、抗結核薬ヒドラジドの代謝速度が人種によつて大きく相違すること、病気によつては発病率が人種によつて違うこと等が認められ、これらに右椿らの説明を併せ考えると、外国におけるスモン報告例が少ないからといつて、特にスモン・キノホルム説にとつて問題となるものではない。

4 小児スモン

(一) はじめに

キノホルム説に向けられた主要な疑問点に対する検討の最後は、何故子供に少ないかという点についてである。まず、この点についてのキノホルム説主唱者による説明を見ていこう。

(二) 井形らの研究

〈証拠〉によれば、井形らはスモンが子供に少ない主な理由は ①投与量、特に投与日数が少ないと推定されること ②知覚障害のみの軽症スモンが小児では診断され難かつた可能性が考えられることの二点を主張していることが認められる。それぞれについてもう少し詳しく検討しよう。

(1)投与期間

前掲各書証によれば、井形らが小児専門の五病院において、二万例の処方箋から小児におけるキノホルム投与状況を調査した結果、体重1kg当りの一日投与量は決して少なくないが、その殆どが二ないし四日の短期間投与であり、五〇二例のキノホルム投与例中、一週間より長く投与された例は3.4%にすぎなかつたこと、その理由として、小児において長く続く下痢が極めて稀であり、キノホルム投与二、三日で軽快しない場合はそのままキノホルムを続行することがないこと、キノホルムが味からいつて小児に好まれないこと等が考えられたことがそれぞれ認められる。

(2)診断

前掲各書証によれば、次の事実が認められる。

井形らは、スモンの小児例として報告されていた八例について調査したところ、調査不能の一例及び診断の不確実な一例を除く全例が、キノホルムを発症前に服用していた事実が判明した。但し、これらの症例は、いずれも知覚症状が比較的軽度で、歩行障害、視力障害が前景に出ていたが、これは小児が知覚障害を的確に表現しがたいことによることもあろうと考えられた。従つて、知覚障害のみの軽症スモン例は、小児では診断され難かつた可能性も充分考えねばならないと井形らは結んでいる。

(三) 小坂らの調査

キノホルム説に基づく前項の説明に対して、小坂らは丁第二号証(九二頁)において、自らの調査結果を報告したが、その内容は次のとおりである。

昭和四二年から四四年までの間の、F伝染病院におけるキノホルム投与量を検討した。F病院の入院患者には小児赤痢例が多いからである。その結果、九才以下の小児に対してキノホルム一日量(ヤングの式により成人量に換算したもの)0.65ないし0.95g投与したもの四七名、1.0ないし1.19g投与九六名、1.2ないし1.45g投与三五名、1.5ないし2.0g投与一六名に、それぞれ二日から三〇日まで、大多数は一三日間投与されていた。これらの患者の予後について県庁に届出されたスモン患者名薄を調査したところ、本患者群にはスモン患者として登録されているものがなかつた。又、アンケート調査を実施したところ、56.4ないし61.2%の返送があつたが、全例元気であつた。

(四) 考察

小坂らの調査は、井形らの主張に対する有効な反論たりえない。小児赤痢例の多い病院の患者についてであるにも拘らず、大多数の投薬期間は一三日間にすぎないし、予後調査についても、前記(二)の(2)の可能性を否定できないからである。しかも、小児にスモンが少ないことは、感染説によつても説明し難い現象として指摘されているところであるから(丁第一一六号証の四)、キノホルム説の立場から一応の説明をなし得た以上、更に検討の必要性はない。

七キノホルム説検討結果のまとめ

以上の検討の結果によれば、法律上の因果関係の判断として、キノホルム服用とスモンとの間の因果関係の存在は高度に証明されたものと言いうる。しかも、本件判決の損害各論に掲げた各証拠、ことにカルテ等の検討の結果は、キノホルム説についての信頼をいよいよ深めるものであつた。しかしなお、次の第三において、他の病因論について検討しておくこととする。

第三  他の病因論について

一はじめに

〈証拠〉によれば、甲野は、当初スモンの病原に関する諸説として、農薬、重金属等による中毒説、ウイルス、マイコプラズマ等による感染説、アレルギー説、代謝障害説及びビタミン欠乏説の五つを挙げていたことが認められる。

しかしながら、被告会社においては、被告田辺がウイルス説を強硬に主張しているものの、被告チバ及び同武田は、わが国特有の原因である旨述べるだけで具体的に明示した他原因の主張をしていない。そこで、まず二において、感染説以外の諸説について簡単に検討をしたうえ、次いで三において、感染説(特に井上ウイルス説)について検討を加えることとする。

二中毒説等

1 中毒説(農薬、重金属等)

例えば、〈証拠〉によれば、本間惣太(農林省)は、①農薬の使用規制が時期的にスモンの減少とある程度関係していると考えられること ②有機燐剤の使用量の多い県ではスモンが多発している傾向があること ③イヌへの農薬の経口投与によつて現われる臨床病理像は、スモンのそれと全く同一とはいえないものの、有機燐又はそれと結合された何かがスモンの下地或いはスモンを作る可能性を示唆すること等から農薬が一原因である可能性について述べていることが認められるが、この他にも農薬説の研究はかなり存在するように見受けられる。

しかしながら、前掲丁第一一六号証の四において甲野が述べている如く、農民に多発することがないから少なくとも農薬撒布の直接被害とは考えがたく、従つてむしろ残留農薬が問題になるが、これによつても本症の連鎖的発生についての説明は困難である。

又、〈証拠〉によれば、祖父江らは、スモン群とキノホルム服用非スモン群について、併用薬、検査に含まれる金属類の頻度を比較したところ、スモン群では、マグネシウム、アルミニウム、バリウム、カルシウムなどの併用頻度が有意に高率であることを認めた旨報告していることが認められる。しかし、同人らが述べる如く、「スモン発症におけるキノホルムの作用機序の上で、これらの金属類がなんらかの役割を果していることを推定」し得るにしても、それらが発症の主たる因子であることを示唆する研究報告は見受けられない。

2 アレルギー説等

〈証拠〉によれば、甲野はアレルギー説以下の三説について、次のように述べていることが認められる。

まずアレルギー説については、狂犬病ワクチン後、麻痺などに見られる神経アレルギー現象は、年令、性別分布などでスモンと似た面がある。しかし、決定的な証拠はなにもない。

次に代謝障害、ビタミン欠乏説については、神経病理学者はこぞつて、本症の病理学的所見はこの説でもつとも説明しやすいという。しかしスモンではビタミン欠乏の事実は明瞭には説明されていないし、現代の日本人の食糧事情から考えて一次的な栄養やビタミンの欠乏ということは一寸ありそうにもない。もしビタシン等が関与するとすれば、なんらかの因子によつてその吸収の阻害、あるいは体内における利用の障害が起こつたというように考えることはできよう。

3 考察

本項において検討した諸説は、いずれもスモンの主要病因論たる地位を占め得ていない。被告会社は、これらの諸説についての積極的な主張・立証をしないし、これ以上に検討を進めるべき資料もない。

三感染説

1 はじめに

キノホルム説が発表されるまでは、スモン多発地域の報告者は感染説に立つ傾向があつたこと、エコー二一型ウイルスの分離は追試の結果支持されなかつたが、甲野はスローウイルスの可能性を示唆したこと、新種のスローウイルスがスモンの病因であると主張する京大井上幸重らの研究は、スモン協において凍結されたこと等については、既は第一章で述べた。

本項においては、被告田辺が強力に主張する、右井上らの研究にかかるスローウイルス即ちウイルスについて検討することとし、他の感染説についてはこれを省略するが、右検討に入る前に、感染説に有利な事実及び不利な事実といわれているものをまず一瞥しておくことが役に立つであろう。

2 感染説に有利・不利な現象

〈証拠〉によれば、甲野は概ね次のように整理していることが認められる。

(一) 感染を示唆する現象

(1) 小地域に数年にわたり流行発生する。

(2) 特定の工場、鉱山等との関連はない。

(3) 家族内発生が少なくない。家族集積性がある。(ちなみに、死亡率あるいは疾病率などの頻度の分布が、時間的あるいは空間的に偏つている時、頻度が高率であることを集積性とよぶ。集積性が偶然起こつたのでないことが確かめられれば、それは疫学的解析の手がかりとなる。特に家庭という生活単位内における頻度の集積を家族集積性という。これは、感染機会の大きいこと、遺伝・環境条件を等しくすること等重要な意味を有する。)

(4) 院内発生があり、病棟集積性を示した例がある。

(5) 家族内または院内発生における一次、二次患者の間隔は平均2.5か月、発生は連鎖的であり、右間隔を潜伏期として説明できる。

(6) 流行地では患者年令につき浸いん度前進現象(年度の推移により患者層が若年者側に移動すること)がある。家族内発生では二次患者の年令は一次患者に比し若い傾向がある。

(7) 職業別罹患率では医療職、事務職が高い。

(8) 夏季に多発する。消化管感染を疑わせる。

(9) 逐域伝播を思わせる現象がある。

(二) 感染説では説明しがたい現象

(1) 日本独特の病気で、一九五〇年代の後半から新たに出現した。

(2) 小児に極めてまれで、中年女性に多い。

(3) 散発地では伝染を思わせる事実がない。

(4) 臨床的に①発熱を欠くことが多く②血液像、髄液所見に特記すべきものがない。

(5) 病理学的に①軸索変性、脱髄が主病変で炎症性病変を欠き②病変は局所解剖学的に脊髄の亜急性連合変性にもつとも似ている。

3 コツホの条件の修正

既に第二の四の1でふれたコツホの条件については、前掲丁第一一六号証の四によれば、今日では色々修正を加えられており、これをスモンに適用するならば、概ね次の如きものになることが認められる。

(一) ある病原体がスモン患者の検体中から分離される頻度が、非スモン患者検体からの分離頻度より有意に高くなくてはならない。

(二) 各地のスモン患者から同一の病原体が得られなければならない。

(三) スモンの経過中、その病原体に対する抗体価の上昇が証明され、非スモンではこのようなことがなければ、有力な証拠になる。(但し、ある種のスローウイルス感染では抗体反応のないことにも注意の要がある。)

(四) その病原体によつて、スモンの疫学的特徴が説明されなければならない。

(五) その病原体の生物学的性状が明らかにされなくてはならない。

右条件をすべて満たす病原体の存在が証明されたならば、その病原体がスモンの原因であるという事実が高度の蓋然性を以て証明されたこととなるであろう。被告田辺は、前記井上ウイルスがコツホの条件を満たしている旨主張するので、次項以下において検討していこう。

4 井上ウイルス説の根拠

被告田辺は、井上ウイルスがスモンの病因であるとの主張の根拠事実として、以下の諸点を列挙している。

(一) スモンの疫学的特徴は感染症を示唆するものであり、井上ウイルス説によつて説明が可能である。

(二) 井上らは、岡山・大阪・北海道の各地のスモン患者の糞便、脊髄液(リコール)等を用いてウイルスの分離を試みた結果、細胞変性効果(CPE)によつてウイルスの存在を認めたが、このウイルスは、病変の特徴からしてスローウイルスと考えられる。

(三) 島田らは、井上ウイルスの家兎抗血清を用いてスモン患者の脊髄組織内を螢光抗体法で検討した結果、ウイルスの存在を証明した。

(四) 井上・島田らは、スモン患者の血清中のウイルス抗体を長期間にわたつて追跡観察した結果、有意の上昇をみていることを確認し、ウイルスとスモンとの関係を血清学的に証明した。

(五) 井上ウイルスの生物学的性状は、電子顕微鏡写真撮影の成功等によつて明らかである。

(六) マウスを用いての動物実験によつて、井上ウイルスによるスモン様症状の発現及び発症マウスからのウイルスの分離に成功した旨の報告が多数存在する。

以下、右諸点の内容を詳しくみていくとともに、それらに対する反論、反証についても併せて検討していこう。

5 疫学的特徴

(一) 小坂らの研究

〈証拠〉によれば、小坂・島田らによつて行なわれた、岡山県井原・芳井地区におけるスモンの疫学的調査研究の結果要旨は次のようなものであることが認められる。

(1) 新患者の発生が井原市の南西部から漸次周辺の地区へ移動した。

(2) 年次患者数が増加し、それにつれて若年層の発生が増加した。

(3) 家族内発生が高率にみられた。

(4) 病院内発生も含めて同一集団内多発例があつた。

(5) スモンの発生は井戸水飲用群に集中し、水道水使用群にはきわめて少なかつた。

(6) 昭和四四年一月の上水道設置に引き続き、同年三月一〇日から井原市民全員を対象とした衛生教育(手洗を励行し、生水を飲まない。)が開始されたところ、同年六月から新規患者の発生が激減しスモン発生を終焉に導きえた。

そして、小坂らは、右(1)(2)の事実は、感染症の流行にみられる浸いん度前進現象と解されるものであり、他の事実とあわせ考えると、スモンは感染症と考えられると述べている。

なお、〈証拠〉によれば、西村千昭(北里大)は、スモンの疫学を論ずる場合、周辺地域の住民に獲得免疫が成立し、抗体保有者が増加することによる病気の自然終熄を考慮する必要がある旨述べていることが認められる。

(二) 反論

〈証拠〉によれば、青木らは、名古屋市におけるスモン患者を時間と場所の関係においてとらえ、その疫学的研究の結果、①同市においては患者が感染症の如く逐次周囲に連続的に拡がるというより、狭い地区内に散発的に発生する型をとること②患者住居間は近いようでも実際にはまつたく交際のない関係が多く、交通、買物、職場等接触層と発症の関係は認め難かつたこと③職場内発生も医療機関をのぞいてはうすかつたこと等から、感染型と考えるには無理があると思われる旨報告した事実が認められるのであつて、井原・芳井地区でみられたという浸いん度前進現象は必ずしも、他のスモン発症地区でみられるわけではないことも認められる。

〈証拠〉によれば、家族集積性は岡山の頻発地等で特に顕著であるが、全体としてみると全国調査では三%(一〇五名)に家族内発生があつたにすぎないことが認められる。

〈証拠〉によれば、スモン協保健社会学部会の飯島伸子(東大)らは、井原地区調査の結果、①井原市の上水道は、市内五地区、全人口の約四分の一を対象として、昭和四三年一二月に設置され給水を開始しているにすぎず、隣の芳井町においては、この時期には簡易水道すら設置されていないこと ②井原市の広報による「衛生教育」は芳井町民に及んだとしても間接的であるにも拘らず、芳井町でも井原市とほぼ同時期に新患者の発生が激減したこと等の事実から、島田らの前記見解に対して疑問を呈していることが認められる。

更に、〈証拠〉によれば、甲野は感染説に対する疫学的反論として、次のように述べていることが認められる。即ち、伝染病の防疫対策としては宿主対策と病原(又は環境)対策とがある。スモンについては、井原市における水道の整備のごとき多少の環境対策がとられた以外には、全国的には一切対抗防疫手段はとられていない。昭和四五年のキノホルム説登場後は、スモン患者はいわば隔離を解除されたわけであり、感染のチヤンスがあるとすれば、スモンは増大する筈である。然るにスモン発生は激減したのであるから、このような現象を感染病として説明することはできない。

6 井上ウイルスの存在

(一) 発見

〈証拠〉によれば、井上らは、スモンのウイルス学的研究の結論として、「岡山のスモン患者糞便より既知の腸内ウイルスと性状を異にする新しいウイルスが高率に分離された。同種ウイルスは地域を異にする大阪並びに北海道のスモン患者の脊髄液からも高率に分離される。同ウイルスに対してスモン患者血清は極めて低い中和抗体価を示すが、健康者成人血清には証明されない。また非スモン患者の脊髄液から同種ウイルスは通常分離できない。しかし、例外的に二例の成人の無菌性髄膜炎患者の脊髄液から同ウイルスが分離され、回復期患者血清は高い中和抗体価を示した。故にスモンを、免疫反応不全に伴う新種ウイルス感染症と考える」旨まとめていることが認められる。

そして、〈証拠〉によれば、島田は、「井原・芳井地区における疫学的研究では種々の面から感染症に一致する成績が得られた」との前提のもとに、同研究のまとめにおいて、スモン発病初期の臨床所見では一般の感染症にみられるような自覚症、とくに発熱、食欲不振、全身倦怠感が少なく、また感染症特有の血液像の変化も認められないことから、スローウイルス感染症に近いものと思う旨述べた事実が認められる。

(二) 形態

〈証拠〉によれば、井上らは、井上ウイルスの電子顕微鏡写真撮影に成功した結果その形態は次のようなものであることがわかつた旨報告した事実が認められる。即ち、その外被(エンベロープ)の大きさは種々であるが、内部の蛋白殻(カプシツド)は直径が約一一〇nm(ナノメートル、一ナノメートルは一ミリミクロンに等しい。)で外形は六角形である。カプシツドのサブユニツトである輪状のカプソメアは外径約一〇nmで正三角形の形に配列されており、各辺は五個のカプソメアから成り、軸比が五対三対二の回転対称形で、ウイルス粒子あたり総数一六二個のカプソメアから成つている。その結果、井上ウイルスは形態学的にヘルペスウイルス(ヘルペスは疱疹を意味する。)の一種であると結論づけられた。

(三) 性質

〈証拠〉によれば、西部陽子(京大)らは、井上ウイルスはエーテル感受性があり、DNA(デオキシリボ核酸)を含むウイルスであり、一種の新らしい神経性のスローウイルスであると思われる旨述べていることが認められる。

(四) 培養

〈証拠〉によれば、井上は、井上ウイルスの培養について次のように報告した事実が認められる。

指標として細胞変性効果(CPE、ウイルス感染により培養細胞に起こる破壊性変化)を用い、牛アデノウイルスにより誘発されたハムスター腫瘍に由来するBAT―六細胞を用いて井上ウイルスの培養と定量を行なうことができる。しかしながら、BAT―六細胞は試験管培養では弱い不完全なCPEしか示さない。井上ウイルスはヒト胎児肺細胞並びにヒー・ラ細胞(ヒトの子宮頸部癌に由来する細胞)で増殖することができ、CPEを認めることなく液相に遊離される。

又、西村は、戊第二一五号証において、BAT―六細胞、C五七BL/六マウスでの培養で、井上ウイルスによる細胞変性効果がみられたこと、孵化鶏卵漿尿膜(CAM)におけるウイルス培養により、同病変部の上皮細胞の核の中に、ヘルペスウイルス特有の核内封入体であるカウドリー小体が証明されたことを報告している。

(五) 抗体反応

〈証拠〉によれば、井上らは、ヒトにおける井上ウイルス感染と抗体反応について次のようにまとめていることが認められる。

スモン患者の急性期の血清においては、井上ウイルス中和抗体価は通常低いが、スモンの発病又は最後の再燃から一年経過した回復期の患者では、通常抗体価の有意の上昇が認められる。一方、スモン患者の看護にあたつた健康な看護婦六名中三名の血清には抗体の存在が確認された。このことは不顕性感染が起こり得ることを示している。無菌性髄膜炎三例の回復期血清には高い抗体価がみられたが、健康人の血清の抗体価は低い。スモン患者の抗体生成反応が低いのは、臨床経過が亜急性に変化すること、脊髄中にウイルス感染が持続すること、並びに脊髄液から容易に井上ウイルスを分離する能力に関係しているように思われる。

なお、〈証拠〉によれば、島田らは、スモン患者の脊髄組織内における病原体の局在を追求する目的で井上ウイルスの家兎抗血清を用いた螢光抗体法で検討したところ、特異螢光陽性例はスモン五例(うち一例は疑い例)中四例であり、対照例は全例陰性であつたとの結果を得たことが認められる。

(六) 動物実験

〈証拠〉によれば、中村良子(京大)らは、井上ウイルスをC五七BL/六マウスに出生時脳内接種したところ、感染マウスは二・三週間かそれ以上の潜伏期の後で後肢に麻痺を起こしたこと、主な病理学的所見は脊髄のゴル索と錐体路の炎症反応を伴わない対称性の軸索変性と脱髄であつたことを報告していることが認められる。

〈証拠〉によれば、小沢恭輔(目黒研究所)らは、サイクロフオスフアマイド処置成熟マウスに、井上ウイルスを経口投与したところ、二・三週間以上を経て立毛、衰弱、後肢機能障害を示したこと、しかし成熟マウスにおける発病頻度は低く、回復例も見られたことを報告していることが認められる。

〈証拠〉によれば、中村らは、井上ウイルスを新生児マウスに腹腔内又は皮下接種すると、二・三週間以上の潜伏期を経て、後肢麻痺を主として発病すること、病理所見も基本的に脳内接種で発病したマウスと同じであることを報告していることが認められる。

〈証拠〉によれば、小沢らは、免疫抑制剤エンドキサン処置成熟マウスに井上ウイルスを脳内接種した結果、感染マウスは立毛、衰弱、歩行障害、後肢麻痺の症状を示した旨報告したことが認められる。

〈証拠〉によれば、木村右(徳島大)らは、スモン様症状を呈するキノホルム非服用の多発性神経炎患者の脊髄液から井上ウイルスが分離され、これをC五七BL/六乳のみマウスに脳内接種したところ、一七匹中二匹が約三週間後に体重減少、立毛、後肢麻痺を示し、それから死亡した旨報告していることが認められる。

〈証拠〉及び当裁判所における八ミリ映画フイルム一巻(検戊第四号証)の検証の結果によれば、被告田辺の安全性研究所員は、昭和五〇年一月二日に発症したキノホルム非服用スモン患者として報告された患者(戊第三四七号証参照)から採取された脳脊髄液を用いて、C五七BL/六J系マウスの脳内及び腹腔内接種実験を行なつた結果、立毛、運動麻痺、運動失調、体重低下等発症を示唆する所見がみられた旨報告していることが認められ、更にこの患者の血清の井上ウイルスに対する血清中和抗体価を井上が測定したところ四五倍であり(戊第三六九号証)、井上はこの患者の髄液からの井上ウイルスの分離は陽性であつたと報告したこと(戊第三七〇号証)がそれぞれ認められる。

更に、当裁判所における一六ミリ映画フイルム一巻(検戊第二号証)の検証の結果によれば、被告田辺の安全性研究所員が、昭和四二年一一月五日神経症状発症のスモン患者の髄液を同五一年九月に採取し、これをC五七BL/六マウスに脳内接種したところ、体重増加の抑制、矮小、立毛、自発運動の低下、よろめき、歩行リズムの乱れ、後肢の引きずり等スモン発症を示唆するが如き所見を呈した事実が認められる。

又、当裁判所における一六ミリ映画フイルム一巻(検戊第五号証)の検証の結果によれば、被告田辺の安全性研究所員が、昭和四六年三月発症のスモン患者の髄液をC五七BL/六マウスに接種し、その結果運動麻痺を起こしたマウスの脳脊髄乳剤を更に別のマウス新生児に接種(ウイルスの継代)したところ、このマウスは前記マウスと同様の運動障害を示したこと、時間の経過に伴つて前後肢の麻痺はやや回復したが、自発運動は殆どなく、刺激によつて少し身体の向きを変える程度であり、後足を大きく外反足様に出していたことが認められる。

7 井上ウイルス説への反論

(一) はじめに

本項においては、主として乙第一五号証(東京地裁における証人甲野礼作の証人調書写)によつて、井上ウイルス説に対して加えられた批判をみていくことにする。甲野は、スモン協の会長であつたが、彼の専門は臨床ウイルス学である(同号証一九頁)。

(二) 追試

〈証拠〉によれば、甲野らは、BAT―六細胞に関するウイルス分離の追試実験成績を次のように報告した事実が認められる。

岡山及び東京のスモン患者の糞便二七例、患者脊髄一例、対照患者の糞便一〇例を、井上から交付を受けたBAT―六細胞に接種し、三ないし五代継代観察したが、すべてウイルス分離は陰性に終つた。又、スモン患者一〇例血清二三検体及び対照血清一〇検体について中和試験を行なつたが、中和の事実は認められなかつた。なお、BAT―六細胞は増殖が旺盛である反面極めて脆弱な細胞で、無接種の対照において自発的な細胞の変性崩壊が強く、CPEを指標とする限り、余程これが明瞭である時は別として、CPEが弱い時には判定が非常に困難である。

更に甲野は、乙第一五号証(一六四頁以下)において、ヘルペスウイルスは形態学的に特徴を有し、電子顕微鏡によつてすぐわかるが、スモン患者の材料の顕微鏡的検査によつてヘルペスウイルスが見えたという報告はないこと、ヘルペスウイルスが感染すると、細胞の核の中に封入体が出てくるが、スモン患者の解剖所見上そのような特徴的な変化は一切出ていないことを指摘している。そして、戊第三六六号証によれば、吉野亀三郎(東大)は、西村が戊第二一五号証において封入体であると指摘したものは核小体である旨反論している事実が認められる。

(三) 検出率

〈証拠〉によれば、甲野は、井上ウイルスの検出率が高いことについて次のような疑問を呈していることが認められる。即ち、丁第三号証(三一頁以下)の井上らの報告によれば、岡山・大阪の例については八六%をこえ、北海道の例については約八〇%と検出率が極めて高い。しかし、ウイルスが安定化するためには蛋白質がかなり必要であるところ、スモン患者の脊髄液中には蛋白の増加が殆どなく健康者の脊髄と同様であるから、脊髄液中ではウイルスは非常に不安定である。それが右のように高率にしかも長い間検出されるということは非常に考えにくい。

(四) 潜伏期

〈証拠〉によれば、甲野は、現在の斯界の意見では、遅発性の感染はあるけれども、スローウイルスというようなものは意味がないと考えられていること、スモンについて算定された潜伏期が例えば岡山においては2.5か月とされているが、これはスローウイルス感染とは非常に違つていることを指摘している事実が認められる。

(五) 病変

〈証拠〉によれば、甲野は、スローウイルス感染症にあつては、炎症反応は最少限に止まり、変性病変が前景に立つから、スモンの病変は必ずしも感染を否定するものではないが、あまりにも左右対称的な索変性は、ウイルスによる中枢神経系の一次的侵襲としては極めて理解し難く、その病変には好発部位はあるにしてもその分布はもつとアツト・ランダム(偏らないこと)である旨述べている事実が認められる。

〈証拠〉によれば、小川勝士らは岡山地方でのスモンと診断し得た二五症例の剖検を行なつてその形態学的検索を行なつたが、感染症を考えさせる炎症病変はみられなかつた(神経病変はノイロン末梢に強い変性で、その広がりはキノホルム投与量と相関性を有し、筋萎縮は末梢神経性のもので、神経病変の強いもの程より強い萎縮を示し、消化腺にみられた分泌物貯溜は自律神経失調の結果と考えられる。)旨報告していることが認められる。

(六) 動物実験

〈証拠〉によれば、多ケ谷勇や北原典寛ら(いずれも国立予防衛生研究所)の研究をふまえ、甲野は、昭和四七年七月二〇日にスモン班微生物部会で井上ウイルスの検討会を行ない、主としてC五七BL/六系哺乳マウスに対する病原性を中心に追試成績を論議したところ、一定の結果が得られず、その脊髄の病変に関する限りは、神経病理学者の意見によればウイルスを接種しない同日令の幼若マウスにも同様の所見がみられ、むしろ髄鞘の発育過程の範囲内のものとみなされ、従つてヒトのスモン並びにキノホルム投与による実験的スモンの脊髄病変とは性格を異にすると結論された旨報告していることが認められる。

なお、前記各検証の結果(映画)によれば、マウスがスモン様症状を呈した原因はスモン患者の脳脊髄中に存したウイルスであるとの被告田辺主張の事実が一見肯認できるかのごとくである。しかしながら右発症マウスの病理所見は明らかにされておらず、追試による確認もなされていない現状では、井上ウイルス説はキノホルム説との対比では科学的にも問題にならず、右検証の結果を以てウイルス説の有力な証拠とはいまだ評価しがたい。

(七) 凍結措置

こうして、昭和四七年九月二四日、スモン協としては最後の総会において、研究会終了後会長甲野から、井上ウイルスの研究は凍結したい旨の提案がなされ了承されたことは、第一章第一において既に認定した(なお、戊第二三六号証参照)。

8 考察

科学的研究領域においては、普遍性が重要な要素であることに異論は無いであろう。然るに、井上ウイルスに関しては、ウイルス学の専門家の間においてすら追試に成功したとは言えないことは、前項までの検討から明らかである。しかも小児に少ないこと、わが国以外では珍しいこと等、キノホルム説に向けられたものと同様の疑問が感染説にも向けられているが、これに対して納得のいく説明はなされていないし、又、キノホルム説がその論拠とする昭和四五年九月以降のスモン発生数の激減を果して十分に説明し得るかも疑問である。

結局、井上ウイルスがスモンの原因であるとの被告田辺主張の命題については、いまだ法的にも、通常人の納得のいく証明がなされていないといわざるを得ない。

四他原因考察のまとめ

以上の検討によれば、キノホルム説以外の、スモン病因論諸説はいずれも納得のいく証明がなされておらず、前項において証明されたキノホルムとスモンとの間の法的因果関係の存在を、所詮揺るがすものたり得ないというべきである。

第四  結論

以上の次第で、臨床及び病理的に確実なスモンは、キノホルムの服用によつて発症したものであると合理的に推認され、従つて、キノホルム剤服用とスモンとの間には、法的因果関係の存在が肯認されることになる。なお、スモンの発症機序はキノホルム説の立場によつても完全に明らかにされているわけではないが、そのことは法的因果関係の存否とは別次元の問題であつて、右判断に何ら影響を及ぼすものではない。

第四章  被告会社の責任

(その一)――総論

第一  医薬品の特性

一医薬品

1 はじめに

本件においては、医薬品への不純混入物の作用として発生した損害(いわゆる製造工程上の瑕疵に基づく損害)が問題とされているのではなく、規格どおりの品質・性状を以て製造された医薬品(以下「純正医薬品」ということがある。)の服用によつて被つた損害が問題とされているのであるから、医薬品というものが有する特質についての検討が不可欠である。

2 定義

薬事法(昭和三五年法律第一四五号)二条一項によれば、同法上、「医薬品」とは次の各号に掲げる物をいうとされている。

(一) 日本薬局方に収められている物

(二) 人又は動物の診断、治療又は予防に使用されることが目的とされている物であつて、器具器械(歯科材料、医療用品及び衛生用品を含む。以下同じ。)でないもの(医薬部外品を除く。)

(三) 人又は動物の身体の構造又は機能に影響を及ぼすことが目的とされている物であつて、器具器械でないもの(医薬部外品及び化粧品を除く。)

これは、「医薬品に関する事項を規制し、その適正をはかることを目的とする」(一条)衛生法規的観点からの定義である。

ちなみに、昭和二三年薬事法上の医薬品に関する定義は後記(第六章第四の三の1の(七)の(2)のb)記載のとおりである。

又、丙第二九四号証の一によれば、WHO(世界保健機関)科学グループは、一九七四年(昭和四九年)医薬品を、「投与されたヒトの利益のために、生理的機能や病状を和らげたり、診断するために用いる、又は用いることを目的とする物質又は製品のことをいう。」と定義していることが認められる。

この他にも教科書等において種々の定義が試みられているが、結局は、医薬品の有する特性を如何に表現するかに帰するところ、いずれも抽象的になるのを免れ難いようである。そこで次項において、医薬品の特性をやや具体的に見ていくこととしよう。

3 特性

〈証拠〉によれば、医薬品について次のようにいわれていることが認められる。

医薬品は、人又は動物の身体の構造又は機能に影響を及ぼす作用即ち生理活性を有するものであるが、本来、人間の身体になじみのない物質(異物)である。従つて、その医薬品自体によつて身体の細胞が害されることもあるし、その医薬品を解毒しようとして起こる変化の結果できた新しい物質がかえつて細胞に害を及ぼすということも起こりうるから、医薬品を飲まないでいるほうが、人間の身体の自然の状態にふさわしい。しかも、殆どの医薬品の薬理作用は解明されていない。それにも拘らず、医薬品は疾病の治療等のために我々の生活に無くてはならないものである。例えば、平均寿命が延びた最大の原因として、新医薬品の開発が考えられる。医薬品は人類に対して大きな恩恵をもたらしているから、いたずらに薬害恐怖症にとりつかれて、本当に必要な場合にも医薬品を使用しないことは、かえつて、家族、社会に重大な損失を与えることにもなりかねない。

このように、医薬品は、人体に投与される物質の有する多くの作用のうちから、人間にとつて役に立つ作用を発見して人体に応用したものといえるであろう。では、右にみたような「両刃の剣」的性格を有する医薬品が人間に対して有する価値はどのようにして計られるべきであろうか。次にこの点について検討しよう。

二有用性

1 はじめに

前項でみたように、医薬品は疾病の予防・治療等に対して効果を有しなければならないが、他方できるだけ身体に対して安全でなければならない。この二つの矛盾することの多い要求を統一した、医薬品の有すべき価値の判断基準は、有効性と安全性との比較考量に求められているようである。丁第七四号証によれば、厚生省薬務局製薬第二課長は、昭和四八年四月一〇日「医薬品再評価における評価判定の改正等について」と題する通知において、有用性の判定は、その医薬品が有すると考えられる有効性と副作用とを勘案のうえ行なうものとする旨述べ、「有用性」という概念を用いていることが認められる。以下においては、有効性、安全性そして有用性という各概念の内容について、やや詳しく検討しておく。

2 有効性

〈証拠〉によれば、砂原茂一(国立療用所東京病院長)は医薬品の有効性について、次のように述べていることが認められる。

医薬品のききめの判定というのは、容易なようにみえて、実は非常にむつかしい。例えば、ある患者にある医薬品を飲ませたところその病気が治癒したという事実があつたからといつて、その医薬品の効果によつて病気が治癒したとは速断できないのである。何故なら、患者というものは一人一人特別な条件をもつていて、二人としてまつたく同じ患者というものは存在せず、一人の患者にある治療を施したあとで病状がよくなることが観察されたとしても、同じ病気の他の患者に同じ医薬品を与えたとき同じような効果が期待できるとは限らないこと、更に病気には自然治癒ということがあつて、医薬品を使わず、手術をしなくても、自然によくなることがあるからである。従つて、我々は時間の前後関係と因果関係とを取り違えないように注意しなければならない。又、にせぐすり(プラセボ)に対して人間はしばしば著明な反応を示すし、本来の医薬品に対する反応の中にも、本来の効果とは別に、にせぐすり反応がその一部として含まれているから、医薬品の実力を試験するためには、みかけの効果からにせぐすり効果を差し引くことが必要である。

右のような事情(特に自然治癒)を考慮したうえで、医薬品のききめを判定するには比較対照試験が必要である。しかも、当該医薬品を服用する群と対照群とのそれぞれのバラツキへの対策として、無作為割当法(これによれば、治療効果に影響を与えるすべての因子が、我々の知・不知に拘らず公平に分配される。又、患者数が多いほど症例構成が偶然に一致する。)によつて、両群をつくらなければならない。更に、にせぐすり効果への対策として試験対象の医薬品非服用群に対してにせぐすりを飲ませたとしても、患者がどちらがにせぐすりであるかを知つていると効果の判定ができないばかりか、医者が知つていてもやはり正しい結果は得られない。何故なら、先入観のために公平な評価ができない上に、そういう態度が患者にも直接、間接に反映して、にせぐすりと本物との差が、実際よりも大きく出がちだからである。従つて、厳密な試験の場合には二重盲検法(患者だけでなく、医師や看護婦にもどちらが本物でどちらがにせ物かを知らせない方法)が行なわれなければならず、これができなければ、少くなくとも患者にだけは知らせない普通のめくら試験が行なわれなければならない。このような厳密な試験を経てはじめて、医薬品の有効性が正しく評価され得るのである。

然るに、このような方法が用いられるようになつたのは第二次大戦後のことであつて、わが国で、有効性に関する科学的判別法による証拠を提出しなければ、新薬の発売が許されないと決められたのは、昭和四二年になつてからであり、又、既に市販されている医薬品の再評価が行なわれたのは、やつと昭和四六年になつてからのことである(後記第六章第九の三の7及び11参照)。従つて、昔から伝統的、習慣的に使用されてきた医薬品にこそ、本当にきくのかきかないのかわからないものが多いという事実を、我々は念頭に置いておかなければならない。

3 安全性

〈証拠〉によれば、以下のとおり認められる。

安全性の高い医薬品とは、副作用の少ない医薬品であるといつてよいであろう。ところで副作用とは、主作用に対する言葉であるが、一つの医薬品の有する作用のうちでどれが主でどれが副かということは決めにくいことなので、あまり適切な表現とは言い難い。(しかし、本判決においては、慣用に従つて副作用とい言葉を用いることとする。)

そして、〈証拠〉によれば、WHOは一九六三年(昭和三八年)医薬品の「副作用」を、「人体に有害であつて、意図しないもので、疾病の予防、診断又は治療の目的で或いは生理的機能を変化せしめる目的で人体に通常使用される量で発現するもの」と定義していることが認められる。右定義中の「通常の使用量」というのはあまり明確でないが、要するに一度の大量投与による中毒の如きものを除外する趣旨と解すべきであろう。

ところで〈証拠〉によれば、「なかには治療効果と毒性が同じ一本の線の上に乗つかつている場合もあるし、楯の両面である場合もあるので、比較的安全な薬はあつても、完全に安全な薬はないと考えた方がいいかもしれ」ず、「ききめのつよい薬であればあるほど、副作用を完全にまぬかれるのはむつかしいことのようで」あると砂原が述べている事実が認められる。従つて、副作用が医薬品に伴うことが必至である以上、副作用を有することがただちにその医薬品が欠陥品であることを意味するものではないといわねばならない。そこで、有用性についての考察が必要とされるのである。

4 有用性

これまでみてきたような医薬品の「両刃の剣」的性質に鑑みれば、医薬品の価値に対する評価は、その有する効果と安全性との比較考量によつて決められることになる。即ち、副作用は本来相対的なものであり、頭から危険な医薬品と安全な医薬品とを分けてかかるのは正しくなく、むしろ多くの薬の場合は、いかに安全に使うかが問題である。もつとも、医薬品によつてどんな患者にどれほど工夫して使つても危険なものがあるが、このようなものは薬の名に値しないであろう。

ところで、〈証拠〉によれば、有用性を判定する場合に考慮すべき副作用の評価に際しては、次のような点が考慮されるべきであると認められる。

(一) 効果とのバランス。どんなに副作用の少ない薬であつても、効果が全くないというのでは存在の意味がない。一方効果の顕著な薬は明らかに副作用があつても捨てがたい。

(二) 代用薬の有無。より効果が大きいか或いは同じ程度の効果をもち、より副作用の少ない医薬品が存在したり、又は新しく出現すれば、副作用の大きい医薬品は淘汰される。

(三) 副作用症状の重さ。

(四) 病気の重さとのバランス。自然に治る病気にゆゆしき薬を使つて重大な副作用を起こすのは、それが稀なものであつても許されない。一方、癌の化学療法などの場合は、原病は必ず死に至るわけだから、延命のために比較的重大な副作用のある薬剤の使用もある程度是認される。

(五) 副作用の可逆性。比較的軽い副作用であつても治療の方法がなく、一生多かれ少なかれ不自由を忍ばねばならないような副作用は避けねばならない。

(六) 副作用の頻度。比較的重篤な副作用でもきわめて稀にしか起こらない副作用なら、場合によつてはその医薬品は利用価値を有する。しかし、副作用の正しい頻度をはじき出すことはきわめて困難である。

(七) 患者の特殊な状態とのかかわりあい。妊婦、老人或いは幼児にのみ危険な薬、ある病気の患者にだけ副作用を起こしやすい薬については、そのような特殊の場合を除いて使えばよい。

なお、〈証拠〉によれば、医薬品が人体に及ぼす作用を考えれば、当然に、よく効く医薬品はその危険性も高いものであると言い得ることが認められる。又、〈証拠〉によれば、砂原は、医薬品は病気の自然治癒傾向を前提として、それを促進し、それを妨げる条件を取り除くためのものであると述べていることが認められる。従つて、性急に病気を治癒させようとして強力な効果を有する医薬品を服用することは、大きな危険性を孕むものであることはいうまでもないであろう。

5 まとめ

有用性の判断は、以上の諸事情を総合的に判断して、有効性と安全性との比較考量の上に立つて行なわれることになる。但し、右の比較考量は、既に述べたところから明らかなように、有効性の認定に際しては厳格に、副作用の発現可能性の認定に際しては緩やかに判断された上でのバランス論でなくてはならない。

三純正医薬品の欠陥とその推定

純正医薬品については、副作用の発現を以て直ちに欠陥ありと決めつけることはできず、有効性の有無と両者を統一した有用性についての価値判断がなされるべきであることを前項で考察した。

これを法律的に分析、統合すれば以下のとおりとなる。即ち、純正医薬品の使用によつて副作用が発現したことを消費者が主張・立証しさえすれば、それによつて人の生命・健康の保全が十全を期しえなかつたといえるのであるから、それだけで当該医薬品の供給は違法であると先ず推定される。それが違法でないというためには、当該医薬品の供給者側の方で、当該医薬品につき供給者側で指示した用法、用量を守つていれば当該副作用が発現することはないこと、仮に副作用が発現したとしても、当該医薬品の効果が大であるとか、副作用症状が軽微であるとか、或いは一過性であるとか、公衆衛生の向上及び増進をはかり、国民の健康な生活の確保に資するといつた観点から頻度が少なく無視しうるものであるとか、原病との関係(例えば癌など)で万止むをえないとかいうように、有効性と副作用との比較考量を経てもなお有用性があるとの主張・立証に成功しない限り、当該医薬品の供給が違法であるとの推定は覆らず、従つてそれを有用性なき医薬品即ち、欠陥医薬品というべきである。というのは、第一に、医薬品は効果があり、かつ、安全であるということが究極の存在意義であり、消費者も医薬品にはそれを期待していること、換言すれば人のための医薬品であつて、医薬品のための人であつてはならないこと、第二に、医薬品製造業者も効果があり、かつ、安全なものを目ざしてはいても、現代科学の到達度からして全く安全なものを作り得る段階に達しているとはいえず、それを現時点で要求することは医薬品の否定にもなりかねず、当を得ないこと、第三に、副作用の発現は消費者の身体に直接顕れるものであるし、その立証を消費者に委ねても難きを強いるものとはいえないこと、第四に、有効性及び有用性の判断は極めて高度の科学的能力と財力を要する困難なもので、それは供給者側において具備されてはいても消費者側は徒手空拳であること、しかもその資料は医薬品の供給者側の領域内にあり、消費者側はそれを見ることさえ事実上不可能なこと等の理由、即ち医薬品の存在意義、医薬品の「両刃の剣」的性格、立証の公平な分担等の理由の総合判断からの帰結である。当然のことながら、有用性の立証に際しては、当該副作用がある特定の国にもつぱらみられる場合には、当該国における有用性を立証しなければならず、当該国以外の国の事情を以てこれに代えることは許されないというべきである。

第二  医薬品製造業者の注意義務

一医薬品製造の目的

今日まで、画期的な新医薬品の殆どが製薬会社の研究所で完成されてきたことは公知の事実であり、今後もこの事情に変化はないであろう。(ちなみに、〈証拠〉によれば、砂原は、ペニシリンとストレプトマイシン以外の抗生物質は、殆どすべて製薬会社の研究室から出たものである旨を述べている。)その意味で、製薬会社が人類の福祉に貢献して来た役割には無視すべからざるものがある。しかしながら、他方、製薬会社が資本主義社会の企業である以上、利潤を追求し、しばしば行きすぎた宣伝、広告を伴つて、あたかも利潤獲得のみが目的であるかの如く振舞うことがあるのも、又公知の事実といえよう。(ちなみに、〈証拠〉によれば、昭和三〇年に、厚生省のいわゆる七人委員会は、宣伝方法の統制を答申したことが認められ、更に〈証拠〉によれば、厚生省はしばしば、広告を適正化するための通達を発してきたという事実が認められる。)

ところで、医薬品は人間の生命・身体という最高の価値に関わるものであり、医薬品製造の目的は、人類の福祉に貢献する有効で安全な医薬品の提供にあると考えられるべきであるから、医薬品製造業者は、人類の福祉に貢献しているという誇りを持つとともに、その職務内容が直接に人間の生命・身体という最高価値に関わつているものであることを痛切に自覚して、重い責任感を持つべきである。ゆめゆめ利潤獲得を自己目的として、人間の生命・身体という価値を踏みにじるようなことがあつてはならないのであつて、そのような行動は結局自らにはね返つてくるものであることに思いを致すべきであろう。

二注意義務の程度

1 はじめに

右にみたような医薬品製造業者のあるべき姿に鑑みれば、医薬品製造業者に対して、安全性について最も深い配慮を払うべき義務が課せられるのは当然である。しかも、砂原によれば、わが国ほどどんな医薬品でも街の薬局で自由に買える建前の国は少ないといわれているところ(乙第一一一号証四頁)、一般大衆が自己の購入した医薬品の安全性を検証することは、その知力、財力からして全く不可能であるばかりか、専門家とされている医師についても、医療現場で多くの医薬品と接触する多忙な臨床医が、自己の使用する各医薬品について、その有効性、安全性をチエツクすることは事実上困難である。(ちなみに〈証拠〉によれば、製薬会社配付の小冊子は、ある場合には、医師の薬の知識の大部分の供給源としての役目を果しているという。)更に、今日のわが国のように、医薬品が広範に使用されているところでは、いつたん欠陥医薬品が市場に出まわつた場合には、極めて重大な結果を招来し、深刻な社会問題に発展する危険性が高いものであるから、特に、医薬品を商品として工業的に大量生産する者は、その安全性を確保するために、一層高度かつ厳格な注意義務を負うものというべきである。

然るに、被告会社は、或いは医薬品製造業者の負うべき注意義務の程度は医薬品発売当時の行政取締のレベルで足りるとか、或いは日本薬局方等公定書に収載された医薬品を公定書に沿つて製造等する者については、注意義務が免除又は大幅に軽減されるなどと主張しているので、以下その失当であることを順次判断する。

2 行政取締との関係

(一) はじめに

被告チバは、新医薬品に関する各時代の行政的規制はその時代における科学技術の最高水準に裏付けられて行なわれているから、医薬品製造業者は、行政的規制の考察によつて、その当時とるべきであつた注意義務の程度を知ることができる旨主張する。この主張は、結局、国によつて製造許可・承認等がなされた以上は、その医薬品の有効性と安全性はいわば公認されたものであり、製造業者は注意義務を尽したものと評価されるべきであるとの主張に解せないではない。しかし、このような主張は、次の理由によつて失当というべきである。

(二) 審査の実態

〈証拠〉によれば、わが国における新医薬品の製造承認等の審査の実態は、多数の申請を少数の人員で処理するものであり、以前から審査の名に値するものがなされているだろうかという疑問が投げかけられていたことが認められる。

しかも、後記(第六章第四の三の1の(七)の(2)のe及び同(3)のc)認定のとおり、旧薬事法上は、公定書に収められていない医薬品の製造等の許可については薬事委員会(後の薬事審議会)の建議が必要とされていたが、申請件数の増大による事務渋滞が生じたので、右委員会は、事務処理迅速化のために、昭和二三年以降は、一定の要件(例えば、公定書医薬品或いは既に許可済の医薬品を有効成分とするもので効能その他の内容が適当なもの等)に該当する場合には、厚生大臣は委員会の建議をまつことなく許可をなし得るような運用が内部的に定められており(いわゆる包括建議)、その後申請の大部分は包括建議の線に沿つて処理されてきたのである。このような事情を考えれば、新医薬品の製造許可等が、先例の存在ということのみによつて安易になされてきたのではないかとの疑いを禁じ得ないのである。

そして、後記認定の諸事実、例えば昭和三七年のサリドマイド事件以後やつと審査に際し要求される資料の内容が厳しくなつてきたこと、その後昭和四二年一〇月二一日に「医薬品の製造承認等に関する基本方針について」という厚生省薬務局長通知(丁第八二号証)が各都道府県知事あてに発せられるに至つて、ようやく、審査資料の内容が充実してきたこと、昭和四六年から行なわれた前述の薬効再評価の結果、多くの慣用されていた薬剤が排除されたり制限されたりした事実からも、少なくとも昭和四〇年代に入るまでは、審査の実態に問題が存したことは容易に推測できよう。

更に、〈証拠〉によれば、わが国での審査は書類審査であつて、製薬会社が自ら或いは医療機関等に依頼して作成したデータが提出されるものであることが認められるが、これでは、製薬会社の有利・不利に拘らないすべてのデータが提出されるか否かについては、もつぱら申請者の良心を信頼するほかなく、疑問の余地を残しているものといえるであろう。

(三) まとめ

このように、国の審査体制は決して十分なものとはいえないのであるから(現在ではいくらか改善されてきたとはいえ)、医薬品の開発者として専門的知識を有する製造業者において、利潤を得るために必要な経費としてばかりでなく、人間の生命・身体という最高価値に関わる産業としての当然の義務として、多額の資金をかけても必要な実験・研究を行ない最善を尽して安全性を追求すべきであり、低い取締基準に乗じて手を抜くようなことがあつては断じてならないのである。

3 日本薬局方収載との関係

(一) はじめに

被告田辺は、医薬品が日本薬局方に収載されることによつて、その医薬品の有効性と安全性とは公認されたものとなる(従つて、薬事法上の承認を受ける必要がないとされている。第一四条一項)から、局方収載行為は、局方に沿つて医薬品を製造する者に対し、有効性及び安全性に関する調査研究義務を免除又は大幅に軽減するものである旨主張するので、以下判断する。

(二) 日本薬局方の性格及び改正の実態

後にも述べるとおり、被告国は、「日本薬局方とは、広く用いられ、かつ、有効なことが公知実証された医薬品中の医薬品ともいうべき重要品目について、現代の薬学、医学の知識を総合して、その品質及び性状を定めたものであり、したがつて、日本薬局方に収められている医薬品については、改めて厚生大臣が有効性と安全性を確認する必要は認められない」旨主張している。確かに〈証拠〉によれば、日本薬局方制定に関与するメンバーは、各時代の医学、薬学の権威者の集合であつたことを推認することもできる。しかしながら、〈証拠〉によれば、右局方制定作業に従事するメンバー中には、製薬企業関係者が相当数含まれていた事実も認められる。更に、薬事法四一条三項に、「厚生大臣は、少なくとも一〇年ごとに日本薬局方の全面にわたつて中央薬事審議会の検討が行なわれるように、その改定について中央薬事審議会に諮問しなければならない。」と規定されているのは、科学の進歩に伴い、その内容をできるだけ最新のものにしていこうという意図に基づくものと解されるが、前述の新薬審査の実態を考えるとき、薬局方改正の際に既収載医薬品の有用性の見直しが果して厳密に行なわれていたものかという点については疑いを持たざるをえない。ちなみに、乙第二六号証の一・二によれば、次のような事実が認められる。即ち、第六及び第七改正日本薬局方の制定作業に従事した石館守三によれば(同号証の一、一三頁)、局方改定のための予算はきわめて少額であつたし(同号証の二、九頁)、又、作業の内容は、まず現行の薬局方に基づいて原案を作成し、これを二、三百の医療機関に示して調査し、更に医師会、薬剤師会、製薬界に示して希望等を尋ね、その上でこれを整理して審議し、決定するという次第であり(同号証の一、一五頁)、調査の内容は、繁用の程度と常用量の調査とが主なものであつた(同一六頁)、なお、石館は、ある医薬品が繁用されているということは、その医療上の必要性が高い、即ち有効性及び安全性が高いということを意味するとの考えを有していたことが認められる(同二〇頁)。

(三) まとめ

このように、繁用ということが医学、薬学界で重視されていたこともあつて、薬効再評価が実施されるまでは、一旦薬局方に収載された医薬品の有用性の再検討は殆ど行なわれていなかつたのであるから、消費者たる国民に医薬品の安全性を確保すべき医薬品製造業者としては、製造医薬品(又はその有効成分)が局方に収載されているとの一事を以て安心することは許されず、特に安全性については、科学の進歩(例えば実験方法の進歩等)に応じた絶えざる研究や副作用等に関する情報収集等が義務づけられているといわなければならない。

4 まとめ

注意義務の程度に関しての本項における考察の結果は、次のようにまとめることができよう。即ち、人の生命・身体に重大な関わりを有する医薬品製造業者は、医薬品の安全性確保のために高度、かつ、厳格な注意義務を負うが、これは行政取締の基準、或いは当該医薬品が日本薬局方に収載されているという事実等によつて少しも軽減され得ないものであり、いわんやこの義務は所管行政庁によつて製造承認等がなされるや否や消滅してしまうようなものではなく、むしろ科学の進歩に応じてますます高度になつていくものである。

三医薬品製造業者の注意義務

以上の検討によれば、医薬品製造業者は、医薬品が置かれている今日的状況に鑑みて、以下のような安全性確保のための具体的な注意義務を負わされていると解すべきである。

即ち、開発過程においては内外の文献を渉猟し、かつ各種試験を行ない、製造過程においては品質の管理に万全を期し、販売に際しては使用上の的確な指示を行ない、更に医療現場等での流通におかれた後も副作用等の情報収集を怠らず、場合によつては再度の各種試験を実施し、或いは警告を発し、万一安全性に疑惑が生じたときには製品を回収する等して消費者の生命・身体に対する危害を未然に防止する措置をためらわずとる等の、医薬品の安全性確保のために考えうる限りの方法をすみやかにとらなければならない。

四医薬品輸入業者の注意義務

薬事法二二条は、医薬品等を業として輸入しようとする者は、営業所ごとに厚生大臣の輸入販売業の許可を受けるべきこと等を規定しているが、本条の立法趣旨は、輸入販売業は医薬品等を国民に供給するという本質的な点において、製造業と変るところがないので、同様に厚生大臣の許可に関わらしめ、以てその営業が保健衛生上遺憾なく遂行されることを期待するという点にあると考えられる。(旧薬事法上も同趣旨に解される。)

ところで、既に見たように、医薬品の作用には人種差の認められるものがないわけではないから、外国での成績をそのままわが国に当てはめることはできない。更に、ひとたびその医薬品による事故が生じた場合、外国にある製造業者の責任を実効的に問うことが常に可能であるかについても疑問なしとしない。

このような諸点に鑑みれば、輸入業者も製造業者と同一内容、同一程度の医薬品安全性確保のための注意義務を負わされていると解すべきである。(なお、自らの研究施設を有しない場合には適当な機関等へ委託して各種試験等を実施すべきであることは勿論であり、製造業者から交付された資料は、批判的に再検討すべきである。)

五医師の注意義務との関係

被告会社は、医師が能書記載の用法、用量を逸脱して医薬品を投与したことにより患者に副作用を発現せしめた場合は、医療過誤としてとらえられるべきであつて、その医薬品を製造した者に責任を負わせるべきではない旨主張する。

しかしながら、右主張が妥当性を有するのは、能書記載の用法、用量に従つておれば絶対に該副作用は生じないことと、過剰投与に対する警告が具体的かつ適切になされていることとがその前提をなしている場合に限られるというべきである。何故なら、医師には、公認された医薬品の安全性を自ら確認する義務があるかどうか疑問であり、公定書の解説書或いは製薬会社の能書、パンフレット等の記載に従つて処方すれば、一応その注意義務を果したものと解されるべきであり、更に、右用法、用量の記載は一応の目安にすぎず、医師を拘束するものではなく、医師はこの目安を参考にして、個々の患者別に専門的判断によつて用法、用量を決めるものと考えられている(乙第三〇号証の一、一八頁参照)のであるから、医師に対する適切な情報が提供されなかつた以上は、発現した副作用に対する責任を医師に負わせるべき理由はないからである。

六欠陥医薬品の製造と過失の推定

わが国の現行法上、不法行為法の分野においては「過失なければ責任なし」という原則がとられていることは、今更指摘するまでもない。本訴訟においては、欠陥医薬品によつて損害を発生させたという不法行為責任が問題とされており、原告らは民法七〇九条の適用を求めているものと解される。

そして、これまで述べてきた点から、医薬品製造業者の民事責任については、次のような判断基準が定立されるべきである。即ち、純正医薬品に内在していた欠陥のために、その医薬品を服用した人の生命・身体に副作用被害が生じた場合で、かつ、その医薬品が製造業者の手もとを離れた当時のままの状態で、なんら実質的な変化を受けずに消費者の手もとに到達すると考えられるとき(純正医薬品の場合は、先ずこの点も当然のことながら推定されてよい。以下同じ。)には、製造業者に過失があつたからそのような被害が生じたのではないかと考えるのが当然であるから、自ら製造した欠陥医薬品の服用によつて消費者の生命・身体に副作用被害を及ぼしたことだけで、その医薬品を製造した者の過失が事実上強く推定され、そのような副作用の発現が、医薬品製造業者に要求される高度、かつ、厳格な注意義務を尽しても全く予見し得なかつたことを製造業者において主張、立証しない限りは、右推定は覆らないものというべきである。(但し、予見可能性の対象が、現実の副作用の病像と厳密に一致するものに限られるべきか否かについては、後述する。)

第五章  被告会社の責任

(その二)――各論

第一  わが国におけるキノホルムの欠陥

一副作用

スモンの一般的な症状、予後、治療法等については既に第一章において概観したが、それによると、キノホルムの副作用はしばしば失明、起立歩行不能等の重篤な症状に至るものであり、又軽症であつても完全な治癒は困難である。従つて、少なくともわが国においては、キノホルムは有用性を欠くもの、即ち欠陥医薬品との事実上の推定がなされて然るべきである。

二有効性

1 繁用

被告会社は、キノホルムが長い間多くの国々において使用され、多くの治験報告が存するという事実で以てその有効性は実証されている旨主張する。しかしながら、厳密な比較対照試験を行なわないで有効性を云々することが無意味であることは、既に前章で指摘したところである。そして被告会社が、キノホルムの有効性と安全性とを確認したものであると主張する一九六四年(昭和三九年)のゴルツらの研究(文献 40、その内容は後記する。)についても、検討された患者が四〇〇〇名という多数であることを以て、その方法論的欠陥が補完され得るものではない。

2 整腸効果

〈証拠〉によれば、整腸薬とは、便秘や下痢を起こしたときに腸の機能を正常にもどす薬物を指すが、薬理学上は一定の作用を有するものではなく、消化薬・緩下剤・止瀉薬・腸内殺菌薬・乳酸菌製剤等を総称するものであることが認められる。ところで、丙第一四七号証によれば、医学界の権威者と目される者でさえ、昭和四六年(一九七一年)当時なおキノホルムが著効を有する旨発言していた事実が認められるのであつて、厳密な試験はさておいて、医療現場においては、有効性が信じられていたようにも推認される。しかしながら乙第四七号証(四九頁)において砂原が述べているように、下痢は時間がかかるかもしれないが食養生だけで治ることが多いし、他に薬がないわけではない。そして、何といつても、仮に下痢や便秘が治つたからといつて、一方でスモンのような病気に罹つたのでは、そのアンバランスが大きくて不当であることは論をまたない。

3 アメーバ赤痢、腸性末端皮膚炎

〈証拠〉によれば、アメーバ赤痢とは、原虫の一種、根足虫に属する赤痢アメーバ(エンタメーバ・ヒストリチカ)によつて起こる疾患で、大腸粘膜に特有の潰瘍をつくり、血便を伴う伝染病で、熱帯及び亜熱帯に流行し、日本本土にもしばしば散発的に発生すること、及びなかなか治癒し難く、死亡率は五ないし八%であることが認められる。

次に、〈証拠〉によれば、腸性末端皮膚炎とは、主として離乳期の幼児にみられるところの、付属器病変(爪の変形、頭髪・眉毛・睫毛の完全脱毛等)及び胃腸症状(食欲不振・嘔吐・下痢・脂肪便等)が特徴的で、一般に身体の発育が阻害される疾患であることが認められ、更に丙第二一号証によれば、ジヨードキン(オキシキノリンの五、七位の側鎖にヨードを有するもの)やキノホルムによる治療が施されるようになるまでは、予後不良例が多く、かなりの死亡例が報告されていたことも認められる。

このように両疾患とも生命にかかわることのあるものであることが認められるが、既に有用性の項で詳述したように、このような場合、原疾患の症状によつては、発現し得べき副作用を認容した上で、敢えてキノホルムを使用すべき場合もありうるであろう。被告会社によりかような主張・立証がなされれば、そのような場合には、有用性が認められるから、問題の局面は、能書による警告義務或いは医療過程における患者ないし保護者に対する説明義務の問題へと移行する。しかし、本件原告患者らの中に、本疾患の治療としてキノホルム剤を投与された者があれば格別、そうでない限り、右両疾患を以てキノホルムの有用性を肯定することはできないというべきであるところ、被告会社による右主張・立証はなされていない(後述のとおり、腸性末端皮膚炎は、被告会社による本件キノホルム剤の適応症にさえ掲げられていないことも想起されてよい。)。従つて、アメーバ赤痢、腸性末端皮膚炎にキノホルムが効くとの立証で以て、キノホルムの有用性が立証されたとは到底いいえないのである。

三欠陥

以上の検討によれば、キノホルムの副作用は重篤かつ難治性である一方、被告会社によるキノホルムの有用性の立証は十分になされたとは認め難いので、少なくとも本件原告らとの関係では、キノホルムは欠陥医薬品であると推定されるべきであり、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

第二  予見可能性

一はじめに

欠陥医薬品であるキノホルムによつてスモンの被害が生じたとされたからには、被告会社としては、問題とされた副作用が、高度、かつ、厳格な注意義務を尽しても全く予見し得なかつたものであること(予見可能性の対象と素材については後述する。)を主張、立証しなければ、不法行為責任を免れ得ないものである。ところで本訴訟においては、一方で原告らは多数の文献を引用し、これらによつて多くの副作用報告が示唆されていたから、予見可能性が存したことが認められる旨主張するのに対して、他方被告会社は、原告らの文献引用の方法上の過誤を指摘するとともに、引用されている文献のいくつかはかえつてキノホルムの安全性ないし有用性を報告したものであつて、結局、昭和四五年(一九七〇年)八月にキノホルム説が提唱されるまでは、スモンの予見可能性は全く存しなかつた旨主張している。従つて、以下においては、両当事者の引用にかかる文献の内容の検討が主たる作業となるが、その前に一般的な問題についてみておこう。

二予見可能性の有無の判断基準時

本件原告患者らにおいて最も早くキノホルム剤を服用してスモンに罹患したのは原告石原広喜(原告番号一四九番)であり、その服用時期が昭和三四年(一九五九年)五月であることは後記損害各論(第九章)に認定のとおりである。この時点で予見可能性が肯定されるのであれば、その後にキノホルム剤を服用してスモンに罹患したその余の原告患者らの場合もすべて予見可能性が肯定されることになるのは自明のことであるから、本件における予見可能性の有無の判断基準時は右の昭和三四年(一九五九年)五月ということになる。

三予見可能性の対象と素材

1 対象

医薬品が本来「両刃の剣」的性格を持ち、薬毒不二といわれていることに鑑みれば、生命・健康に対する何らかの抽象的な危険性さえ予見されればよいということにはならない。そうでないと、医薬品を一般的に否定することに通じ、当を得ないこと自明であるからである。

しかし、他方、スモンそのものが予見され得べきであつたことを要求することも不合理である。何故ならば、新医薬品の開発に伴いその副作用として全く新らしい疾患が発生した時、この新疾患そのものを予見の対象として要求すると、予見が不可能であつたとされる事態がかなり多くなるであろうことが予想されるが、そのような場合にすべて予見の可能性なしとして製薬会社に責任を問い得ないとするならば、医薬品の安全性確保は名目だけのものとなるおそれなしとしないからである。勿論、製薬会社において十分な実験や調査を尽してさえ青天の霹靂であるような新疾患であつたならば、製薬会社に責任を負わせるのは無過失責任を課することとなつて、現行法の下で許されるか否かは大問題である。(しかし、本件ではこの点について触れるまでもなく解決するので、問題点の指摘のみにとどめておく。)

したがつて、予見可能性の対象は、単に生命・健康に対する何らかの抽象的な危険というだけでは足りず、又、問題となつている特定の疾患そのものに限られるわけではないが、これと併せて右疾患の発生を推論させるような関連性ある副作用症状にその範囲を限るならば、右特定の疾患の発生について製薬企業にその責任を問うことにも十分な合理性があるといいうるであろう。即ち本件においては、予見可能性の対象は、スモンそのもの或いはスモンとの関連性を推論しうる何らかの神経障害であるということになる。

2 素材

更に、その予見可能性の対象をどの素材に求めるかも問題である。ここでは、キノホルムそのものに狭く限定する必要はなく、その類似構造化合物(キノリン及びキノリン誘導体)を含めて解すべきであるとの結論だけを述べておく。(その理由は後記四の3で述べる。)

3 まとめ

要するに、キノホルム又はその類似構造化合物(キノリン及びキノリン誘導体)において、スモンそのもの或いはスモンとの関連性を推認しうる何らかの神経障害が予見可能であれば、スモンそのものの損害が予見可能であつたと評価されて然るべきであり、従つて、結果回避措置をとることも出来たのに、それを怠つたものと評価され、過失が肯認されるということになる。

四文献の検討に際して注意すべき事項

1 はじめに

被告らは、一般的な問題点として、①動物実験の結果から、人体に対する影響を推論することは困難である、②原告ら引用の文献中には、キノホルムと構造的に類似する化合物に関するものが相当数あるが、化学構造が類似しているからといつて、直ちにその作用の類似性までも類推することはできない、③原告らが副作用情報として指摘しているものの中には、スモンの予見可能性の判断においては無関係なものが多数含まれている、等と指摘している。以下、右①及び②について検討し、③については文献の検討のまとめ(五の6)において触れることとする。

2 動物実験の限界

〈証拠〉によれば、次のような事実を認めることができる。

動物実験から副作用についての完全な情報を得ることは、実際上極めて困難である。その理由としては、第一に、人間と動物とでは病気の形、性質が違うだけでなく、医薬品に対する反応が非常に異なること(動物における種属差)が挙げられる。第二に、長く薬を用いてはじめて現われる副作用は、動物実験の場合には見のがされることがしばしばである。第三に、実験動物の数は概して少なく、極めて稀に起こる副作用は気づかれないことがあるし、動物は喋らないので主観的な症状はとらえ難いことが挙げられる。しかしながら他方、動物を用いることによつて、人間ではとうてい不可能なような極端な実験条件のもとでの観察が可能となり、又何回でも繰り返すことができるから、より確実な、再現性に富んだ結論を引き出すことができるし、偶然的な機会に依存するしかない臨床観察では、しばしば見のがし易い事実をすみやかにとらえることができる等の利点を、動物実験が有していることも否定できない。結局、動物実験は、より安全でより能率的な臨床試験を計画し実施するための参考資料を得る目的で行なわれるべきものである。

右のような認識に基づくならば、動物実験の結果として副作用の存在が疑われた場合に、人間と動物とは異なるということを強調するあまり、その一事だけでこのような情報を無視することは許されないのであつて、むしろ、更に綿密な試験が必要とされることになるであろう。であるとすれば、動物実験の結果、キノホルムの副作用が疑われた場合に、これを種属差を理由として無視することはできないのであつて、却つて、右情報は副作用の予見可能性判断の重要な一資料となりうるものである。

3 類似構造化合物

(一) はじめに

原告らは、キノホルムと構造的に類似する化学物質(キノリン及びキノリン誘導体)についての情報は、キノホルムの副作用を予見する資料となる旨主張するのに対して、被告らは、化学構造の一部、場合によつてはその大部分が類似するからといつて、直ちにその作用の類似性を類推することは誤りである旨反論する。よつて、まず、被告らの反論の根拠を概観してみよう。

(二) 構造特異性

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

薬物というものは小分子やイオンと結合することによつて作用するかもしれないが、多くの場合には組織を構成する巨大分子と反応すると考えられ、薬物が結合するこうした組織の構成要素は「受容体」と呼ばれる。

ところで、薬物の作用機序については二種類のものが考えられる。第一は、数多くの化学的に異つた化合物が同一の組織に、同一の生物学的作用を示す場合であつて、アルバートによつて構造的に非特異的な作用形態と呼ばれている。その作用機序は、その物質の化学構造には無関係であり、その物理・化学的性質に依存するものであつて、そこには熱力学的法則が支配している。第二は、薬物が受容体と結びついて作用する場合であつて、アルバートによつて構造的に特異的なものと呼ばれている。この作用は、エールリツヒによつて立体特異的な鍵と鍵穴との対応にたとえられたように、より選択的である。

構造特異的に作用する薬物は、わずかな構造の変更によつてその作用が本質的に変えられてしまう。例えば代謝物質と代謝物質類似体との間では、構造がわずかに違うだけで全く反対の作用をする。即ち、スルフアニルアミドは、微生物の重要な代謝物質であるパラアミノ安息香酸の作用と拮抗するにも拘らず、両者の構造は類似している。更に、ビタミンの一種であるチアミンに対するピリチアミンの関係もあげられよう。

更に、〈証拠〉によれば、同じアミノキリンでありなががら、四・アミノキノリンの一種であるクロロキンと八・アミノキノリンの一種であるプリマキンとでは、生体(マラリア原虫)側の受容体は同じではなく、その作用形態も異なり、その作用の場面も原虫のライフサイクルのうち別個の時期であることが認められる。

しかし、〈証拠〉によれば、構造非特異的な化学物質と構造特異的なそれとを截然と区別することは非常に困難であることも認められる。

(三) 構造活性相関

〈証拠〉によれば、C・D・リークは、一九二九年(昭和四年)頃、新医薬品については「化学的組成から起こりうる毒性や作用の型に関してしばしば手がかりが得られる」旨述べていたことが認められるのであつて、右事実によれば、新薬開発過程においては、類似構造物質の作用を手がかりにして研究が行なわれてきたものと推測される。

ところで、薬の化学構造と薬理作用の相関関係(構造活性相関)については、〈証拠〉によれば、ある物質群では妥当である(これを類似構造の類似作用の法則という。)ことが経験的に知られているといわれていることが認められる一方、丁第二一五号証によれば、「構造活性相関のルールは、多数の一連化合物で実験をして得られたデータを解析して、アセチルコリン作用とか、抗ヒスタミン作用とか、特定の作用と特定の一連化合物との間に見いだされたルールであり、そのルールを他の薬理作用、或いは他の系統の化合物にまで適用することはできない。換言すれば、構造活性相関のルールはうしろ向きには成立するが、まえ向きには成立しない場合が殆どである。」と述べられていることも認められる。

ちなみに、乙第二二号証には、医薬品開発について、次のように述べられている。即ち、どのような構造の物質が目的とする薬効を示すかということ(構造活性相関)を予測するのは現在ではまだ困難である。従つて薬の分子構造をあらかじめ設計すること(ドラツグデザイン)は研究されてはいるが、まだ実用段階には達していない。そこで新薬の開発は、現在使われている薬をもとにして少しずつ改良して行くか、又はできるだけ多くの物質を試験してその中から役に立ちそうなものをふるい分けるスクリーニングという方法がとられている。

(四) 考察

以上の検討によれば、構造特異的作用を有する化合物の構造に変化が加えられた場合、その作用は本質的な変化をきたし、構造活性相関のみられることはむしろまれであることがわかつた。

右事実に、〈証拠〉をあわせると、現状では、示された化学構造式から、その化合物の最も特徴的な作用さえも予測することはむずかしいことであるといえよう。しかしながら、それ故にこそ、薬物の安全性確保の意味から、可能な限り多項目にわたつて細心のテストを行ない、予測し得ない副作用の発見に努めることが、医薬品開発に携わる者に課せられた重大な使命であるというべきである。

ところで、前項までみてきた説明においては、類似構造の化合物が思いがけない作用を有する例が強調されているが、類似の作用をもたらす例がある場合もある(類似構造類似作用)し、その両者を区別することは非常に困難なのであるから、特に未知の分野の多い新薬の開発における副作用の情報収集の面からは、少なくとも類似構造化合物の作用についての調査・研究は、安全性確保の見地から絶対に必要であるといわざるを得ない。そして、それら類似構造化合物について既に知られている副作用が、新医薬品によつて発現しないかどうかという点についての研究は不可欠のものである。(なお、次にしばしば出てくる「誘導体」の概念を説明しておく。即ち、「ある化合物の構造の小部分だけを変化させるとき得られる化合物をもとの化合物の誘導体という。」のである。)

五文献の検討

1 一九二〇年代まで

(一) キノリン(キノホルムの側鎖が取り除かれたもの。キノホルムはキノリンを基本骨格として合成されたキノリン誘導体である。)

(1) A・ビアツクら(一八八一年(明治一四年)文献1)

これは、家兎を用いて行なつたキノリン(但し、中性酒石酸の一〇%溶液)の生理的作用に関する実験の報告である。キノリンは解熱効果を有するが、0.2ないし0.3gの投与で既に毒性作用が認められ、0.2gのケースについて一例が死亡したが、顕著な所見としては、かかる大量の投与をうけたウサギが示した活動力の低下、即ち殆どの場合、疲労、知覚の鈍化、更には反射機能の大巾な低下が認められた旨報告されている。この死亡例の症状経過は次の如くであつた。

体重一〇五〇g、体温38.4度、呼吸数八〇/分の雌家兎に、0.2gを背部皮下に注射した。注射後一五分経過の時点で体温が37.6度まで低下し、呼吸数は著しく増加して殆ど数えられぬ程となり、ためにウサギは立つていることもできぬ状態に陥り、倒れて側臥し、やがて四肢は完全な麻痺状態となり、反射運動も消失した。三時間経過後、四肢の麻痺が消え、反射運動も回復した。しかし翌日正午には甚しい疲労を示し、呼吸数は一四〇と急増し、一方体温は急降下して32.2度となつた。同日午後五時改めて体温を測定しようとした時、突如間代性痙れんを起こし、口から多量の泡を含んだ、いく分粘い液があふれ出た。起き上がろうともがいたが、一声甲高い鳴声をあげて横向きに倒れ、数呼吸後死亡した。解剖に際し、気管に泡を含んだ液が充満しているのが認められ、又、急性肺気腫が確認された。

(なお、〈証拠〉によればこの文献は遅くとも大正一四年(一九二五年)には日本の図書館に配置され、昭和六年(一九三一年)には大阪大学医学部図書館に蔵されていたことが認められる。)

(2) R・ハインツ(一八九〇年(明治二三年)、文献3)

著者は、カエルを用いての実験の結果として、キノリンは一方では中枢麻痺をきたし、他方運動神経の機能を著しく低下させるが、知覚神経終末は完全で、筋肉組織は殆ど全く損傷されないと述べていることが認められる。

(なお、〈証拠〉によれば、この文献は遅くとも大正年間に日本の図書館に配置され、昭和六年(一九三一年)には大阪大学医学部図書館に蔵されていたことが認められる。)

(3) R・ストツクマン(一八九四年(明治二七年)、文献4)

著者は、キノリンの作用はしばしば研究されてきたが、これは強力な消毒剤及び解熱剤であり、又中枢神経を抑制する旨述べた上で、キノリンを用いたカエル及びウサギに対する比較実験の結果を報告している。

即ち、キノリンの酒石酸塩2.5mgは、カエルで脊髄の著明な抑制を起こすのに十分で、動物は数時間後に回復した。更に大量は脳及び脊髄の両者を抑制し、きわめて軽度の反射亢進がこれに続いた。心臓及び運動神経は、極めて大量によつてのみ影響される。一方ウサギでは、皮下に与えたキノリンの酒石酸塩三〇mgは、呼吸をいく分緩徐にし、通常体温のわずかな下降をきたした。しかし、1ないし1.5gは、多少の虚脱、神経系の著明な抑制及び体温の極めて著しい下降をひき起こした。呼吸は甚しく緩徐になり、心臓も著しく緩徐になつた。

(なお、〈証拠〉によれば、この文献は日本の図書館に蔵されていることが認められる。)

(二) オキシキノリン類(オキシキノリンとは、キノリンの八位に水酸基を有するもので、八・ハイドロオキシキノリンともよばれる。)

(1) W・シヤルロツテンバーグ(一九〇六年(明治三九年)、文献6及び一九〇七年文献7)

著者は、キノゾール(オキシキノリンとカリウム重硫酸塩の結合物)をウサギに対して、経口、皮下又は腹腔内注射によつて投与した実験結果を報告している。

経口投与では、量をふやして死亡直前に痙れんが起こつた。皮下注射では0.2g/kgの少量で数時間続く興奮が認められ、続いて一過性の下肢の麻痺が起こつた。腹腔内投与においても間代性もしくはテタニー様の痙れんが主症状であつた。このような実験結果を根拠に、著者は、キノゾールは従来広告でいわれた如く無害ではなく規制の必要があると主張している。

(なお、〈証拠〉によれば、この文献は明治四一年(一九〇八年)には日本の図書館に蔵されていたことが認められる。)

(2) シユーベル(一九二四年、文献8)

著者は、ヤトレン即ち五・ヨード八・オキシキノリン七・スルホン酸を動物に投与した実験の結果を報告しているが、カエル及びハツカネズミについての実験で神経症状を観察した事実を報告していることが認められる。即ち、カエルに対して致死量よりも多量を投与すると、早くも二〇ないし二五分後に呼吸困難、呼吸停止、不穏、つぎに逃走企図、次第に増大する後肢の麻痺、最後に半拡張での心臓停止が起こる。又、ハツカネズミは呼吸困難、運動失調及び四肢の麻痺を示し、剖検で、脂肪化及び充血を伴う肝臓肥大、腎蔵の混濁した腫脹、内臓血管の著しい拡張、拡張期の心臓停止が証明された。

(なお、甲第三〇三号証によれば、この文献は九州帝国大学(現在の九大)医学部内科学教室図書として蔵されていたことが認められる。)

(3) D・I・マハト(一九二八年、文献9)

著者は、動物実験の結果、オキシノリン硫酸塩は考えられているようには決して無毒ではないことが見出された旨報告している。実験結果の概略は次のとおりであることが認められる。

ネコに、エーテル麻酔、オキシキノリン硫酸塩の一%溶液を大腿骨静脈に一cc/分の割合で注射したところ、六分後に、呼吸中枢の興奮と明白な刺激があつた。この発病は一時的なものであり、一四、五分後に動物が口から泡をふき始めたときに繰り返された。一八分後に反弓緊張を伴う痙れんが生じた。体重一八〇〇gのウサギに、オキシキノリン硫酸塩五%溶液を耳の静脈から二cc注射したところ、直ちに背中の弓なりを伴つた強直性痙れんを起こし、眼は顕著に突出し、心臓はゆつくりとなり、かつ、大変浅い呼吸となつた。また、二〇gのカエルのリンパ液中にオキシキノリン硫酸塩一%水溶液一ccを注射したところ、五分後に、クラーレによつて生じたものによく似た骨格筋の顕著な麻痺が認められた。動物は抑向けにおかれても、ひつくり返ることができなかつた。最後に、体重一八〇gの白ラツトに、オキシキノリン硫酸塩一%水溶液一ccを腹腔内注射したところ、機能低下がわずかの間に起こり、はつきりと呼吸困難になつた。下痢、腹部及び背部の筋肉の折々の振せんが見られたが、徐々に回復した。三〇分後に、更に二cc注射したところ、機能低下は更に顕著となり、呼吸困難、手足の麻痺と脱力、筋肉のひきつけがみられた。

(なお、〈証拠〉によれば、この文献は金沢医科大学に蔵されていたことが認められる。)

ちなみに高瀬豊吉はその著書において、マハトの右報告を簡単に紹介している。(昭和一六年、甲第一四七号証八八五頁)

(4) テルクング(一九〇八年(明治四一年))

本報告は陰山述(東京日本赤十字社本社病院外科、医学士)によつてわが国に紹介されたものである。(大正五年(一九一六年)、文献55)

陰山は「ヴイオフオルムの中毒作用は之れを文献に見るに甚稀の者たり」と述べて、その一例としてテルクングの報告を紹介しているが、その内容は次のようなものである。

八才の少女の卵巣腫瘍剔出後に、2.5%のヴイオフオルム綿紗を排膿の傍ら栓塞用として骨盤腔内に使用し、後壁に縫合術を行なつた。二日目に、少女の機嫌は甚だ悪く、すこぶる興奮状態に陥り、その夜しばしば嘔吐を催した。三日目においては少女は殆ど狂態に陥り、高声でなき叫び、喧騒を呈し、術後とつた茶及び胆汁様液を頻りに嘔吐した。そこで該綿紗を取り出したところ、翌日の午後には平静さを取り戻した。テルクングは、これをヨード中毒と考えた。

(三) まとめ

以上の検討によれば、後述のデービツドらによるキノホルムの内用化の研究が行なわれる以前に、オキシキノリン類及びその骨格であるキノリンによつて動物に神経障害が惹起されること、或いはキノホルムの外用によつてヒトが急性神経症状を呈したことが報告されていた事実を認めることができる。なお、〈証拠〉によれば、キノリンに中枢神経麻痺作用のあることが、昭和一一年(一九三六年)又は同一三年頃の薬理学の教科書において指摘されていた事実を認めることができる。

次項においては、キノホルム内用の研究過程を中心に諸報告を見ていこう。

2 一九三〇年から一九四五年まで

(一) キノホルム内用についてのデービツドらの研究

(1) H・H・アンダーソンら(一九三〇―三一年(昭和五―六年)文献10)

原告らは、本報告において、①オキシキノリンの毒性はハロゲン化の程度、原子量の大きさの順に強まること、②ヴイオフオルム二〇〇mg/kgでモルモツト一〇匹中七匹が死亡し、抗バランチジウム作用は最大であるが、毒性も又大きいこと、③アメーバー原虫に感染したサルに対し、九〇〇mg/kgの六日間投与により原虫を根絶し得たが、毒性については検討する必要があることの三点に注目すべきである旨主張しているところ、本文献中には右主張に沿う記載の存することが窺える。

これに対して被告らは、概ね次のように反論している。即ち、本報告は、キノホルムが内服用医薬品として有用である可能性を示唆しており、事実著者らは後にキノホルムをヒトのアメーバ症治療のために内服薬として用いているのであつて、本報告はそこに至る一連の研究の一環をなすものにすぎず、毒性に関する記載のみをとり上げることは無意味である。又、本報告では、著者らはハロゲン化による毒性の増加よりも殺アメーバ活性の増大のほうがはるかに顕著であると評価している。

思うに、本報告は、その欄外に記されているように、チバ社等によつて一部援助されたアメーバ症の広範な共同研究の一部に基づいており、いわば右研究の序論的な意義を有するものと考えられるのであるが、原告ら主張のような記載が存することも事実であり、オキシキノリンの毒性についての報告は、その副作用を考えるに際し、無視しえない重要性を持つと考えるべきである。

(なお、丙第一五号証によれば、この文献は東京帝国大学(現在の東大)図書館に蔵されていたことが認められる。)

(2) H・H・アンダーソンら(一九三〇―三一年(昭和五―六年)、文献11)

被告らは、右報告は、サルのアメーバ症その他の寄生虫症に対するキノホルムの治療効果の研究報告であるところ、治療を行なつたサルは全例、治療後体重は増加し、成長も正常で、一般的身体状態は著明に改善されたこと、及びどの動物においても、何ら薬物による毒性の徴候は認められなかつたことを報告している文献である旨主張している。本文献の検討によれば、要約の項に、被告らの主張に沿う記載の存することが認められる。なお、投与期間は三ないし六週間、総投与量は九〇〇ないし一二〇〇mg/kgであつた。

(なお、〈証拠〉によれば、この文献は東京帝国大学図書館に蔵されていたことが認められる。)

(3) C・D・リーク(一九三二年(昭和七年)、文献12)

原告らは、本文献の著者は、「キノホルムの一回の致死量投与(二五〇mg/kg)で死んだ動物の検索では肝臓障害を呈していた。このことにより、この薬剤を肝臓の疾患がある時に使うことに対しては、注意が払わるべきことが示されよう。」と述べていると主張し、確かにそのような記載を本報告中に見ることができる。

これに対して被告らは、①致死量の一回投与によつて急性中毒死した動物の臓器に障害の生じていることは当然のことであるとか、②リーク一派による四七例のヒトを対象とした臨床試験(次項参照)の結果は、肝障害についての疑念を拭い去つたものであり、しかもその後、肝障害の症例報告は見出されないと反論し、本文献は、むしろキノホルムの有効性と安全性についての報告である旨主張している。

思うに、第一に、既に因果関係論における動物実験の項目でふれたように、動物実験においては、薬を大量に与えたとき、或いはやや大量を長期間続けたときの中毒現象のなかに、常用量で現われる副作用がやや強い表現を以て出現したとして判断する(丁第一九〇号証)のであるから、①の理由で肝障害の報告を無視することはできないと考えるべきである。また、②については、その主張が真実であるか否かは次項以下の検討によつて明らかとされるものであるから、次にすすむことにしよう。

(なお、〈証拠〉によれば、この文献は東京帝国大学図書館に蔵されていたことが認められる。)

(4) N・A・デービツドら(一九三三年(昭和八年)、文献14)

本文献は、四七例のアメーバ症患者に対して、キノホルム一日0.75g一〇日間を、一週間の休薬期間をはさんで二コース、即ち総量一五g経口投与した臨床試験の報告である。

原告らは、本報告において、①キノホルムは胃腸管から若干吸収され、一部は尿中に排泄されること、②二五〇mg/kg一回経口投与により死亡したウサギの剖検から、肝臓に脂肪浸潤と小さい壊死部位が、腎尿細管に若干の損傷がみられたので、使用中は肝・腎障害に注意すべきであることが報告されていると主張している。しかしながら、被告ら指摘の如く、②は著者らがラインハートの所見を引用した箇所であり、著者ら自身は、「どの症例においてもそのような障害の徴候は認められなかつた」旨述べていることが認められる。また、①の吸収報告についても、この報告のみを以て云々することはできないであろう。

なお、被告チバは、著者らの前記投与方法は、初めての内服のため慎重を期したということもあるかもしれないが、むしろアメーバのライフサイクルに関する要素が大きいと考えられる旨主張している。しかしながら、証人デービツドの証言によれば、一コースを一〇日間としたのは化学療法原則に従つたものであることが認められ、更に同証言及び甲第二一七号証によれば、休薬期間がおかれたのは蓄積的な毒性効果を避けるためではなかつたかと疑われるのであつて、被告チバの主張事実を認めるに足りる証拠は何ら存しない。

(5) H・H・アンダーソンら(一九三四年(昭和九年)、文献16)

原告らは、本文献においてキノホルムを経口投与した六〇症例中三例に副作用が発現したことが報告されており、その一例は①動悸、呼吸困難、頭重感、頭痛が生じ、他の二例は②疝痛、下痢、甚しい鼓腸、粘血便を伴う非常に重い胃障害及び③悪心、嘔吐が生じたものであると主張している。

これに対し、被告らは、まず①について、同患者はその後キニオフオン投与により同様の反応が起きたとされており、また多様な訴えの多くが心理的要因によるものとみられること等から、①の症状は他の原因或いは従前に投与された薬剤によるものかもしれず特殊な症例であると反論し、更に、②は患者の病歴の記載にすぎず、③については、著者らは、キノホルムの可溶性塩酸塩の胃粘膜に対する局所作用に起因する胃酸過多によるもので、腸溶カプセルがこの障害を除くかもしれないと言つている旨反論している。

そこで本文献を熟読したところ、一応原告ら主張の①ないし③に沿う記載が認められるが、②については被告ら指摘のとおり患者の病歴を記載したにすぎないものと認められる。しかし、①及び③については被告らの反論するような可能性も否定はできないが、それだけでこの報告を無意義なものとして一蹴してよいかは疑問である。

(6) N・A・デービツドら(一九四一年(昭和一六年)、文献21)

この報告の主たる内容は、キノホルムとジヨードキンのヒトでの吸収に関するものであるから、後に、吸収の項で検討することにする。

(7) N・A・デービツドら(一九四四年(昭和一九年)、文献22)

本文献は、キノホルムとジヨードキン(キノホルムのクロルがヨードによつて置換されたもの)についての二つの比較研究の結果報告であるが、第一の研究は、モルモツトとコネコについての毒性の比較であり、第二の研究は、これら薬剤のヒトにおける吸収と排泄に関する知見を得るために行なつたもので、両殺アメーバ剤投与の前後における血中ヨード値を測定したものである。

原告らは、次の四点を、本報告中で注目すべき点として指摘している。①キノホルムまたはジヨードキンの治療量を経口的に一〇日間正常人に与えたところ、血中ヨード値の上昇によつて、両者とも吸収されることが証明された。②キノホルムの経口LD50は、モルモツトで約一七五mg/kg、コネコで約四〇〇mg/kgであり、またコネコに三五〇mg/kgを一回経口投与したところ七匹中二匹が死亡した。死亡動物の病理解剖の結果、肝臓障害が認められた。③被験者は大部分、服用中に胃腸不快感を味わい、多数は肛門掻痒感を経験した。④キノホルムをアメーバ症の予防に使用する際には、厳格な管理が必要である。

これに対して被告らは、次のように反論している。まず①は、吸収に関してキノホルムのほうがジヨードキンよりも個体差が少さいことを示唆する報告である。②については、一回に大量投与すれば実験動物が死亡するのは当然であり、また、急性中毒によつて死亡した動物に肝臓障害が生ずるのは一般的所見である。次に③については、胃腸不快感は一、二回以上休薬しなければならない程に重篤なものではなかつたし、ヨード中毒を示唆する症候はみられなかつた。④は予防用の使用について、過度にまたは野放しに使用することを戒めているだけのことであつて、これは医薬品一般について厳守されるべきことである。確かに、著者らは、アメーバ症発生地の軍隊や作業員の健康保持のため予防用に使うことは、ヨード中毒が時には現われるかもしれないという危険を冒してもなお価値があると思う旨述べており、本報告はキノホルムの有用性、安全性を高く評価したものに他ならないのはその通りであるが、著者の意図とは別に、原告ら主張の記載があるのも事実であり、これを無視するのは当を得ない。

よつて検討するに、まず①については、本報告がキノホルムの吸収情報の一つであることは疑うべくもないところである。次に②の主張については、著者らの動物実験は致死量(LD50)を確定するためのものであることが窺えるので、死亡は当然の結果であり、これをとらえて云々することはできない。(もつとも、劇薬性の有無を判断する資料として致死量を問題とする場合は別の意義を有することは否定できないが。)しかし、肝障害の所見は軽視し得ない。(4)については、著者らが、被告ら主張の如き考えを有していたことは認められるが、「厳格な管理のもとに行なわれるなら」という留保付きであることに、やはり留意すべきであろう。

(なお、〈証拠〉によれば、この文献は昭和二七年には大阪大学図書館に蔵されていたことが認められる。)

(8) N・A・デービツド(一九四五年(昭和二〇年)、文献25)

本文献は、アメリカ医師会雑誌の編集者宛の寄稿文であり、新たな試験結果の報告ではない。

原告らは次のように主張する。即ち、デービツドは本文献において、キノホルム等の殺アメーバ剤はすべて潜在的な毒性を有し、厄介な副作用を生ずる可能性があるから、使用を明確な規則で規制すべきであると主張し、具体的な投与上の注意として、①治療は一〇日ないし一四日の短期間に制限すべきであること、②更に投薬の必要があつても、二、三週間の休薬期間をおき糞便中のアメーバの存在を確認しておくべきこと、③非アメーバ性下痢の治療に対し、経験的に使用すべきでないこと、④肝障害又はその疑いのある患者や、薬物過敏性を有する患者には禁忌であること等の諸点を列挙している。そこで本文献を検討すると、右主張に沿う記載を認めることができる。

これに対して被告らは、次のように反論している。即ち、①本報告は一九四四年までのデーピツドらの一連の研究以外の新たな実験結果によるものではないから、キノホルムの有効性を推奨していたデービツドの見解は変つていない。②右投与法は、アメーバ症治療のための当時からの常法であり、薬効を判定しながら投薬をするのは医師としての当然の義務である。③これは殺アメーバ剤の使用を禁じる趣旨ではなく、症状の診断を明確にした上で使用すべしという医師に対する一般的注意を述べたもの(被告武田)、或いは薬効を判定せずに慢然と使用するものでないと戒めた趣旨(被告チバ)であるから、さほど重要な警告ではない。④キノホルムについては、一九三三年、一九四四年の臨床試験の結果、何ら肝臓に異常を起こさないことが明らかにされていた。

以下、右各点について考察していこう。まず反論①についであるが、証人デービツドの証言によれば、本文献はアメーバ症の診断及び治療を適切なものにする必要性に対する注意を喚起するために書かれたものであることが認められるところ、本寄稿文の冒頭にも、シルバーマンらの論文(文献24)は、経口殺アメーバ剤が、やや不注意に無規制に使用される傾向が強くなりつつあることに対しての時宜を得た警告であると思う旨述べられているのである。しかも著者は、前年の報告においても「厳格な管理」を強調していたことを考えれば、被告らの反論①が失当であることは明らかであろう。反論②については、休薬期間に関する被告らの主張を採用できないことは既に(4)でふれたところである。

次に反論③についてであるが、証人デービツドの証言によれば、当時デービツドは、キノホルムがアメーバによる下痢以外の下痢に薬効があるという科学的な勧告がなかつたので、そのような下痢に対する経験的な使用をなすべきでないと述べたものであると証言していることが認められる。しかしながら、本文献を熟読すれば、その基調をなしている論旨は、経口殺アメーバ剤の無規制な使用による毒性発現に対する危惧であることが窺えるのであつて、一九四五年当時のデービツドの真意が右のようなものにすぎなかつたとしてあつさり片付けてよいとは解されない。ちなみに本文献の末尾には、概ね以下のような意見が述べられている。即ち、「推奨治療量に見られるが如き用量の増加と治療期間の延長は、疑いもなく、ヨード吸収の程度を増し、毒性発現の可能性を高めるであろう。もし、ある薬物が有効な殺アメーバ剤であるならば、それは一〇日以内にその目的を達する筈である。キノホルム服用後には、ヨードの吸収が起こり、この薬物はある用法用量で動物を死亡させ、ヒトに副作用を起こし得るということがわかつたので、医師は、その処方に際して留意すべきである。」なお、証人デービツドの証言及び本文献によれば、デービツドは、本文献で述べた「毒性」の内容について、具体的には、ヨードの吸収が毒性症状を起こす可能性を考えていた事実を認めることができる。しかしながら、後に吸収の項で検討するように、当時のデービツドらの血中ヨード値による吸収測定法では、ヨードのみの吸収であるのかキノホルム自体が吸収されているのか判断できなかつたと考えられる上に、むしろキノホルムの吸収を窺わせる報告も存していたのであるから、デービツドが右のように考えていた事実は、何ら本文献の有する意義を減じるものではない。

最後に、反論④についてであるが、一九三三年の試験の被験者は四七名、一九四四年の試験の被験者は一九名にすぎないのであるから、これらの臨床試験結果から安易に被告ら反論④の如き結論を引き出すことは誤りであるというべきである。

(二) キノホルムに関するその他の文献

(1) M・J・ホーグ(一九三四年(昭和九年)、文献17)

本報告は、キノホルムその他の抗アメーバ剤が鶏胚腸管の組織培養細胞に与える影響の研究結果であるが、そこでは、キノホルム千分の一稀釈で培養したところ、翌日、神経と線維芽細胞の大部分が死んでいたこと、キノホルム五万分の一稀釈では、翌日、遊離の線維芽細胞と神経の殆どすべてが死んだことが報告されている。これに対して、被告田辺は、試験管内の環境は生体内のそれとは全く異なつており、直ちに、キノホルムを服用した生物の神経に障害を与えることを示すものとはいえないと反論する。しかしながら、この報告が、キノホルムの動物実験、臨床試験における基礎資料の一つとしての意義を有することは否定できないであろう。

(なお、〈証拠〉によれば、この文献は東京帝国大学附属病院の内科図書室に蔵されていたことを認めることができる。)

(2) P・B・グラヴイツツ(一九三五年(昭和一〇年)、文献18)

原告らは、本文献はキノホルムの副作用としての腹部症状及び亜急性又は慢性の神経症状を報告したものであると主張している。そこで本文献を検討すると、「主な副作用はヴイオフオルムが作り出す便秘にあり、病人を便秘から予防しなければならないが、浣腸薬により治療結果には影響を与えることなく便秘を治療することができる。便秘の結果として鼓腸が、それに伴う不快さ(心悸亢進、苦痛、膨満等)と共に起きることがある。」という記載及び「一例において横断性脊髄炎に似た下肢の麻痺症状及び精神聾の発現を観察することができた。」という記載が見出される。

もつとも著者は、「これは一つの孤立例であり、他の原因に帰することができる偶然の一致で」ある旨述べており、右神経症状はキノホルムと無関係であると考えていたことが窺える。

しかしながら、ひき続き同じ医学誌上で同年E・バロスは右見解を厳しく批判し、キノホルムと神経病変の関連性を示唆する二症例を報告した。それによると。

第一例は英国女性で三一才の既婚婦人である。第一子出産後約二か月経つて一九三四年(昭和九年)八月二〇日退院するときになつて、オブラート一包につき0.5gで九〇オブラート包、一日三オブラート包という方法でヴイオフオルムの投与を受けることになつた。投与して三日後に胃痛、嘔吐及び頭痛そして少しのちに足のしびれ感。一〇日後に投与を中止、そしてそれとともに患者は軽快するも異常知覚は残る。七日後にヴイオフオルムの投与を再開する。数日後嘔吐及び疝痛を伴つて反応し、そこで薬剤の中止が決められ、それに伴い軽快するも、彼女の足は常に“重い”しまつである。九月二一日ヴイオフオルムを再び服用する。その反応は疝痛及び下肢の知覚及び運動障害の増悪。一日毎に悪化し、足を引きずり、歩行のために壁によりかかつて身体を支えなければならず、乳児を抱いて床に四回転倒する。治療を中断して今回は殆ど軽快しないので、医師は「強壮剤」を彼女に勧める。九月二八日ヴイオフオルムの服用を再開し、一九三四年一〇月三日処方された全部を服用した。少しずつ下肢の弛緩は消失し、一〇日後には著しい痙れん性の歩行ができるまでになる。一一月一〇日、目が覚めると発熱していて数日間続き、そして彼女は私の診察を受けることを決心した。私は彼女を診察し脊髄炎と診断し、併せてヴイオフオルムの用量を無暗に拡大することを戒め、この症例を製薬会社に伝えたところ、会社からは、情報提供に感謝し、かつ、医師に対して能書に示された投与量を超過することがないよう勧告すると述べてきた。

第二例は、四五才の男性であり、重症度ははるかに軽度であるが、非常に良く似ている。第一例よりも少し前に同様な治療を受け、不全対麻痺及び糖尿を伴う類似の知覚異常が彼に発現している。二、三か月後に開腸術を施した結果、彼の腹部症状の原因は予想されていたアメーバ症ではなく、重大な結果をまさに引き起こさんとしていた盲腸炎であつたことが判明した。(文献19)

ところで被告らは、これらの文献はいずれもアルゼンチンで発表されたスペイン語の文献であり、グラヴイツツのドイツ語による報告においては横断性脊髄炎に関する記載はないこと、及びいずれも医学雑誌の索引誌として代表的な「クオータリー・キユームレイテイブ・インデツクス・メデイクス」のアメーバ症治療の項にあげられてはいるが、これは標題のみを収録しているもので、これから内容を窺い知ることは不可能であることから、両文献を入手して検討することは不可能であつた旨反論している。

しかしながら、人の生命・身体という最高の法益にかかわつている被告らとしては、決して労を惜しむことなく最善の努力をしなければならないのはいうまでもないことであり、しかも甲第三一二号証の二の表紙によれば、文献18の掲載されたラ・セマーナ・メデイカ誌は昭和一二年(一九三七年)東北帝国大学(現在の東北大学)に備え付けられていたことさえ認められるのであるから、被告らの右反論は失当といわねばならない。殊に、バロス報告の第一例(英国婦人)の症例につき、バロスから直接ヴイオフオルム(これはチバ社の製品である。)の製薬会社宛報告をし、製薬会社もそれに感謝までしていたというのであるから、被告チバとしては、当然右情報を知りうる立場にあつたことは看過さるべきではない。

(3) 徳山(一九三六年(昭和一一年)、文献56)

原告らは、著者は本文献において、キノホルム服用後に胃部膨満感と軽度の灼熱感及び食欲不振を訴えるものがあつたことを報告している旨主張し、確かに本文献中には右主張に沿う記載が見受けられる。しかしながら、著者は別の箇所で、二か月位にわたつて連用したものがあつたが格別に著しい副作用を認めず、稀に右のような症状を訴えるものがあつたが使用中止と共に止んだ旨述べている。

(4) 田辺(一九四〇年(昭和一五年)、文献57)

原告らは、著者がキノホルムの副作用として、腰痛、頭痛、下痢、悪心、心悸亢進、呼吸困難をあげていると主張している。これに対し、被告らは、これは他文献を引用した単なる紹介の記事で独自の存在価値を有しない旨反論するので、検討すると、著者自身はキノホルムの使用経験を有しないことを述べており、右記載も伝聞にかかるものと考えられ、出典も明示されていない。

(5) アレマンら(一九三九年(昭和一四年)文献20)

本文献は、スイスチバ社における、サパミンとエンテロ・ヴイオフオルムに関する動物の毒性試験の研究報告であるが、著者らは、以下のとおり報告している。

ネコ(一)……エンテロ・ヴイオフオルム1.7g/kgを経口的に服用させたところ、翌日に強い痙れん、下痢、強い振せん、よろめき歩行及び著しい呼吸促進が現われた。次の日にも同じ状態が現われた。このネコは烈しい痙れんの後に死亡した。

ネコ(二)……エンテロ・ヴイオフオルム一g/kgを経口的に服用させたところ、一二時間後に軽度の痙れんが出現した。歩行は硬直性、動揺性であつた。呼吸は早い。翌日にこのネコは無欲的になる。ときどき痙れんが発生した。夜間に死亡した。

ネコ(三)……0.5g/kgを経口的に服用させたところ、翌日に軽い痙れん及び軽いもうろう状態。次の日には再び正常化した。

ネコ(四)……0.5g/kg三ないし四時間後に不確実な歩行、強い振せん及び呼吸促進を示す。夜間に死亡した。

ネコ(五)……エンテロ・ヴイオフオルム0.25g/kg。数時間後に著しい痙れんを示す。動物は夜間に死亡した。

ネコ(六)……0.5g/kg経口的に服用させたところ、約二時間後に著しい痙れんが現われる。夜間に死亡した。

ネコ(九)……0.25g/kgの純粋のヴイオフオルム。次第に軽い興奮及び振せんを示す。その間ネコは無欲的である。動物は食物を摂取しない。翌日には状態は固定している。夜間に死亡した。

ネコ(一二)……0.125g/kgのキノホルムを経口的に服用させたところ、翌日、不安及び呼吸促進及び軽い振せんを示す。後に回復した。

ネコ(一三)……0.25g/kgのキノホルムを経口的に服用させたところ、翌日、運動は不確実で、よろめいて歩行する。そして口から泡を吹き始める。翌日には、著しいヨード中毒像である強度の流涎及び著しい呼吸促進を示した。バセドウの場合のような極めて大きな目を認めた。烈しい痙れんの下で死亡した。

(6) ペルモントら(一九四四年(昭和一九年)、文献23)

本文献も、スイスチバ社の実験報告であるが、ウサギ(家兎)に対して各種エンテロ・ヴイオフオルム製剤又はブロムクロールオキシキノリン(キノホルムの五位は塩素の代りに臭素が付いたもの)を経口投与したところ、両者間に中毒像に関する明白な相違は存在しなかつたこと、及び外面的な中毒症状はただ稀にしか現われず、大抵麻痺症状として発現する旨報告している。

(三) 吸収情報

(1) A・パルム(一九三二年(昭和七年)、文献13)

原告らは、本文献はジョードキンをウサギに経口投与してその排泄状態を試験した結果報告であるが、著者は、ジヨードキンが水に不溶であるにも拘らず、比較的速やかに吸収され、主として尿中に排泄されること、及びヨードは生体内で分離されないと考えられること等を報告していると主張しており、本文献を検討すると、右主張に沿う記述を窺うことができる。

これに対して被告らは、著者は、①八八%が排泄物中に現われ、臓器にはもはや認め得る程度のヨードの量は見られなかつたことから、投与された殆どすべてが排泄されたこと、及び、②尿中の排泄物は肝臓において抱合、無毒化された硫酸エステル及びグルクロン酸エステルであることから、吸収を危険視していなかつたと反論している。しかしながら、著者がどのように考えていたかは一応の参考にすぎず、それがその文献への評価を固定するものでないことはいうまでもないことであろう。

(2) N・A・デービツトらの研究

デービツドらが、一九三二年(昭和八年)の報告(文献14)及び一九四四年(昭和一九年)の報告(文献22)のキノホルムが吸収されることを報告したことは既に認定した。同人らは更に一九四一年(昭和一六年)の報告(文献21)においても、キノホルムが吸収されることを報告している。

ところで被告らは右各報告はキノホルムの吸収に関するものではなく、ヨードの吸収に関するものであり、デービツドらは、ヨード中毒を危険視していたにすぎないと反論している。なる程右各実験では、血中のヨード値が測定されているのみであつてキノホル自体が測られたわけではない。しかしながら、証人デービツドの証言によれば、同人らの実験方法によつては、測定されたヨードが遊離のものかキノリン核に結合したヨードなのかについての区別は明確にできなかつたことが認められるのであり、更にジヨードキンについてではあるが、ヨードがキノリン核から分離されないというパルムンの前記報告をあわせ考えれば、被告らの右反論は失当というべきである。

(四) 考察

以上の検討によれば、既に一九四五年(昭和二〇年)の時点において、キノホルムによる神経障害、肝・腎臓障害、吸収等を窺わせる情報が無視できない程に集積していたばかりか、内服用法を開発した当事者による警告さえが発せられていたのであるから、キノホルムの有する危険性に対する深い認識が要求されて然るべきであつたといえよう。

次項においては、予見可能性判断の基準時である昭和三四年(一九五九年)五月までの文献について検討をすることにし、更にその次の項においてその後の副作用文献の内容を一瞥した上で、最後にキノホルムの劇性についてふれることにしよう。

3 一九四七年から一九五九年五月(基準時)まで

(一) キノホルムのヒトに対する副作用の報告

(1) 日野友雄(一九五七年(昭和三二年)、文献59)

著者(胃腸病院副院長)は、エマホルムを余り長期使用するのは考えものと思う旨述べ、エマホルムの副作用は比較的少ないが絶無とはいえず、五七例中三例に胸やけ、一例に心窩部痛を認めたことを報告し、これらはおそらくはキノホルムの胃刺激作用と思われると述べている。

(2) 木山敦麿ら(一九五七年(昭和三二年)、文献60)

本報告は、著者ら(市立岡山病院)が細菌性赤痢患者五八例にエマホルムを投与した成績の紹介であるが、強い利尿作用が見られたこと及び一日の投薬量が2.0g前後或いはそれ以上になると胃腸の障害が認められ、かなりの高率に食欲不振、時に腹痛並びに嘔気が見られたことが報告されている。しかしその他の点では殆ど認められるべき副作用はないとも述べられている。

(二) 類似構造化合物による神経障害

(1) はじめに

類似構造化合物についての報告を無視できないことについては、既に一般的考察として述べたところである。本項においては、四・アミノキリン類及び八・アミノキノリン類(いずれもキノリン誘導体)についての神経障害作用の報告を検討する。

(2) A・S・オービングら(一九四七年(昭和二二年)、文献27)

著者らは、イヌにパマキン(八・アミノキノリンの誘導体)を大量投与すると、強度の食欲不振、るいそう及び視覚交感神経支配の中枢障害に基づく眼麻痺をきたす旨報告している事実が認められる。

(3) A・S・オービングら(一九四八年(昭和二三年)、文献28)

これは、クロロキン(四・アミノキノリンの誘導体)が重篤な毒性をきたすことなく抑制薬として長期間投与できるか否かを確立するために着手した実験(被験者はイリノイ州立刑務所の正常な囚人志願者)の報告であるが、毎日0.3g投与されたヒトの症例に視力障害が観察されたことが報告されている。

(4) I・G・シユミツトら(一九四八年(昭和二三年)、文献29)

著者らは、八・アミノキノリンの誘導体であるプラズモシドを赤毛ザルに投与する実験によつて、同物質が中枢神経系統の障害を惹起する最も活性のある化合物であることが証明された旨報告し、この赤毛ザルの症状について次のように記述している。即ち、赤毛ザルに適当量を投与した際に、この誘導体は規則正しく、極度の知覚過敏、眼球震盪、瞳孔反応の消失、めまい、運動失調、歩行困難症、異作動、運動測定障害を生ぜしめ、又しばしば斜視と明らかな視力の消失を惹起した。これらの反応の強さと進展の速さは投与したプラズモシドの量により変化した。又、プラズモシドによる急速な致死的中毒を起こしたものは、固有感覚路、聴覚路、前庭小脳路、視覚反射路、錐体外路及び嗅覚系のある節囲にひどい変性障害を生じた。これらの通路の主要な核のあるもの、或いはすべてがこれらと関連する他の核グループと同様に障害されていた。障害は脊髄、脳幹、間脳、腺条体に限局していた。大部分の障害されていた核において、全ての神経単位の細胞体の極度の変性があつた。

(5) I・G・シユミツトら(一九五一年(昭和二六年)、文献34)

著者らは、プラズモシドと近縁の化学構造を持つペンタキン、イソペンタキン、プリマキン及びパマキンという四種の八・アミノキノリン誘導体を赤毛ザルに投与したところ、プラズモシドによる神経毒性とは全く異つていたが、いずれもが脳幹の特異な部位即ち背側運動神経核、視索上核、旁室核或いはマイネルト交連等に関連した細胞の障害を惹起した旨報告していることが認められる。

(6) R・リヒター(一九四九年(昭和二四年)、文献30)

原告らは、本文献においては、プラズモシドを五匹のサルに経口投与したところ、平衡障害、歩行・起立障害、運動失調、眼振を呈し、一部のサルにおいては代間性痙れんがみられたこと、及び硫酸プラズモキンを三匹のサルに経口投与したところ、頭・四肢の振せん、眼球運動麻痺、四肢の協同機能不全等がみられたことが報告されている旨主張しており、本文献を検討すると、右主張に沿う記載の存することが認められる。

これに対して被告らは、著者自身「八・アミノキノリンの神経親和性はキノリン核自身によるものでなくて、側鎖の位置と種類によるもののように思われる。」と述べているように、毒性は側鎖によるものであるから、本報告をキノホルムに類推することはできない旨反論している。しかしながら、右引用部分のやや後に、「原因は側鎖のみのものでないことを想像することができるであろう。明らかに毒作用に責任あるのは分子全体である。」と述べられていることに照らせば、被告らのようにのみ著者の結論を解釈するのは失当というべきであり、しかも著者が続けて、「この種の化合物の作用と化学構造との関係をもつと深く研究したならば、人間の脳疾患及び脊髄疾患を起こす毒物についての有効な情報が得られるかもしれない。」と述べているのは、示唆的である。

(三) 吸収情報

(1) E・C・オールブライトら(一九四七年(昭和二二年)、文献26)

著者らは、アメーバ症の治療に長年用いられてきたキニオフオン(八・オキシキノリン誘導体)の代謝に関する知識は殆ど知られていず、吸収についても説がわかれていたので、キニオフオンの体内における運命を調査することにした。その結果、放射性キニオフオンを七名の被検者に一回投与することにより、①この薬剤の吸収は常に起こるが、吸収量は小さく投与量の平均12.9%であり、吸収は速やかで血中濃度は約二時間以内に極大に達すること、②尿中排出の様式は一定しており、大部分が最初の一二時間に排出されて、四八時間で実質的に完了すること等を報告している。

(2) A・A・ナイトら(一九四九年(昭和二四年)、文献31)

本文献は、アメーバ症治療中の三六名の患者に対し、アナヨジン、キニオフオン、ヴイオフオルム及びジヨードキンのいずれかを与えて、血中のヨードを測定した研究の報告であるが、著者らは、殺アメーバ剤としてヒトに用いられるオキシキノリン剤はすべてある程度吸収されること、示されたヨードのmg量からみると、ヴイオフオルムが最大の吸収を示し、勧められる治療量で投与する時は、ジヨードキンが最高の血中ヨード値を示し、ヴイオフオルムがこれに次ぐこと、及びこれらの薬剤は七日目以前に血中濃度の頂点に達するようで、吸収または毒性は蓄積しないと思われる旨を述べていることが認められる。

(2) ハスキンスら(一九五〇年(昭和二五年)、文献32)

本文献は、ヨード131を使つて標識したジヨードキン、ヴイオフオルム及びキニオフオンを調製し、ウサギに経口及び静脈内投与した後、ヨードの分布、吸収及び排泄を測定した結果の報告であるが、著者らは、ヴイオフオルムついては、腸管からの吸収は比較的速いこと、高い組織内ヨード濃度が認められず、高い血中ヨード濃度は持続時間が短く、尿中にあらわれるヨードは大部分結合状態であつたので、ヴイオフオルムは体内で著しい分解なしにそのまま吸収され、排泄されるように思われること等を述べていることが認められる。

4 基準時以降一九七〇年(昭和四五年)まで

(一) ヒトに対する副作用の報告

(1) H・E・ホツブスら(一九五九年(昭和三四年)一〇月、文献38)

著者らは、クロロキン(四・アミノキノリン誘導体)の長期(約三年ないし三年半)服用後これに起因する網膜症に罹つた四症例について報告している。

(2) 水間圭祐ら(一九六〇年(昭和三五年)、文献61)

著者ら(日大)は、腸性末端皮膚炎に罹つた四才の女子にエンテロ・ヴイオフオルムを内服させたところ、一年後に軽快したが、その間に不全麻痺性歩行と視神経萎縮による視力障害を来たしたことを報告している。

(3) L・M・ゴルツら(一九六四年(昭和三九年)、文献40)

本報告は、アメーバ赤痢及び細菌性赤痢の予防と治療のために、エンテロ・ヴイオフオルム0.25gを一日三回ずつ患者に長期間(一二〇〇人が3.5年以上継続して治療を受けた。)連続投与し、ほぼ五年間で患者総計が四〇〇〇人に達した時点で、その予防及び治療効果、毒性について検討を加えたものであるが、その中で、二〇名が歩行障害を来したこと及びそのうち一八人は完全に回復したことが報告されている。(但し、残る二名についてはどうなつたのか、何らの記載もみられない。)

(4) L・ベルグレン、O・ハンセン(一九六六年(昭和四一年)、文献44)

著者らは、重い腸性末端皮膚炎の一九六一年の男の子に一日量1.2g以上のキノホルムを一一か月間投与したところ、治療開始後一四か月目に波状眼振、視力欠損及び視神経萎縮が認められたことを報告している。

(5) J・E・エサリツジら(一九六六年(昭和四一年)、文献45)

著者らは、腸性末端皮膚炎の三才半の男児に一日3.2gのジヨードキンを二年間以上投与した後、一日3.6gに増量して四週間投与したところ視力が低下したこと、及び用量を減らすと視力は改善されたが皮膚症状が悪化したので、以前の用量にもどすと再び視力が低下したことを報告し、多量或いは継続したジヨードキンの投薬が視神経萎縮を起こし得ることを示唆していると述べている。

(6) B・ストランドビクら(一九六八年(昭和四三年)、文献50)

本報告では、強度の近視の一二才の少年が急性胃腸炎のためにブロキシキノリン(八・オキシキノリン誘導体で、ジヨードキンのヨードがブロムに置換されたもの)を一日1.5g(二七日間で合計約四〇g)服用したところ、失調性歩行、第一趾の伸筋の両側性筋力低下、両下肢触覚及び痛覚減弱が生じ、右側視神経萎縮が認められたこと並びに二、三か月後には歩行は正常となり、神経学的徴候も消褪したが、視神経萎縮は進行し、両側性となり、神経症状出現後三か月後に黒内障となつたことが報告されている。

(7) H・E・ケーザーら(一九七〇年(昭和四五年)、文献53)

著者らは、二四才の男性が二四時間足らずの間にエンテロ・ヴイオフオルム約三〇錠を服用した後に錯乱、幻覚、前昏睡を伴う急性脳障害が生じ、四五日間の逆行性健忘症がこれに続いたことを報告している。

(8) H・E・ケーザーら(一九七〇年(昭和四五年)、文献54)

著者らは、自らの二つの観察を含む若干の観察はハロゲン化オキシキノリンが潜在的に神経毒性を有することを示すと述べ、その長期大量投与によつて視神経萎縮や多発性ニユーロパチーが惹起される可能性があるから投与量の規定は厳守されねばならないし、長期治療は厳格な適応症に限つて許されるとし、さしあたつて慢性神経障害を避けるための若干の方針として、①ハロゲン化オキシキノリン剤を用いた長期治療は厳格な適応症に限つて行なわれるぺきであろうし、成人の一日服用量0.75ないし1gは生死に関わる適応性(腸性末端皮膚炎)が存在する場合に限り越えることが許されよう、②急性腸炎の治療の場合、成人の一日量は1.5g及び年令相応の小児量を越えるべきではなかろう、③治療中、原因不明の視力障害、特に色覚障害、知覚異常、歩行障害が生じたならば、治療を直ちに中止すべきである、と提唱している。

(二) 動物に対する副作用の報告

(1) P・ハンガルトナー(一九六五年(昭和四〇年)、文献41)

本報告では、単純な下痢を止めるためにエンテロ・ヴイオフオルムを投与された一〇匹のイヌが、いずれも数時間内にてんかん様発作を主とする中枢神経障害を来したことが報告されている。その間に、チバ社から獣医に対し、エンテロ・ヴイオフオルムとメキサホルムを犬に投与したときの副作用を明らかにし、両剤は人間用に作られているが、犬での使用は直ちに止められるべきであり、代用薬としてフオルモ・チバゾールが推奨される旨の回状が届けられていた。

(2) シヤンツら(一九六五年(昭和四〇年)、文献42)

著者らは、下痢のためにオキシキノリン誘導体によつて治療を受けた後に急性症状を起こしたイヌが二九匹(うち二三例はエンテロ・ヴイオフオルムが使われていた。)診療に連れてこられたこと及びもつとも顕著な症状は痙れんであつたことを報告し、オキシキノリンと一定の症状の急激な発生との間には一定の関連が見られるので、因果関係もありうると見ている旨述べている。

(3) E・ロエシユら(一九六五年(昭和四〇年)、文献43)

著者らは、ラツトに五・ニトロ・八・ハイドロオキシキノリン(八・オキシキノリン誘導体)を経口投与したところ、一部は直ちに強直性痙れんを生じて死亡し、一部は二、三日後に四肢又は下肢麻痺症状を呈したこと、組織学的には坐骨神経の髄鞘脱落が認められたことを報告している。

(4) L・F・ミユラー(一九六七年(昭和四二年)、文献46)

本報告では、イヌにメキサホルム三錠を投与したところ一八時間後にてんかん症状を呈したこと、抗てんかん剤で痙れんはおさまつたが四日後に死亡したことが報告されている。

(5) W・マイヤー・ルーゲ(一九六七年(昭和四二年)、文献48)

ハロゲン化キノリンは、ネズミ及びウサギで、続発する細尿管拡張を伴うと著者は述べている。

(6) H・ピユシユナーら(一九六九年(昭和四四年)、文献52)

著者らは、0.6ないし1%のヴイオフオルムを混合した飼料を数時間から一四日間までの期間にわたつてマウスに摂取させたところ、最も早いもので五時間後に、一部のマウスが異常な挙動及び痙れんを示し始めたことを報告している。

5 キノホルムの劇性について

(一) 劇薬の指定基準

後記(第六章第五の六の4の(一))のとおり、一kgあたりの経口的致死量三〇〇mg以下の値を示すものが一応劇薬とされていることが認められる。なお、証人デービツドの証言によれば、LD50という概念が一般的に使用されるようになつたのは、一九四〇年(昭和一五年)以降であつたことを認めることができる。

(二) 文献の検討

一九三五年(昭和二八年)三月以前に報告されていた、LD50に関する注目すべき文献とその内容を、整理して列挙すると次のようになる。

(1) H・H・アンダーソンら(一九三〇―三一年(昭和五―六年)、文献10)は、モルモツトにヴイオフオルム二〇〇mg/kgを経口投与したところ、一〇匹中七匹が死亡した事実を報告している。

(2) N・A・デービツドら(一九四四年(昭和一九年)、文献22)は、ヴイオフオルムの経口投与によるLD50は、モルモツトで約一七五mg/kg、コネコで約四〇〇mg/kgであつたことを報告している。

(3) スイスチバ社の社内実験(一九四八年(昭和二三年)、丙第二〇四号証)では、エンテロ・ヴイオフオルムの経口的LD50が、ウサギで二五〇mg/kg、マウス二九〇mg/kgという結果が得られ、又、同社の一九五二年の実績報告(丙第二〇五号証)では、ウサギにおけるヴイオフオルムの経口的LD50は七五mg/kgであつた旨報告されている。

(三) キノホルムの劇性

このようなLD50値の報告によれば、キノホルムは劇薬の指定を受けても何ら不合理ではない医薬品であつたといいうるところ、キノホルムが、昭和一一年内務省令第一九号によつていつたん劇薬に指定されたにも拘らず、昭和一四年厚生省令第三六号によつて劇薬品目中から削除され、同年、第五改正日本薬局方(いわゆる戦時薬局方)に収載されたことは、後に第六章第五の六の2及び3において認定する通りである。キノホルムに対するかような扱いが、決してその安全性が確認されたためによるとの証拠はない。そうすると、被告会社においてもキノホルムについては、それが劇薬に該当することを前提としての慎重な実験・研究が要求されて然るべきであつた。

6 まとめ

以上の各情報中で基準時までの、主としてキノホルムに関するものを整理して掲げることとする。

(一) 神経障害の情報

グラヴイツツ(文献18)及びバロス(文献19)は、キノホルムの内服によつてヒトに神経障害が惹起されることを報告し、又、テルクングは、内服によるものではないが、キノホルムのヒトに対する神経障害作用を報告していた(文献55)。なおオービングらは、キノホルムの類似構造化合物(四・アミノキノリンの誘導体)であるクロロキンがヒトに視力障害を惹起することを報告していた(文献28)。

又、ホーグは試験管内の実験で、キノホルムが神経細胞に障害を与えることを報告し(文献17)、スイスチバ社の動物実験の結果は、キノホルムがネコ及びウサギに対して神経障害をもたらすことを報告していた(文献20、23)。更に、キノホルムの類似構造化合物を投与した動物実験において、動物に神経障害が惹起されたという報告が、一々列挙はしないが多数存した。

(二) 肝臓障害

リーク(文献12)及びデービツドら(文献22)は、キノホルム投与動物実験の結果、キノホルムが動物の肝臓を障害することがある旨の報告をなした。

ところで、証人熊岡熙の証言によれば、薬物が経口投与されるとそれはまず腸管で吸収され、門脈を経て肝臓に入ること、従つて肝臓に障害がみられるということは薬物が吸収される入口において障害がみられるということを意味すること、しかも殆どの薬物について薬理作用は未解明であることが認められる。従つて、肝臓障害の報告は、薬物が、肝臓で代謝され或いはされないままで体内をめぐり、若しくは局所に滞留して別の生体組織を障害する可能性を示唆するものといえよう。それ故に、肝臓障害の報告は、前記神経障害の報告の重要度を補強し、相まつてスモン様神経障害の発現を予見可能ならしめる情報であるといえる。

(三) 吸収情報

デービツドら(文献21、22)及びナイトら(文献31)は、内服されたキノホルムはヒトの体内で吸収されることを報告し、又ハスキンスらはキノホルムがウサギにおいて腸管から吸収されることを報告した(文献32)。

ところで、被告らは、薬剤は多かれ少なかれ吸収されるものであり、薬剤が吸収されるという事実自体は、必ずしも直接その薬剤の有するかもしれない副作用の予見可能性の判断に結びつくものではなく、吸収後の薬理作用或いは毒性発現の情報が必要であると主張する。被告らの右主張は、一般論としては一応もつともであり、吸収情報のみを以て直ちに副作用の予見可能性を云々することができないことは、いうまでもないことである。

しかしながら、キノホルムを内用化した目的が、腸管の表面に巣くう原虫の根絶にあつたことに思いをいたす時、この医薬品を、吸収されてその後生体内の各組織において作用することが期待されている医薬品と同列に置いて論じることはできないのであつて、結局、吸収情報は、前記神経障害の情報の重要度を増強し、これと相まつてスモン様神経障害の発現を予見可能ならしめる情報であると評価すべきである。

(四) その他の情報

既に述べたもの以外の情報は、例えば胃腸障害、劇性というひとつひとつを取り上げた場合には、これらはキノホルムの有する抽象的な危険性を示唆するものにすぎず、これだけで以て予見可能性を云々することはできない。しかしながら、(一)ないし(三)の情報に基づいてのスモン様神経障害の発現は予見可能であつたとする判断を、側面から支えるという意義を全く有しないわけではない。

六まとめ

以上によれば、昭和三四年(一九五九年)五月の時点で、被告会社が、キノホルム又はその類似構造化合物(キノリン及びキノリン誘導体)服用によるスモン又はスモンとの関連性を推論しうる何らかの神経障害の発現を全く予見し得なかつたとはいえないばかりか、却つて、前記文献の集積状況からすれば、キノホルムによるスモンそのものさえ予見可能であつたといつても過言ではない。そうであれば、被告会社の過失は肯定されざるを得ないのである。

第三  被告会社の費任

一被告チバの責任

1 被告チバの行為

被告チバが、別紙(二)キノホルム剤製造許可等一覧表の(1)表記載のキノホルム剤を、厚生大臣の許可又は承認を得て、業として輸入又は製造し、被告武田の販売行為によつて日本国内での使用に供したことは当事者間に争いがない。

2 被告チバの過失

既に認定したように、欠陥医薬品であるキノホルム剤とスモンとの間には法的因果関係が存在するので、被告チバには、キノホルム剤製造(又は輸入)業者たる地位に鑑み、その輸入又は製造にかかるキノホルム剤の服用によるスモンの発生につき相当因果関係のある過失が存したとの推定が強く働くこととなる。然るに、被告チバにおいて、キノホルム剤の副作用からスモンのような重篤な症状の発現は予見できなかつたとの主張を認めるに足りる証拠はない。よつて、被告チバには、本件各キノホルム剤を輸入又は製造するに際して過失があつたと認めるのが相当である。

ところで、エンテロ・ヴイオフオルムの適応症の範囲及び用量について、米国とわが国とを対比してみると以下のようになる。

即ち、〈証拠〉によれば、PDR(Physicians' Desk Reference to Phar maceutical specialities and biologicalsの最初の方の頭文字をとつた通称)とは、米国製薬会社の協力を得て毎年編集発行され、米国の多くの医師に利用されている医薬集であること、同書のセクシヨン5の白色頁部分は製薬会社別に各製品について、当該会社の医学部門の専門家によつて書かれており、組成、作用、適応性、投与法、用量、禁忌症、注意、副作用、包装、その他使用に関連した事項、慣用名、一般名、化学名等の項目に分けて解説されているが、その内容は、医薬品に添付される説明書と同じであること、そのために俗に能書集ともいわれていることを認めることができる。

そこで、米国におけるエンテロ・ヴイオフオルム(又はヴイオフオルム)の能書に記載された経口服薬による適応症及び服用量・期間の変遷を、右PDRの記載内容を追いながら概観することとしよう。〈証拠〉によれば次のような事実を認めることができる。

一九四七年(昭和二二年)版においては、ヴイオフオルムの適応症は急性又は慢性のアメーバ症及びトリコモナス腟炎とされ、用量は一錠二五〇mgを一日三回、一〇日間とされていた。

一九四八年(昭和二三年)版から一九五六年(昭和三一年)版までのヴイオフオルムの適応症はアメーバ症のみであつたが、用量については次の如く変つた。即ち、一九四八年(昭和二三年)版及び一九四九年(昭和二四年)版においては二五〇mgを一日三回、一〇日間服用の後、一週間休薬して更に前同様一〇日間服用するとされていたが、一九五〇年(昭和二五年版)から一九五二年(昭和二七年)版までにおいては、一日六〜一二錠を七〜一〇日間投与することとされ、一九五四年(昭和二九年)版から一九五六年(昭和三一年)版までにおいては、二〜四錠を一日三回服用することとされていた。

一九五七年(昭和三二年)版以降は、ヴイオフオルムの項の記載から経口服用に関する記載が外され、エンテロ・ヴイオフオルム(「以前はヴイオフオルム錠として知られていた」旨の注記がある。)の項が立てられた。そして同年版によれば、エンテロ・ヴイオフオルム錠の適応症はアメーバ症及び単純感染性下痢であつて、前者の治療には二〜三錠を一日三回、一〇日間、後者の治療には一〜三錠を一日三回服用することとされていた。

一九五八年(昭和三三年)版から一九六一年(昭和三六年)版までにおいては、適応症は、単純感染性下痢の治療、球菌、大腸菌と赤痢をおこす生物に対する殺菌、アメーバ性赤痢とされ、用量は、単純感染性下痢に対しては前年と同一であるが、アメーバ性赤痢に対しては、二〜三錠を一日三回、一〇日間服用の後、八日間休止して更に一〇日間の前同様の治療をすることとされていた。

しかしながら、一九六二年(昭和三七年)版以降は、適応症の記載はアメーバ性赤痢のみとなり、又用量については、同年版から一九六八年(昭和四三年)版までは一九六一年(昭和三六年)版におけるアメーバ性赤痢に対する用量の記載と同一であつたが、一九六九年(昭和四四年)版からは右記載を更に「二コース(一コースとは一〇日間の治療である。)をこえての治療はなされるべきではない。」との記載が加えられた。(なお、当裁判所に証拠として提出されているのは一九七二年(昭和四七年)版までである。)

更に、〈証拠〉によれば次の事実を認めることができる。

米国において公定書とされているものは、USP(The Pharmacopeia of the United States of Americaの略称)及びNF(THE NATIONAL FORMULARYの略称)の二つであるが、これらにおけるキノホルムに関する記載をみてみると、まず一九五五年(昭和三〇年)のUSP一五版及びNF一〇版においてはカテゴリー欄に抗原虫剤の記載があつた。(ちなみにカテゴリーとは、〈証拠〉によれば、医薬品の薬局方への収載を認める治療学的根拠を示すものである。)次いで一九六〇年(昭和三五年)のUSP一六版及び一九六五年(昭和四〇年)のNF一二版においては、カテゴリー欄に抗アメーバ剤の記載があつた。しかし一九六五年(昭和四〇年)のUSP一七版及び一九七〇年(昭和四五年)のUSP一八版においては、内用キノホルム剤は収載されなかつた。

ところが、甲第一二八号証(昭和三四年当時のエンテロ・ヴイオフオルムの宣伝パンフレツト)及び甲第一二九号証(昭和三六年当時の同パンフレツト)によれば、わが国においては、エンテロ・ヴイオフオルムの適応症、用量について次のように宣伝されていた事実が認められる。

即ち、適応症としては夏季下痢、細菌性赤痢、アメーバ赤痢、腸結核による慢性下痢、大腸炎及び小腸炎が掲げられており、用量の項には、一日一〜二錠(一錠中にキノホルム0.25gを含有する。)宛、一日三回内服することという一般的投与法の記載に続けて、「エンテロ・・ヴイオフオルムは極めて良好な忍容性のあるため、長期にわたる治療、特に敏感な患者や小児、老年者にも使用することができる。」旨記載されている。

以上の事実によれば、被告チバとしては、米国チバ社の作成に係る能書の記載の変遷を十分に知悉していたはずであるのに、わが国においては右事情を無視して、多くの適応症を掲げかつ長期連用を推奨する等して大量販売してきたものであることが窺える。被告チバにおいて、もつと謙虚に米国における措置を評価して対応策をとつていたならば、これ程大量に重篤なスモン患者が発症することはなかつたのではなかろうかと考えられるのであつて、被告チバの過失の程度は重大なものであつたというべきである。

3 結論

よつて、被告チバには、右過失と相当因果関係を有する損害を賠償すべき義務がある。

二被告武田の責任

1 はじめに

被告武田は、同被告はキノホルム剤の販売業者で中間流通業者にすぎないから、製造業者と同一の責任を負うべき立場にはない旨主張する。よつて、以下において、被告武田のキノホルム剤との関わり合いの実態について検討することとしよう。

2 被告武田と被告チバとの関係

(一) 戦前

一九一三年(大正二年)、チバ(バーゼル化学工業)は新薬の日本における総代理店を横浜カールローデ商会に委託し、同代理店内のチバ日本学術部を通じて新薬を提供し、東京三共株式会社等の一手発売元を通じて、関西における全チバ製品の特約店は前記したように被告武田の前身である大阪武田長兵衛商店に依頼されたが、一九二二年(大正一一年)、チバは、全チバ新薬の日本における総代理店発売元を右武田商店に委託したことは先に認定した。

更に〈証拠〉によれば、一九三八年(昭和一三年)、それまでスイスチバ社から原料を移入して武田商店において製造発売をなしつつあつた契約を一歩進めて、コラミン、ヴイオフオルムその他二、三の製品については、スイス本社の日本における製造権を武田商店に移譲して、これをすべて日本の原料に仰ぎ、同店の製薬工場において国産として製造供給することとしたことを認めることができる。

なお、昭和一八年に社名変更がなされて被告武田となつたことは、当事者間に争いがない。

(二) 戦後

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

昭和二八年(一九五三年)三月三一日付で、被告チバ(正確にはその前身であるチバ製品株式会社)と被告武田は一手配給契約を締結し、被告チバの製品はすべて被告武田が配給することとなつたが(丁第三〇〇号証)、被告チバは日本国内に製造工場を有しなかつたので、同日付で両被告間において製造契約も締結され、被告武田の大阪工場において、一〇数品目の被告チバ製品が製造された。これは被告武田の社内においては受託加工と呼ばれた。この受託加工というのは、被告チバが原末等の材料をすべて無償で被告武田に供与し、その打錠又は小分けの方法或いは規格はすべて被告チバの指示に基づいてなされるものであつた。

右各契約は、昭和三三年(一九五八年)三月一日付で締結された契約によつて修正されたが(丁第二四〇号証)、本質的には昭和二八年のものと殆ど変つていない。

その後、昭和三五年(一九六〇年)末に、被告チバの宝塚工場が完成したので被告武田によるエンテロ・ヴイオフオルム剤を含む医薬品の受託加工は昭和三六年(一九六一年)四月を以て終了した。その後は、被告武田は前記配給契約に基づいて、被告チバ製造にかかるキノホルム剤その他の医薬品を販売してきた。

なお、被告武田は被告チバに対して出資をしていないし、役員の派遣もしていない。被告チバから被告武田に対する役員の派遣もない。被告武田は被告チバ以外に一三の製薬業者から医薬品を仕入れて販売している。

3 被告武田によるキノホルム剤製造の有無

(一) 昭和二八年以前

被告武田が昭和一三年にチバからヴイオフオルムの製造権を移譲された事実は既に認定したところであるが、〈証拠〉によれば、被告武田はこれに基づき昭和一七年頃にヴイオフオルムを自ら製造していた事実が認められる。そして又、〈証拠〉によれば、その頃ラジウム製薬株式会社がビオメチン(〈証拠〉によれば、これはキノホルムにペクチンを同量配伍した粉末及び錠剤である。)を製造していたところ、昭和一九年に被告武田が右ラジウム製薬を吸収合併することになり(丁第三〇七号証の二、五二丁)、昭和二五年頃には、被告武田が前記ヴイオフオルム及び右ビオメチンを製造していたことが認められる(甲第三四五号証)。

これに対して、〈証拠〉によれば、被告武田の取締役である武内美次は、右各医薬品については被告武田は製造許可をとつていただけであつて、実際にはヴイオフオルム、ビオメチン等を製造・販売した事実はないと述べていることが認められるが、前掲各証拠に照らして、にわかに措信し難い。

(二) 昭和二八年以降

昭和二八年から昭和三六年までは被告武田がエンテロ・ヴイオフオルムを製造していたか否かについては原告らと被告武田との間に争いがある。しかし、次に述べることから結論は容易に導かれるので、この点については特に触れないこととする。

4 被告武田の販売活動の実態

(一) 一手配給契約の内容

〈証拠〉によれば、被告武田と被告チバとの間で昭和三三年に締結された一手配給契約の主な内容は次のようなものであつたことを認めることができる。

(1) まず第一項本文において、被告武田が一手配給人となり、被告チバの医薬品の日本市場における全需要を満たすため保有しなければならない在庫を随時被告チバに通知し、被告チバはかかる在庫を随時被告武田に供給すること、被告武田は被告チバのために日本におけるその製品の最大の配給を確保すべく力量の範囲でできる限りのことを行なうものとすることが規定されている。同項但書においては、被告チバは、医師及び薬剤師向けのすべての資料・文献を作成配布し、自己の費用と責任において、すべての販売及び販売促進業務を実施すると規定されている。なお、〈証拠〉によれば、販売業務とは、市場調査、市場分析を行なつて販売計画を立て、或いは価格を決定することを、販売促進業務とは、拡張宣伝活動ともいわれるもので、プロパーによる需要喚起・情報収集等を内容とするものであることを意味していることが認められる。

(2) 第二項では、被告武田は、日本で販売される被告チバの医薬品の類型及び数量に関する被告チバの指示を実行することに同意し、被告チバは、被告武田と協議の上、被告武田の販売するかかる製品の価格及び割引額を定める旨規定されている。

(3) 第三項は、被告武田が受け取るべき手数料に関する規定であり、原則として、販売された全製品の正味卸向価格から、被告武田が、その顧客に与える五%の割戻し(いわゆるリベート)を差引いた額につき、17.5%の配給人としての手数料を受け取るとされている。

(4) 第六項は保管に関する規定であり、被告武田は、被告チバの医薬品の在庫について保管の責に任ずるが、保管に要する費用は被告チバが負担すること、及び被告チバは被告武田の保有するチバ製品の在庫について、自己の費用で火災及び盗難保険を十分に付してこれを管理する権利を留保することが規定されている。

(5) 第八項においては、被告武田は、被告チバの承諾なしには、新規競争医薬会社のために一手配給権を引受けないことが規定され、第一〇項においては、被告武田は、被告チバの製品の売上げを促進する事項に関する情報を被告チバに提供するものとし、このため卸売商、医師、病院及び薬局の最新の名簿を被告チバに提供する旨規定されている。

(二) 販売活動の実態

被告武田は、右配給契約の内容から明らかなように、自らは何ら被告チバの製品の販売促進活動に関与せず、製品の保管、一次卸店への配給及び代金の回収に携わつたのみである旨主張する。

ところで、〈証拠〉によれば、次の事実を認めることができる。

(1) 被告武田と取引のある主要な卸店は約一三〇軒であり、これらで以て、被告武田の販売する全医薬品の殆どをさばいている。又、卸店の取扱い高の中で、被告武田の卸す製品の取扱い高は、平均二〇%弱である。医薬品部門における売上高は、日本国内の製薬販売業者中被告武田が最高である。

(2) 昭和二九年、金融引締めによる不況と販売競争の激化によつて、甚だしい値くずれの状態となつたので、価格の維持、販売ルートの正常化をねらいとして、被告武田の主要な卸店によつて、昭和三一年までに、「ウロコ会」が結成された。その後右「ウロコ会」はなくなつたが、約一三〇店による主要特約店懇談会が連絡会を行なつている。昭和四〇年に、被告武田は、再販売価格維持制度を取り入れ、再販システムとして武田会をつくつたが、その内容は、対象医薬品一八品目、組織対象は問屋一五〇店、小売店二万九、〇〇〇店というものであつた。

(3) 販売促進業務に携わる人員についてみると、プロパー(主として医療機関、薬局、薬店に向けての販売促進業務に従事するもの)は、昭和四五年の時点で、被告チバには約二〇〇名、被告武田には約四五〇名いた。又、被告チバには、セールスマン(主として卸店向けに販売促進業務を行なうもの)はいなかつたが、被告武田には現在約一〇〇名のセールスマンがいる。

(4) 同一地区を担当している被告武田のプロパーと、被告武田に販売を委託している製薬会社のプロパーとが一緒に診療機関を訪問して販売促進活動をすることがあり、これは集団拡張と呼ばれている。他のプロパーを通じて右機会に、医師等を紹介されることはあるが、個々のプロパーが拡張するテーマは、その会社の商品に限られている。

又、被告武田とその関連製薬会社のプロパーとが、連絡会を開くこともある。

(5) 被告武田は、病院・薬局向けの宣伝紙として武田薬報という雑誌を発行しているが、これには被告武田の販売する他社製品についての広告も掲載され、エンテロ・ヴイオフオルムについても、夏になると止潟剤としての宣伝がなされてきた(なお、甲第三五二号証の一ないし七参照)。

なお、被告武田の販売にかかる本件各キノホルム剤の能書、パンフレツト、包装等に「販売 武田薬品工業株式会社」との記載が、製造者としての被告チバの社名と並記されていた事実は当事者間に争いがない。

5 考察

以上のような検討の結果によれば、被告武田は単なる一地方の医薬品販売業者とは異なり、全国に確固たる販売ルートを有するわが国でも最も大手の医薬品会社であり、従来の経緯からして被告チバとの間はもともと密接な協力関係にあつたのであるが、前記一手配給契約の締結により、更にその各項に謳われているような協力関係を深め、被告チバ製品の販売にあたつては、両者一体となり、積極的にその販売促進活動を行なつてきたことが認められ、そのため被告武田が受け取る手数料も、決して同被告の主張するように低廉なものではないということができる。

そこで、消費者に対する関係では、被告チバがスイスに本社を有するチバ社の一〇〇%出資会社であることとも相まつて、被告武田は右被告チバの製品につき、その製造業者に代り、これと同視し得るような立場にあつたというべきであり、一方消費者の側からしても、被告武田の知名度に信頼を寄せて、被告チバの製品を購入するということが十分に考えられたのである。

そうだとすれば、かかる立場にある被告武田は、医薬品の販売業者にすぎないにしても、その安全性確保については製造(又は輪入販売)業者におけると同様の注意義務を負うものとしなければならない。まして、被告チバが外資系会社であることを思えば、医薬品に対する反応には人種差があり、輪入医薬品は無条件に日本人に使用さるべきではないから(この点については丁第一一一号証二〇〇頁)、被告武田としては、被告チバ製品の有効性及び安全性について、被告チバからの情報のみに頼ることなく、自らも試験・検討を行なうべき責務があつたというべきである。

そして、被告武田が、このような注意義務を尽さず、その結果右医薬品の使用者に対して損害を生ぜしめた場合は、被告武田にはその損害を賠償すべき責任があるといわなければならない。

6 結論

ところで被告武田は、わが国においてキノホルム剤の安全性確保のためにとつた行為を具体的に主張、立証しない。又、スモンの予見可能性が存しなかつたとの主張を認めるに足りる証拠はない。よつて、被告武田には、スモン発生につき相当因果関係を有する過失が認められるので、スモンによる損害を賠償すべき責任がある。

三被告田辺の責任

1 被告田辺の行為

被告田辺が、別紙(二)キノホルム剤製造許可等一覧表の(3)表記載のキノホルム剤を、厚生大臣の許可又は承認を得て、業として製造し自ら販売した事実は当事者間に争いがない。

2 被告田辺の過失

既に認定したように、欠陥医薬品であるキノホルム剤とスモンとの間には法的因果関係が存在するので、被告田辺に対しても、そのキノホルム剤製造業者たる地位に鑑み、被告チバにおけると同様、スモン発生と相当因果関係のある過失の存在が強く推定されることとなる。そして、スモンの如き重篤な副作用の発現を予見することは不可能であつたとの主張を認めるに足りる証拠はない。

よつて、被告田辺には本件各キノホルム剤の製造、販売に際して過失があつたと認定するのが相当である。

ところで、甲第一三一号証(エマホルムの新発売当時の能書)によれば、被告田辺はエマホルムの適応症及び用量について次のように宣伝していた事実が認められる。

即ち、まず内科の適応症としては、急性及び慢性腸カタル、大腸カタル、急性及び慢性アメーバ赤痢、下痢、夏季下痢、神経性下痢、頑固な慢性下痢、腸内異常醗酵が掲げられており、内用の用量としては、下痢、胃腸炎等の場合通常成人には一日量一g(一〇錠、エマホルムの一g中にはキノホルム0.9gが含有されている。)を三回に分けて毎食後投与すること、細菌性赤痢に対しては一日量1.5〜2.0(15〜20錠)を一日三〜四回に分けて投与すること、慢性のアメーバ赤痢には一日量0.9〜1.5g(9〜15錠)を一日三回に分けて毎食後一〜二週間投与すること、急性のアメーバ赤痢には一日量2.0〜3.0g(20〜30錠)を四〜六回に分けて毎食後一〇間投与することが記されている。

なお、戊第二五〇ないし第二五四号証によれば、エマホルムの能書は数次にわたつて改訂された事実が認められるが、その主たる内容には概ね変化がなかつたといつてよい。

思うに、被告田辺において、一の2で認定した米国でのPDR、USP及びNFにおけるキノホルム(剤)の適応症、用量の変遷に留意し、わが国における能書の記載にこれらを反映していたならば、これ程のスモン被害の発生は防ぎ得たのではないかと思料されるのであつて、被告田辺の過失の程度は重大なものであつたといわざるを得ない。

3 結論

よつて、被告田辺には、右過失と相当困果関係のある損害を賠償すべき義務がある。

第六章  被告国の責任

第一  序(争点)

被告国の責任論に関する原告らの主張の骨子は、被告国には法律上の医薬品安全性確保義務(換言すれば薬害防止義務、以下同じ。)があるところ、被告国は右義務を懈怠し、

①  キノホルム(剤)を日本薬局方あるいは国民医薬品集へ収載した行為

②  キノホルム剤の製造・輪入を許可あるいは承認した行為

③  右の収載、許可・承認後にキノホルム(剤)の薬局方等からの削除及び被告会社のキノホルム剤の許可・承認の取消、販売中止等の規制措置をとらなかつた行為

により、原告患者らはスモンに罹患したのであるから、その損害を被告国は国家賠償法一条一項に基づき賠償すべき義務がある、というのである。

これに対し、被告国は医薬品の特質をふまえた上で薬務行政上の被告国の権限の性格を考えると、法律上被告国は直接個々の国民に対して医薬品安全性確保義務を負うものではなく、個々の国民が被告国の薬務行政によつて安全な医薬品を供給されているのは所謂反射的利益ないし事実上の利益にすぎないから、原告らに医薬品による損害が発生したとしても、被告国に対してその損害の填補を求めることはできないのであり、仮に右利益が反射的利益ではなく法律上の利益だとしても、被告国の薬務行政上の権限は自由裁量行為に該当するから、それに逸脱又は濫用がなければ違法性がないところ、本件においては原告らが主張する時点においては、キノホルム(剤)の有用性を否定するに足りる根拠は認められなかつたのであるから、被告国が昭和四五年(一九七〇年)九月に至るまで何らかの行政上の措置を採らなかつたことに責任を負ういわれはない等と反論する。

ところで、原告患者らの中には医療機関からの投薬証明書がとれなかつた等の理由により、服用したキノホルム(剤)の商品名が明らかにならず、被告国のみを相手にしている者もいるのであるが、〈証拠〉によれば、キノホルムはそのままの形で内服すると胃の刺激症状が強く、使用に耐えないと現場の臨床医師が報告していることが認められ、これに前後記認定のキノホルムが水に難溶な性質を有するために、広く腸内に分布させる必要からサパミンやペクチン或いはCMCを配伍したキノホルム剤が製造されるに至つた事実、その他弁論の全趣旨を総合すれば、右の原告らにおいて服用したものはキノホルムそのままのものではなく、それを含有したキノホルム剤であると推定して然るべきである。

そして、原告患者らの中には昭和二三年法律第一九七号による薬事法(旧薬事法)の時代にキノホルム剤を服用してスモンに罹患した者と、昭和三五年法律第一四五号(現行薬事法)の時代にキノホルム剤を服用してスモンに罹患した者とがいることは後記(第九章)認定のとおりであるから、本章ではまず旧薬事法下における被告国の責任の有無を論じることにする。その叙述の順序は、被告国の主張する反射的利益論について当裁判所の見解を示し(第二)、次いで被告国の、行為が国家賠償法一条一項の「公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて」なしたものであることを述べて(第三)、被告国の過失論に入り(第四及び第五)、ひきつづき被告国の行為の違法性を論じる中で、被告国主張の自由裁量論に言及し(第六)、因果関係論(第七)を経て、最後に総括的な考察をする(第八)。

その後で、現行薬事法下における被告国の責任の有無を論じるが、これは旧薬事法下におけるそれの考え方、論証がそつくりそのまま妥当するので、必要な限度で付加的に論じることになる(第九)。

第二  反射的利益論について

一被告国は、「違法な行政処分により損害を受けたとして国家賠償を求める請求の当否を判断するに当つては(特に、賠償を求める者が当該処分の相手方でない場合には)、まず、その主張する損害が当該処分との関係において「法律上の利益」といい得るか否かを検討しなければならず、この点において、本件におけるような国家賠償請求訴訟は、取消訴訟と差異はないところ、旧薬事法の立法趣旨及び目的は、いかに医薬品の性状及び品質を確保し、これに違反した不良医薬品を取り締まるか、換言すれば、適正な医薬品の供給を通じて「公衆衛生の向上及び増進」という公衆(国民全体)の利益を保護することにあると解すべきであつて、副作用のない医薬品の供給を受け得るという個々人の利益を保護をすることにあると解することはできないから、その個々人の利益は反射的利益ないし事実上の利益にすぎないものというべく、結局原告らが医薬品による副作用被害を受けたとしても、被告国に対し損害賠償を請求することはできない。」と主張するのである。

二被告国の右主張は必ずしも一義的に明確であるわけではない。もし、その意味するところが原告らの原告適格を争う趣旨であるとするなら、それは以下の理由で失当といわざるをえない。即ち、

1 反射的利益論そのものが、公衆(国民全体)の利益と国民個々人の利益との峻別を前提とするものであり、こうした公益と私益の峻別論の当否につきまず問題がある。そもそも行政の究極目的は国民個々人の安全や福祉と無関係な公益ではなく、個々人の安全や福祉の集積・総和としての公益にほかならないからである。仮に、この点をしばらく措くとしても、

2 もともと反射的利益論は、行政処分そのものが多かれ少なかれ公共的性格をもつているため、どの範囲の人に不服申立をする資格を与えるべきであるか、という原告適格を画する基準設定の必要性を背景に、行政処分の適否を争う取消訴訟において、主に論じられてきたものであり(行政事件訴訟法九条の「法律上の利益」との対概念として常に論じられてきたのは、この理由による。)、本件におけるように損害賠償請求権の存否が争われている場合には、損害を受けたという者はすべて原告適格を具備しているのが原則であつて、殊更反射的利益の有無を論じる必要も実益もない。

本件において、原告らは被告国の行政処分の取消しを求め、あるいは特定の行政処分の行使を求める行政訴訟を提起しているのではなく、原告らの被つた損害が被告国の違法な公権力の行使に起因するとして、国家賠償法一条一項に基づき、その損害の回復を求めて賠償請求しているにすぎないのであるから、同条項の要件充足の有無を考えるだけで必要かつ十分であり、更に、行政事件訴訟法九条にいう「法律上の利益」を右要件に付加して考えなければならない理由は形式上も実質上も見出し難い。国家賠償請求訴訟と取消訴訟という違つた制度目的をもつものの間で、行政事件訴訟法九条の「法律上の利益」という同一概念を使つて原告適格を論じようとする点に無理があるといわざるをえない。

三ただし、被告国の反射的利益論の主張は、被告国が薬事法上医薬品の安全性確保義務を負うといえるか否か(これが肯定されないと、原告らは薬害を被つたことを理由にその損害の填補を求めえないことにつながりかねない。)、の点に関し、それを否定する根拠の中心をなしているようにも思われるので、そのような主張として理解したうえで、以下検討する。

第三  被告国の行為

被告国が

①  昭和二三年九月二一日厚生省告示第七三号をもつて、国民医薬品集を制定公布した際キノホルム剤であるキノホルミン、キノホルミン錠を収載したこと

②  昭和二六年三月一日厚生省告示第三一号をもつて、第六改正日本薬局方を制定公布した際キノホルムを収載したこと

③  昭和三〇年三月一五日厚生省告示第六五号をもつて、第二改正国民医薬品集を制定公布した際キノホルム剤である複方キノホルム散を収載したこと

④  昭和三六年四月一日厚生省告示第七六号をもつて、第七改正日本薬局方を制定公布した際キノホルム及び複方キノホルム散を収載したこと

⑤  別紙(二)キノホルム剤製造許可等一覧表記載のとおり、昭和二八年(一九五三年)三月から昭和三九年(一九六四年)六月までの間になされた被告会社の申請に対し本件各キノホルム剤の製造又は輪入の許可或は承認をなしてきたこと

⑥  右収載、許可・承認後、昭和四五年(一九七〇年)九月に至るまで、キノホルム(剤)の公定書からの削除、許可・承認の撤回、販売中止等の行政措置を何らとらなかつたこと

はいずれも被告国において自白し又は明らかに争わず自白したものとみなされる。

右の行為(作為は勿論、不作為も含む。以下同じ。)が、国家賠償法一条一項にいう「国……の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて」なしたものに該当することも明らかである。

第四  被告国の医薬品安全性確保義務の存否

一はじめに

原告らは被告国が医薬品安全性確保義務を負うのは、旧薬事法及び現行薬事法に法的根拠がある旨主張するのであるが、ここではまず旧薬事法上被告国に右義務が認められるかどうかを論じ、更に必要な限度で、別に現行薬事法上のそれについて付加して論じることにする。

二問題の所在

1 被告国は、その医薬品安全性確保義務の存否を論じるに当つて、「旧薬事法の立法趣旨及び目的を、明治時代に遡る薬事法制の数回にわたる改正・制定という歴史的推移をみつめながら旧薬事法の条文を検討して考察すれば、旧薬事法は医薬品の性質及び品質を確保し、これに違反した不良医薬品を取り締るといつた取締法規というほかはなく、従つて、旧薬事法に基づく被告国の薬務行政も取締行政にほかならないし、その結果国民が安全な医薬品を供給されるとしても、それは本来旧薬事法が個々の国民に対し安全な医薬品が供給されるように配慮すべき法的義務を負つているが故ではなく、事実上そういう利益がもたらされたにすぎないから、所謂反射的利益に過ぎず、これを換言すれば、国民が安全な医薬品ではなく、危険な医薬品の供給をうけ、被害が生じたとしても、それは被害を受けた国民と加害者たる製薬業者等との間に法律上の関係が生ずることがありうるにすぎず、被害を受けた国民に対し、被告国は政治的・道義的責任はともかく、何らの法律上の責任を負ういわれはない。」というのである。

2 これに対して原告らは、「憲法一三条、二五条の精神をふまえて旧薬事法をみれば、被告国には国民の生命・健康の安全確保を図るべき見地からの医薬品安全性確保義務があるのは当然であり、従つて旧薬事法に基づく被告国の薬務行政も積極的規制行政にほかならない」旨主張するのである。

3 ところで、本件では被告国に国家賠償法一条一項に基づく損害賠償責任があるのかどうかを考える前提として、被告国に医薬品安全性確保義務があるのかどうかが問われているのであるから、旧薬事法の法的性格が取締法規にあるかどうか、という観点から、論理必然的に解答が得られる筋合ではないと思われる。被告国の医薬品安全性確保義務といつても、国に対置される国民の側が、国家賠償請求訴訟の立場からそれを論じる場合と、取消訴訟又は義務づけ訴訟の立場からそれを論じる場合とでは、その内容に同一のものが要求されるわけでないことは、それらの訴訟の制度目的が違うことからも自明のことであろう。

本件で論じらるべきは、キノホルム中毒によるスモンに罹患した原告患者らの損害を填補すべき義務を被告国に負わせることが負担の公平という損害賠償法理からいつて妥当かどうか、という観点からの被告国の医薬品安全性確保義務の存否にすぎないことに留意すべきである。

三旧薬事法の法的性格をめぐつて

1 薬事法制と薬務行政の変遷

〈証拠〉によれば、以下のとおり認められる。

(一) 薬務行政の混沌期

明治新政府の樹立(一八六八年)と共に開国進取の国是が採用され、爾来欧米先進諸国から諸種の文物制度が相次いで採り入れられ、その中には近代科学に基礎を置く医療制度も大いに摂取されたので、西洋医学の進出と共に、洋薬も盛んに使用されるようになつた。当時わが国には製薬事業はなかつたので、洋薬は専ら外商の手を通じる輸入にたよつていたが、明治新政府は日を追つて盛んに輸入される洋薬を如何に取扱うかという点については何らの準備もなく、又これを充分に処理しうるだけの薬品的知識にも乏しかつた。従つて、明治六年(一八七三年)文部省に医務局が設置されるまでの間は、薬品取締りについては何らの施設もなく、殆ど無為に経過した。唯僅かに、わが国で古くから広く使用されていた売薬に関し、明治三年(一八七〇年)一二月二三日に太政官布告第九七七号をもつて売薬取締規則を制定した。

これによれば、売薬の取締りは大学東校の所管とされ、売薬には勅許御免等の文字や、神仏無想家伝秘方などの一切の誇大宣伝を禁止すると共に、従来の売薬はその成分、効能、用法及び価格等を詳細に東校に提出させて、これを検査した上許可を与えることにした。これらの売薬の中で優れたものに対しては七か年の専売を許し、専売期間が経過したものは、これを一般に公表して広く販売することを許した。

明治政府は、このようにして衛生上危害を生ずる虞れのある売薬に対してはその販売を禁止すると同時に、有効の売薬についてはむしろ奨励していたのである。

売薬の取締りについて臨時の便法として大学東校に処理せしめたが、これも明治五年(一八七二年)七月一七日に廃止せられた(太政官布告第二〇二号)。当時医薬品の取締りの必要は、売薬よりもむしろ外商の手を通じて輸入される洋薬にあつた。しかし、政府はこの洋薬の取締りについては殆ど等閑に付していた。これと国民の洋薬についての知識の皆無に乗じて、外商の中には粗悪な薬品を盛んに輸入しては利を貪る者もあつたので、間もなく政府もこの弊の少なくないことに目覚め、薬品とこれを取扱う者についての何らかの規制をなす必要を認めるに至つた。

(二) 医薬制度の建設期

(1) 医薬制度の調査の着手

明治六年(一八七三年)文部省に医務局が新設されて薬品制度の調査に着手し、太政官から医務局において売薬の検査をなして、その許可或いは禁止を指令すべきことが布告された(同年一二月二七日太政官布告第四二九号)。これが今日の薬務行政の始まりである。

(2) 医制の制定

明治七年(一八七四年)八月に医制が制定された。これは公衆衛生、医師の免許、薬舗及び薬品に関する事項にわたつて規定され、明治八年に多少の改正が行なわれたが、わが国における薬事制度の最初の礎石がここに築かれた。

(3) 司薬場の創設

医制三三条に基づき、明治七年(一八七四年)東京司薬場を創設し、薬品検査及び薬舗売買等のことを司ることになつた。その後、京都と大阪にも新設されたが、京都は後になつて廃止され、その後横浜と長崎にも新設され、薬品検査機関が整備されることになつた。この司薬場が、今日の国立衛生試験所の母体である。

(4) 粗悪医薬品の取締りと毒薬の取扱い

司薬場の設置と共に、政府は当時盛んに横行していた粗悪薬品の取締りに乗り出し、比較的高価で用途の広いキニーネ塩とヨードカリウムの取締りを第一として手をつけ、漸次他の薬に及ぼす方針をとり、明治七年(一八七四年)一〇月罰則(罰金)を伴つた命令を太政大臣の名をもつて東京府にだした。

又、毒劇薬の取締りについても閑却出来ないものがあつたので、同年中に東京、大阪、京都の三府に対して毒薬の取扱いについて文部省布達が出された。

(5) 薬務行政の内務省移管

文部省医務局の所管に属していた衛生事務は明治八年(一八七五年)七月に内務省に移管されることになり、同省に第七局(後に衛生局と改められた。)が設けられた。以後、漸く緒についたばかりの薬務行政がいよいよ整備強化され、軌道にのることになつた。

(6) 粗悪医薬品と毒劇薬取締りの強化

明治九年(一八七六年)三月内務省は、先に東京府に命じた不良偽悪薬品の取締り範囲を広げて、更に二〇品目を追加すると同時に、京都、大阪の二府にもこれを施行することにした。

次いで、明治一〇年(一八七七年)二月一九日太政官布告第二〇号として、先に文部省から東京、大阪、京都の三府に布達された毒薬の取締りを改正して、毒薬劇薬取扱規則を定めてこれを全国に公布した。この改正で初めて毒薬と劇薬とが区別されるようになり、適用区域も全国に拡大され、取扱いについても前のものよりやや詳細に規定された上、違反者には罰金を科することになつた。これは、薬品中その性効が峻烈なものの用方を誤るときは、人命を傷害することが多いことに鑑み、その取扱いを厳にしようとするものであつた。そこでは、「薬品中其効力峻劇ニシテ直ニ生命ヲ傷害スルニ足ルヘキ者ヲ毒薬ト唱へ其性効毒薬ノ如ク強烈ナラサルモ其用量ニ依テ容易ク危害ヲ生スヘキモノヲ毒薬ト称ス」と定め、亜砒酸等一九種を毒薬に、ヨード等四六種を劇薬に指定したのであつた。

(7) 売薬規則の制定

売薬に関しては、明治一〇年(一八七七年)一月二〇日太政官布告第七号をもつて売薬規則が制定された。これによれば、売薬とは丸薬、膏薬、煉薬、水薬、散薬、煎薬等家方をもつて合剤し販売するものをいい(一条)、売薬営業者は薬味、分量、用法、服量、功能を詳記した書類を添えて内務省に願出てその免許鑑札を受けなければならず(二条)、内務省では願書を検査し、製薬配伍の薬品劇毒微毒に拘らず、取扱上失誤を生じ易いもの等は許可しないものとし(三条)、右の免許の有効期限は満五年で、更新するには新鑑札を願受けなければならず(八条)、営業者が製薬を粗悪にする等した時は直ちに鑑札を取上げて発売を禁ずる(一〇条)とされた。

(8) 薬品取扱規則の制定

明治一三年(一八八〇年)一月一七日太政官布告第一号として医薬品と毒劇薬の取締規定を統一した、しかも全国に効力を有する薬品取扱規則が制定された。これは、薬品中最も注意して精選すべきものを第一類(注意薬)とし、性効峻烈にして僅少の分量でも直ちに生命を傷害するに足るべきものを第二類(毒薬)とし、それより性効が劣つても、用量によつて容易に危害を来すべきものを第三類(劇薬)とし、新に発見及び舶斉した薬品は司薬場で試験を受けその告示する所に従うことになり(一条)、第一類薬品の粗製品を薬用として販売することを禁じ、薬舗で自ら良否を鑑別できない時は司薬場に請求して無費で試験を受けられ(二条)、第二類・第三類の薬品の取扱いに厳重な制約を定める(四条)等していたが、後述の明治二二年(一八八九年)の薬品営業竝薬品取扱規則が施行されるまで実施され、わが国の偽悪医薬品及び毒劇物の取締史上において、相当大きな役割を果した。

(9) 製薬免許手続の布達

明治初年以来の医薬品の需要増大に伴い、比較的簡単に製造できるものは国内の薬業者が目をつけて作つていたが、当時の製薬業者の中には、徒に輸入品の外観の模倣のみに走り、品質について責任を感じないものが多く、折角勃興しつつある医薬品工業の健全な発展が望まれなかつたのみでなく、むしろその弊に耐えない状況を呈するに至つた。政府は真面目な事業の発達を図る一面、悪質無責任な製薬業者を取締るため明治九年(一八七六年)五月製薬免許手続を定めて府県に布達した。これによると、製薬人は製品を内務省に出し、製品は司薬場で試験をうけ、良品のものにつき免許鑑札を交付し、その製造が十全でないものは本人の志願により司薬場で製煉の方法を伝示することになつた。

(三) 医薬制度の整備完成期

(1) 日本薬局方の制定

薬局方とは、国民の保健に重要な薬物を、その国の法的強制力をもつて統一し、医薬の品位を向上せしめ、力価を保持し、薬効の正確、優秀性を期す目的で、その国で普通一般に使用せられる重要な医薬品の品質、純度、強度の基準を定めたものである(その詳細は後述する。)。

ところで、既に明治七年(一八七四年)に制定された医制には、日本薬局方の編纂が予期されており、又医薬の制度が逐次整備されるに従つて、薬局方の存在しないことの不便が段々痛切に感ぜられるに至つた。そして、明治一三年(一八八〇年)一〇月内務卿から薬局方の選定が一日もゆるがせにできない緊急な事柄である旨太政官に具申され、政府はこれをいれて中央衛生会に薬局方選定を委任し、この事業に着手した。数年の苦心と努力の結果、明治一八年(一八八五年)一〇月に完成されて内務省より太政官に具申され、翌一九年六月二五日に内務省令第一〇号をもつて公布され、二〇年(一八八七年)七月一日から施行された。これが、日本薬局方のはじまりである。

(2) 薬品営業竝薬品取扱規則の制定と改正

医薬品に関する法規が医制、薬品取扱規則及び製薬免許手続の三者に分れて規定されたものを統一する必要が認識されるようになつたと同時に、ようやく編纂公布された日本薬局方は法律に基づかない単なる内務省令にすぎないため、これに法律上の効力を付与する必要から、明治二二年(一八八九年)法律第一〇号として、薬品営業竝薬品取扱規則が制定公布され、これと同時に同法の施行に必要な薬剤師試験規則、薬品巡視規則及び毒劇薬品目の三省令も公布され、ここにわが国における医薬制度に関する基礎と輪廓が一応整備されるに至つた。

この法律により、薬剤師の名称を創設して、その地位と職責を明らかにし(一ないし一九条)、薬品の販売をなす薬種商は地方庁の免許鑑札を受くべきこととし(二〇、二一条)、薬品を製造し自製の薬品を販売する製薬者も地方庁の免許鑑札を受くべきこととし(二三、二四条)、日本薬局方収載薬品はその性状、品質がその所定に適合するものでなければ販売や授与をしてはいけないし(二六条)、日本薬局方収載外薬品は、外国薬局方によつているものは、その名称を記すとともに、その性状、品質が当該薬局方の所定に適合するものでなければ販売や授与ができず、どこの薬局方にも収載されていない新規の薬品は衛生試験所の検査を経てその成績を記すものでないと販売や授与ができないものとされ(二六、二七条)、内務大臣は監視員を任命して薬局及び薬品を販売・製造する場所を巡視させることができるとし(三八条)、禁止規定違反者には罰金・科料を科することができる(三九ないし四一条)とされ、先の明治一三年(一八八〇年)第一号布告の薬品取扱規則は、この法律施行の日より廃止される(四八条)ことになつた。

この法律の制定にも拘らず、不良医薬品がその後依然として跡を絶たないので、薬局方不適合品の販売授与の禁止のみに止まつていた従来の規定に、その製造、貯蔵、陳列をも禁止することを加えると同時に、指定された医薬品の販売授与は薬品の品質鑑別の能力を持つている薬剤師にのみ限定するよう改正され、明治四一年一月からこの改正法が施行された。

(3) 第二改正日本薬局方の制定

日本薬局方も、その後時の経過と共に多くの欠点が現われるに至つたので、公布後間もなくその追補訂正を施す必要のあることが認められ、明治二一年(一八八八年)には、早くもその改正をなすために日本薬局方調査委員が設置されて改訂の調査に着手し、結局全面的に改正を行なうこととなり、明治二四年(一八九一年)五月二〇日には内務省令第五号として公布され、翌二五年一一月からこの改正薬局方が施行された。

(4) 第三改正日本薬局方の制定

薬品営業竝薬品取扱規則改正と相前後して第三改正日本薬局方が明治三九年(一九〇六年)七月二日内務省令第二一号として公布され、翌年一月一日から施行された。これは前薬局方の追加を三回程行なつたあと新たに二二〇品目の追加と生薬及びその製剤の有効成分の検査法等を掲げた重要なものであり、一年遅れて実施された改正薬品営業竝薬品取扱規則と相俟つて当時の薬業界の面目を一新した。

(5) 新薬、新製剤の届出制

薬品営業竝薬品取扱規則の改正に伴い、新薬(内外の薬局方のいずれにも収載されていない薬品)又は新製剤(薬局方に収載された薬品を用いて製造した薬品を含む)を製造発売又は輸入発売する者は見本品を添え地方長官に届出ることが義務づけられた(明治四〇年(一九〇七年)一二月内務省令第二八号)。この内務省令は明治四四年(一九一一年)一〇月内務省令第一八号によつて、より厳しい届出制にとつてかわられた。ちなみにその主内容を紹介すると次のとおりである。

一条 薬剤師、薬種商又ハ製薬者何レノ薬局方ニモ記載セサル薬品又ハ製剤ヲ新ニ製造発売シ又ハ輸入発売セムトスルトキハ見本品ヲ添へ其ノ成分(製剤ハ分量トモ以下之ニ做フ)、成分不明ナルモノハ其ノ本質及製造法ノ要旨ヲ記載シ地方長官ニ届出ヘシ

前項ノ薬品又ハ製剤ト同一品ニシテ名称若ハ製造法又ハ製造元ヲ異ニスルモノニ関シテ亦前項ニ同シ

二条 何レノ薬局方ニモ記載セサル薬品又ハ製剤ハ容器又ハ包紙ニ其ノ成分、成分不明ナルモノハ其ノ本質及製造法ノ要旨ヲ記載スルニ非サレハ之ヲ販売又ハ授与スルコトヲ得ス但シ名称若ハ製造法又ハ製造元ヲ異ニスル場合ヲ除ク外本令施行前ヨリ発売シ来レルモノニ関シテハ此ノ限ニ在ラス

(6) 薬品の無害有効主義に基づく行政指針

明治四二年(一九〇九年)四月内務省衛甲第二九号衛生局長通牒は次のように述べている。

「近年売薬ノ許否往々粗漏ニ流レ候哉ノ聞有之候処抑ニ売薬ナルモノハ多クノ患者又ハ其家人等自ラ其病ヲ推測シ効能書ニ依リ之ヲ使用スルモノニシテ而モ其ノ推測ハ多クノ疾病ニ就テハ容易ニ適中ヲ期スヘカラサルノミナラス適当ノ時期ニ於テ之ヲ使用スルコト能ハサル等ニ依リ完全ニ治療ノ効ヲ奏センコトハ至難ナルヘシト雖幸ニ其推測適中シ且適当ノ時期ニ使用シタリトセンカ効能書ニ記載セル病症ニ関シ相当ノ効能アルヘキモノタラサルヘカラス単ニ無害ヲ目的トシテ配伍ノ主薬カ効能書ニ記載シタル病症ニ関シ殆ント何等ノ効能アルヘシト認メ難キ売薬ヲ免許スルカ如キハ法ノ精神ニ反スルモノト存候……」

(7) 製薬事業の奨励

政府は日本薬局方の編纂事業の進捗状況をにらみながら、製薬企業の育成策をとつてきたものの、期待された成果をあげえなかつた。第一次世界大戦の勃発(一九一四年、大正三年)により医薬品の輸入が杜絶して欠乏し、価格は暴騰し、医療界に少なからざる混乱を与えた。そこで政府も手厚い保護政策を実施し、ここに製薬事業は興起の絶好の機会に恵まれて隆盛に向かい、極めて活況を呈するに至つたが、その基礎が未だ充分確立されないうちに第一次世界大戦は終り(一九一八年、大正七年)、再び先進国から流入してくる医薬品の重圧を受けて沈滞に陥つた。これを機に、海外から需要の多い医薬品を輸入して国内で売りさばく薬種貿易商が発達し、医薬品問屋として確固とした地位を築くのである。

(四) 医薬制度の整理期

(1) 薬剤師法の制定

薬剤師に関しては、先に薬品営業竝薬品取扱規則により規定されていたが、大正一四年(一九二五年)四月制定の薬剤師法により新しく規定し直されることとなつた。これにより薬剤師は医師、歯科医師又は獣医の処方箋により調剤をなす者をいい、薬品の製造・販売をもなしうるとされ(一条)、薬剤師には一定の資格を有する者で内務大臣の免許を受け、薬剤師名簿に登録を受けるべきものとされ(二ないし四条)、その他薬剤師に関する地位と職責はより一層明らかにされたのである。

(2) 売薬法の制定

明治一〇年の売薬規則は、時間の経過と共に幾多の不備欠陥が認められる上、法文も明確を欠く憾があつたので、大正三年(一九一四年)三月売薬法が制定され、同年一〇月から施行されることになり、先の売薬規則が廃止された。これは、売薬営業者は売薬毎に方名、原料品名、分量、調整の方法、用法、用量、効能を記載して地方長官の免許を受けることとし、日本薬局方収載外原料品を使用する者はその見本品を提出することが義務づけられ(二条)、売薬には毒劇薬及びその性状又は配伍の結果により危害を生ずるおそれのある薬品を使用することを原則的に禁止し(四条)、売薬の原料品が日本薬局方収載品のときは、その定める性状、品質を、収載外品のときは、二条の見本品と同様の性状、品質を具備することとされ(五条)、売薬の効能に関しては免許を得た事項を説明する外誇張な宣伝が一切禁止され(八条)、地方長官は衛生上危害を生ずるおそれがあると認めるときは、売薬営業者に対し免許事項の変更命令をだせるようになり(一〇条)、売薬営業者が同法若しくは同法に基づいて発する命令に違反したようなときは、地方長官はその免許をも取り消すことができ(一一条)、行政官庁は、売薬の調製・販売場所の臨検又は売薬の検査を(一二条)、試験の用に供するために必要な分量に限り売薬又はその原料品を無償で収去せしむることを(一三条)、いずれも当該官吏をして可能ならしめる等の重要な内容を含むものであつた。

こうして、大正末期までにわが国の医薬制度は一応整備完成され、従つて薬務行政の重心も制度の整理確立から漸次これらの諸制度の運営の適切を期する方向に移つた。

(3) 第四改正及び第五改正日本薬局方の制定等

第三改正日本薬局方制定後、数次の改正が行なわれたが、医学及び薬学の進歩に伴い、殊に第一次世界大戦の影響によつて大改正の必要が認められ、数年にわたる調査を終え、大正九年(一九二〇年)一二月一五日内務省令第四四号をもつて第四改正日本薬局方が公布され、翌年四月一日より施行された。

その後も時の経過とともに、学術の進歩に伴い新薬、新製剤の製出は益々多くなり、薬局方の根本的改正を促進する結果となり、昭和七年(一九三二年)六月二五日内務省令第二一号で第五改正日本薬局方が公布され、同年一〇月一日から施行された。

続いて、日本薬局方調査会官制が昭和一〇年(一九三五年)九月勅令第二七四号をもつて新たに改正公布された(同時に従前の明治三九年三月勅令第五三号日本薬局方調査会官制は廃止された。)が、その三条において「委員及臨時委員は内務大臣の奏請に依り関係各庁高等官及学識経験のある者の中より内閣に於て之を命す」と規定された。

(4) 製薬事業の発展

満洲事変(昭和六年、一九三一年)、支那事変(昭和一二年、一九三七年)と相次いで勃発するに及び、一般景況の好転と軍需要の増大によつて、製薬事業はここに三度発展の機会に恵まれた。支那事変をめぐる国際情勢の緊迫化に伴い、国内体制も平時体制から準戦時体制に切替えられ、医薬品の国内充足の要請は切実の度を加えるに至つた。

(5) 薬務行政の厚生省移管

a 厚生省誕生

満洲事変は宣戦布告なき戦争の支那事変へと発展し、軍部の台頭とともに政党内閣は影をひそめ、政治の推進力は既に軍部の手に移つていた。そして総力戦体制が次第にとられようとしていたが、経済不況ははげしさを増し、軍の基盤とみられていた農村の疲弊はひどく、ここに軍部が国民の体位向上に熱を入れることになり、紆余曲折を経て昭和一三年(一九三八年)一月一一日厚生省が新設された。その趣旨は内閣総理大臣の声明にあるとおり、国民体力の向上及び国民の福祉増進のためとなつているが、当時進行中の支那事変を遂行し勝ちぬくという大目標が先行していたことは否めなかつた。

b 薬務行政の厚生省移管

そして厚生省に設置された衛生局が薬務行政を司ることになり、内務省衛生局から移管されることになつた。

(6) 統制期の薬務行政

昭和一四年(一九三九年)一二月独ソ戦の開始によつて時局はいよいよ緊迫の度を増し、主要医薬品の生産対策が益々重要な課題となつた。ここにおいて、薬務行政の中心は監督取締りの行政面から生産行政に移行し、これに応じて厚生省に新たに薬品生産課と資材課が新設された。

(7) 価格の統制等

軍需物資の動員は物価の騰貴を招き、昭和一四年(一九三九年)九月から価格統制が実施された。

昭和一六年(一九四一年)二月には医薬品その他の衛生物資の現在高調査が実施された。

同年五月の厚生省令(医薬品等統制規則)に基づき、統制医薬品の生産配給の統制がしかれ、統制医薬品の対象は昭和一九年(一九四四年)に於ては第五改正日本薬局方収載医薬品三一五品目を含め三二七品目の多きに上つた。

(五) 薬事法(昭和一八年三月一二日法律第四八号)の制定

(1) 制定に至る経過

これまでのわが国の薬事法制は、薬品営業竝薬品取扱規則、売薬法、薬剤師法の三法を根幹としてきたが、医薬品の長足の進歩、医薬品の本来の性質よりくる複雑性、それが法の不備と医薬品の進歩に伴つて更にその度を増したこと等により、その適正な運用を期し難くなり、その改善は急務とせられたが、薬事制度の改正には必ず医薬分業の問題が随伴し、この問題は医師及び薬剤師の利害に直接関係があるのみならず、多年両者の間の紛争の焦点となつたため、なかなか手を触れることが困難であつた。

しかし、満洲事変以来の情勢の変化は医薬制度に関する抜本的改善の機運を醸成せしめ、結局前記三法を廃し、昭和一八年三月一一日法律第四八号をもつて薬事法(以下「旧々薬事法」又は「昭和一八年薬事法」という。)を公布するに至つた。

(2) 旧々薬事法制定の趣旨及び目的

旧々薬事法制定の趣旨は、厚生大臣のなした提案説明によると、要旨「大東亜戦争を完遂するには国民体力の向上、人口の増強を図り、以て国力の根基を培うことが喫緊の要務であるが、この為に、国民医療と医薬品の供給その他薬事衛生に関し適正を期す必要があるところ、従前の関係法律は時局の要請に沿わないきらいがある。そこで所期の目的を達成する為に薬事法を制定したい。」というのである。

そしてその一条で「本法ハ薬事衛生ノ適正ヲ期シ国民体力ノ向上ヲ図ルヲ以テ目的トス」ると定めた。

(3) 旧々薬事法の骨子

同法は、薬事に関する人的要素と物的要素に関する規定を設け、総合統一している。

従前の薬品と売薬との区別を撤廃したのに伴い、両者を包括する観念として「医薬品」なる文字を用いた(二条、二二条等)。従来薬事関係法令においては主として「薬品」という文字を用いていたが、売薬なるものをも認めており、その外に薬物、売薬部外品等の観念をも設けていた。最初はこれらの区別も明らかなものがあつたが、化学の進歩に伴い、医薬品はいよいよ複雑多岐にわたつたため、次第にその間の区別が不明となるに至り、従前の区別が不適となつた。その反面、工業薬品の発達をみ、農薬も発達してきたので、「薬品」を従前のように狭義に用いることも不適となり、ここに「医薬品」という文字を使用するようになつたのである。

(4) 医薬品と監督に関する規定

医薬品の製造業者は主務大臣の許可を受くべきこととされ(二二条一項)、医薬品の性状、品質を適正ならしめるため薬剤師を置くこと(同条二項)、その他医薬品の製造の設備及び管理、製品の封緘等製造に関し必要な事項を命令で定める(同条三項)とされ、これらの規定は医薬品の輸入販売業又は移入販売業にすべて準用され(同条四項)、販売業者は地方長官の許可(二三条)を要するものとなり、主務大臣は局方を定めたときは日本薬局方に収載することを要し(二五条)、日本薬局方収載医薬品はその性状、品質が薬局方所定に適台しなければ製造、販売等はできないし(二六条)、収載外医薬品は、容器等に名称、成分、分量、成分不明のときはその本質、製造法の要旨を記載することが義務づけられ(二七条)、効能に関しての誇大広告も禁じられ(二八条)、主務大臣、地方長官は、保健衛生上特に必要ありと認めた時は医薬品製造業者・販売業者等に対し必要な指示をなすことができ(三〇条)、二六条違反の医薬品又は保健衛生上危害を生ずるおそれのある医薬品は廃棄することができるし(三一条)、必要に応じて製造・販売業者らから報告を徴し、又は当該官吏をして工場、事務所等の臨検、医薬品・原材料の検査、試験用の分量の収去をなさしめることができるし(三二条)、製造業者等に不正行為があれば主務大臣は許可を取消し、又は業務停止を命ずることができる(三三条)とされた。その施行規則(厚生省令第四〇号)によれば、製造業許可申請書には、製造の品目(五〇条二項二号)、日本薬局方収載外医薬品の場合は成分、分量、製造法の要旨、成分不明のときはその本質、製造法の要旨、効能、用法、用量(同条項三号)の記載が義務づけられ、許可に関し厚生大臣が必要と認めたときは、医薬品又はその原料品につき見本品の提出を命じることができるし(五三条)、その許可に条件又は期限を付することもでき(五四条)、厚生大臣又は地方長官が、医薬品製造設備に関し保健衛生上危害を生ずるおそれがあると認めたときは、その修繕もしくは改造を命じ又はその全部もしくは一部の使用の制限もしくは禁止さえすることができ(六三条)、厚生大臣は日本薬局方収載外医薬品につき性状、品質の適正を図るため特に必要と認めたときは、名称、成分、分量、その他必要事項を定めることができ、これを定められた医薬品は公定医薬品と称せられ、その所定に適合するものでないと製造・販売等はできず(八六条)、厚生大臣又は地方長官は保健衛生上特に必要と認めたときは、医薬品の製造業者等に対し、医薬品につき、指定した者の検査を命ずることもでき(八七条)、地方長官は医薬品に関する広告が著しく不適当と認めた時はその収去を命ずることもできた(一〇三条)のである。

そして、右規則五〇条二項三号の効能、用法、用量については、所謂新薬に属するものは相当の実験報告を具する旨の厚生次官通牒(昭和一八年一〇月三〇日厚生省発衛第一二〇号)が発せられた。

(六) 戦後の薬務行政

(1) 終戦直後

昭和二〇年(一九四五年)八月第二次世界大戦は終り、薬務行政については既に昭和一七年(一九四二年)に設置された薬務課と終戦直後設置された製薬課が衛生局の所管の下にそのまま受けつがれ、薬業全般にわたる復興と取締りに当ることとなつた。

(2) 昭和二三年(一九四八年)

関連諸産業の復興の気運に即応して、医療品産業についても原材料は勿論、資金、動力等のあらゆる方面より生産達成の為の指導育成が行なわれた。又、薬務行政は、急速にその重要性が内外あらゆる方面より認識されてきた結果、官民一致の要望により、昭和二三年七月医務局より独立して薬務局の設置をみるに至つた。

同年七月二九日には懸案の薬事法(昭和二三年法律第一九七号、いわゆる旧薬事法、以下「昭和二三年薬事法」ということもある。)が公布施行された。

(七) 薬事法(昭和二三年法律第一九七号)の制定

(1) 制定の趣旨

第二次世界大戦の終息と同時に、民主主義の復活強化が高らかに謳歌され、法制上は旧憲法が廃止され、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を三本柱とした新憲法の制定(昭和二一年(一九四六年)一一月三日公布、翌年五月三日施行)でその基本が定められた。戦後の民主化の過程で、一切の法律について再検討がなされたが、昭和一八年薬事法もその例外ではなかつた。一方、連合軍総指令部も、アメリカの薬事法制にのつとつた改正を示唆した。その結果昭和二三年薬事法が制定されるに至つたのであるが、その主な理由は

① 終戦後における社会諸制度の民主化的傾向に鑑み、薬務行政・薬事制度でも運営の民主化を図ることは緊要であり、戦時的な統制行政の枠を外し、薬業界の自主的な活動を促すことは経済再建にとつても不可欠の条件であつたこと。

② 新憲法の施行に伴い、広汎な委任立法の改正が要請されていたところ、昭和一八年薬事法においては命令への委任事項が相当数存していたこと。

③ 不良医薬品等が横行するに至つた原因の一半は昭和一八年薬事法の取締規定の不備にあるところ、新憲法により公衆衛生の向上及び増進に努めるべきことが国家の最高責務の一つとされていたことから、取締りの完壁を期すことは刻下の急務であつたこと

の三点にあつた。

(2) 旧薬事法(昭和二三年薬事法)の内容

a 目的

同法は、「薬事(医薬品、用具又は化粧品の製造、調剤、販売又は授与及びこれらに関連する事項)を規整し、これが適正を図ることを目的とする(一、二条。)」と定めている。薬事を保健衛生的見地から規整し、以てその適正な運営を図ることは、憲法によつて、国民に保障されているところの健康で文化的な生活を営む権利を確保し、公衆衛生の向上及び増進を図るための必須の条件であると思われる。

b 医薬品の定義

医薬品についてもはじめて二条四項で定義規定が設けられた。それによると左のとおりである。

「この法律で医薬品とは、左の各号に掲げる物をいう。但し、用具を除く。

一 公定書に収められたもの

二 人又は動物の疾病の診断、治ゆ、軽減、処置又は予防に使用すること

が目的とされているもの

三 人又は動物の身体の構造又は機能に影響を与えることが目的とされているもの(食品を除く)

四  前各号に掲げるものの構成の一部として使用されているもの」

更に、二条五項では新医薬品についても、「その化学構造式、組成又は適応が一般には知られていない医薬品をいう。」と定義した。その趣旨とするところは、薬学的知識を有する専門家の間に於て、未だ一般的承認を得ていないような物を医薬品として濫りに製造され、発売されるならば、保健衛生上恐るべき危害を生ずるおそれもあるので、かかる物を新たに医薬品として製造し、販売するには、先ず薬事委員会の専門家の間における当該物質の医薬品としての性状、品質の確認を経させ、然る後、厚生大臣の製造許可を受けなければならぬという規定を設けていること(一〇条一項三号、二六条四項)に鑑みてのことである。

c 公定書

公定書とは、薬事委員会から提出された日本薬局方、国民医薬品集又は、これらの追補の原案に基づいて、厚生大臣が日本薬局方、国民医薬品集又はこれらの追補として、公の権威を以て公布した書物の総括的な名称である(二条八項)。従来は、日本薬局方は省令の形式を以て、又、公定医薬品は省令に基づく告示の形式を以て定められていたのであるが、昭和二三年薬事法によつて、欧米諸国におけると同様に、出版物の形式を以て発行されることとなつた。

d 薬事委員会

公定書の改訂・追補に関して原案を作成したり、新医薬品その他薬事に関し厚生大臣に建議することを目的として薬事委員会が設置され、大きな権限が付与された(七条ないし一九条)。(後の法律改正(昭和二四年五月三一日法律第一五四号)で、昭和二四年六月一日から薬事委員会の名称が薬事審議会と改められた。)

又、先の昭和一〇年勅令第二七四号日本薬局方調査会官制は廃止され(六一条)、薬事委員会に設けられた公定書小委員会で、公定書即ち日本薬局方及び国民医薬品集並びにそれらの追補に関する原案を厚生大臣に提出することとなつた(一〇条)。しかも薬事委員会は少なくとも一〇年毎に薬局方の改訂の原案を、少なくとも二年半毎に、その追補の原案を、厚生大臣に提出することが義務づけられた(一六条)。

e 医薬品に関する規整

医薬品の整造業者は製造所毎に厚生大臣の登録を受けるもの(二六条一項)とされ、公定書収載外医薬品(以下「公定書外医薬品」という。)の製造は品目毎に厚生大臣の許可を要する(同条三項)。これは、医薬品にして基準に関する一般的な定のないものの製造を自由に放任するならば、保健衛生上危害を生ずるおそれがあるので、その製造せんとする品目毎について充分に検討した上で、その製造の許否を決定しようとする趣旨に基づく。

厚生大臣が新医薬品その他公定書外医薬品について前項の許可を与えるには薬事委員会の建議に基づいてしなければならない(同条四項)。これは、その公衆衛生上に占める医薬品の重要性に鑑みて、更に慎重を期したものである。

医薬品製造業者は医薬品製造管理のために、製造所毎に専任の薬剤師を置くことが原則的に定められ、特に生物学的製剤等の製造業者は、その製造管理のために、製造所毎に専任の医師その他細菌学的知識を有する者を置くことが義務づけられた(二七条)。これは、医薬品の効果の的確を期するために、その純良を保持することが最も肝要であり、これがためには、製造に当り技術的に万全の措置を講ずる必要があるからである。

医薬品製造業に関する規定は輸入販売業に準用される(二八条)。これは、輸入して発売する業態は、外国において製造された物を、わが国において発売するのであるから、普通の販売業とは異なり、製造業に極めて近い業態といえるからである。

医薬品販売業者は都道府県知事の登録を要し(二九条)、厚生大臣は、医薬品の強度、品質、純度の適正を図るために、公定書として日本薬局方、国民医薬品集又はこれらの追補を発行、公布しなければならず、公定書収載医薬品(以下「公定書医薬品」という。)は、強度、品質、純度が収載基準に適合しなければ製造、販売、輸入等が禁じられ(三〇条)、公定書外医薬品は、厚生大臣の前記許可基準に達しなければ、製造、輸入、販売等が禁じられ(三一条)、アミノフエニルスルフアミド若しくはその誘導体、ペニシリンその他の抗菌性物質又はこれらの製剤等は、厚生大臣の定める最小含量若しくは最小包装単位に関する基準又は厚生大臣の定めるその他の基準に適合するものでなければ製造、輸入、販売等が禁止され(三二条)、厚生大臣の指定した医薬品は、厚生大臣の指定した者の検査を受け、かつ、合格したものでなければ、販売、授与等してはならないとされた(三三条)。

この法律に基づいて製造する医薬品の名称、製造方法、効能、効果又は性能に関しては、何人も虚偽又は誇大な記事を広告したりすることが禁じられた(三四条)。

毒薬、劇薬については定義規定がおかれ、「人又は動物の身体に、これが摂取され、吸入され又は外用された場合に、極量が致死量に近いため、蓄積作用が強いため、又は薬理作用が激しいため、人又は動物の機能に危害を与え、又は危害を与える虞がある医薬品であつて、厚生大臣の指定したものをいう。」(二条一二項とされ、その標示方法が規定された(三五条)ほか、封かんを施した容器に収めなければならず、薬剤師である医薬品製造業者、輸入販売業者等でなければ、封かん又は容器を開いて販売、授与ができないし(三六条)、毒薬、劇薬の販売授与は文書にその品名、数量、使用目的、譲渡日時、譲受人の氏名などを記載することが原則的とされ(三七条)、一四才未満の者には交付を禁止され(三八条)、業務上毒薬、劇薬を取り扱う者は、他の物と区別し、鍵を施した上で貯蔵、陳列すべきものとされた(三九条)。毒薬・劇薬については、従来はただ単に厚生大臣がその品目を指定することによつてのみ、その範囲を定めていたのであつて、かかる指定の根拠が何であるかは法律上は明瞭でなかつた。それを、この法律により明瞭にしたのである。

不良医薬品を定義して、概略以下のように規定している(四〇条)。

全部又は一部が、不潔な物質又は変質した物質等からなる医薬品や、保健上危険なものにされるおそれがある非衛生的条件の下で製造等された医薬品その他(一号)

公定書に収められた名称を表示していながら、その強度が公定書で定められた基準と異るか、又はその品質若しくは純度が公定書で定められた基準に及ばないもの(二号)

前号に掲げる医薬品以外の医薬品であつて、その強度が当該医薬品の表示書の表示と異るか、又はその品質若しくは純度が、これに及ばないもの(三号)

品質若しくは強度を減ずるために、不当に他の物を混ぜ、若しくは他の物で包まれているか、又はその全部若しくは一部が他の物で代用されているもの(四号)

又、不正表示医薬品を定義して、概略以下のとおり規定している(四一条)。

表示書に、虚偽の事項又は誤解を招くおそれがある事項が記載されているもの(一号)

公定書に収められた医薬品であつて、公定書で定める容器又は被包に収められていないもの(三号)

公定書に収められていない医薬品であつて、その標示に砒素、水銀、ストリキニーネ又はこれらの誘導体等を含有しているときは、その効力の有無にかかわらず、それらの名称及び分量又は割合の記載のないもの(四号)

その標示又は表示書に、この法律により表示するように定められた文字その他の事項が、見易い場所に明記されていなかつたり、一般に購入、使用する者が読み易く、理解し易いような用語で記載されていないもの(五号)

人に使用する医薬品であつて、バルビタール、スルホナール又はこれらの誘導体若しくは代用合成品であつて、習慣性があるとして厚生大臣が指定する物質を含有しているにもかかわらず、その標示にこれらの名称、分量及び含量並びに「注意―習慣性あり」の記載がないもの(六号)

厚生大臣の指定するアミノフエニルスルフアミド若しくはその誘導体、ペニシリン、ストレプトマイシン又はこれらの製剤その他の医薬品であつて、その標示に医師等の処方せん又はその指示によつて使用すべきである旨の注意が記載されていないもの(七号)

表示書に、使用上の適当な注意、疾病の状況により、又は幼児にとり、保健上危険を生ずるおそれがある場合の使用に関し、又は危険な使用の分量、方法若しくは使用期間に関し、公衆保健の保護のために必要な注意が記載されていないもの(八号)

厚生大臣により、変質・変敗し易い医薬品と認められたもので、保健上の必要により定められた方法で包装・貯蔵がなされず、又は注意事項の表示がないもの(九号)

他の医薬品と誤解され易い容器に収められ又は模造若しくは詐称の医薬品(十号)

表示書に記載されている用法、用量又は使用期間が保健上危険であるもの(十一号)

f 監督事項

厚生大臣又は知事は、必要に応じ医薬品製造・販売業者に対して、その医薬品の検査を受けるよう命じることができる(四五条)。これは昭和一八年薬事法の施行規則八七条に規定されていたものと同一趣旨の規定であり、対象が新たに拡大された点が違うだけである。

厚生大臣は医薬品製造業者・輸入販売業者等について、知事は医薬品販売業者等について、この法律又はこの法律に基づく省令に違反したときは、登録を取り消し、又はその業務を停止させることができ(四六条)、厚生大臣又は知事は、製造設備が非衛生的である等の理由で医薬品製造業者・販売業者の設備・家屋の修繕、改造や使用の制限・停止を命じることができる(四七条)。

更に、不良医薬品等の廃棄を命じたり(四八条)、必要な報告を徴し、当該官吏をして立ち入り、検査し、検査用に医薬品等を無償で収去させることができ(四九条)、その為の吏員として薬事監視員を置くこと(五〇条)としたのは、大体従来の通りである。

後の法律改正で、四六条三項に基づく登録の取り消し、業務の停止命令をするときは、予め処分の相手方又はその代理人の出頭を求めて、公開による聴聞を行なわなければならないとし、その具体的方法が定められ、被処分者側の権利擁護の手続が整備された(四六条の二)。

g その他

厚生大臣は、保健衛生上特に必要があると認めるときは、医薬品製造業者等の登録について、薬事委員会の建議に基づき、これらの者が有すべき設備、施設、資格等の基準を定めることができるし(五二条)、必要と認めるとき、又は薬事に関係のある者から要求があつた場合において、その要求が正当と認めるときは、この法律の規定に基づいて発する命令の制定又は改廃について公聴会を開かなければならない(五三条)ことになつた。

勿論、この法律の遵守を担保するために、種々の罰則規定を設けている(五六ないし五九条)。

(3) 公定書外医薬品に関する規制

a 旧薬事法施行規則による規制

なお、同規則(昭和二三年八月一五日厚生省令第三七号)は、公定書外医薬品の製造許可申請書には、品目の成分、分量、製造法、成分不明のときはその本質及び製造法、用法、用量、効能等を記載することを義務づけ(二二条四、五号)、必要に応じて厚生大臣は当該医薬品の見本品の提出を求めることができる(二五条)旨を定めた。勿論、これらの規定は、医薬品の輸入販売業にも準用される(二六条)。

b 行政指導による規制

昭和二四年八月四日薬発第一三七二号薬務局長通知により、公定書外医薬品許可に当つて薬事審議会で審査をする場合には、その品目の内容につき調査研究するため、製品の見本、製品に関する文献の写、製品に関する実験例(少なくとも二か所以上の実験報告)の資料提出が義務づけられた。

更に昭和二五年九月二六日薬発第六〇〇号薬務局長通知により、公定書外医薬品輸入販売許可申請にあたつては、新医薬品については特にその内容が判明し得る様に文献、臨床実験成績又は該品目について詳細に説明する文書を添付せしめるよう義務づけられた。

c 包括建議

ところで先に述べた旧薬事法二六条三項の規定によつて厚生大臣が行なう公定書外医薬品の製造許可について、その医薬品が一定の場合は厚生大臣は同法四項の規定に基づく薬事委員会(後の薬事審議会)の建議を個々に求めることなく許可を与える運用が内部的に定められ、その範囲は昭和二三年から二五年にかけて次第に拡げられてきた。これが所謂包括建議とよばれているものであるが、その場合を具体的に列挙すると以下のとおりである。

「① 公定書医薬品を主な有効成分とする製剤で従来之に類するものが存在し効能その他の内容が適当なもの

② 主な有効成分が、既往に許可を受けた公定書外医薬品よりなる製剤であつて、従来これに類するものが存在し、効能その他の内容が適当なもの

③ 有効成分が公定書医薬品及び既往に許可を受けた公定書外医薬品よりなる製剤であつて、従来これに類するものが存在し、効能その他の内容が適当なもの

④ 薬事法に基づいてその内容についての基準が定められているもの

⑤ USP(アメリカ薬局方)、BP(イギリス薬局方)、ドイツ薬局方、スイス薬局方、フランス薬局方、USP註解、NF(ナシヨナル・フオーミユラリイ)、NNR(ニユー・アンド・ノンオフイシヤル・レメデイズ)に収載されている医薬品

⑥ 政府貿易により輸入したもの

⑦ 普通知られている生薬

⑧ アメリカ、ドイツ、スイス、フランス、イギリス等において、既に製造販売されている有名医薬品で効能その他の内容が適当なもの

但し、効能が結核、癌その他難治の疾病に用いる医薬品についてはこの限りでない。」

しかし薬事審議会(前記のとおり、昭和二四年六月一日から薬事委員会の名称が改められたもの)は、法改正(昭和二六年六月一日法律第一七四号)により、昭和二六年六月以降厚生大臣の諮問機関としての性格を有するようになり(改正後の一三条で「厚生大臣の諮問に応じ、薬事(薬剤師国家試験に関する事項を除く。)並びに毒物及び劇物の取締に関する重要事項を調査審議させるため、厚生大臣の監督に属する薬事審議会を置く。」とされた。)、旧薬事法二六条四項は削除されたため、包括建議もその存在意義を失つた。しかしながら、厚生省薬務局における運用は従前同様になされており、右の包括建議の基準に合致するものは、薬事審議会に諮問されることなく、実際上は担当の製薬課課長の最終的判断で公定書外医薬品の申請の許可が決せられていた。(この運用の実際については、被告国も「右包括建議は、昭和二六年機構変更により薬事委員会が諮問機関になり、必要的建議の制度そのものが失われたことから、法的な意義を失つた。ただ、実際には、その後も、医薬品の審査基準に関する昭和四二年基本方針が定められる頃まで、引き続き包括建議に準じた取扱いがなされてきた」旨主張(被告国最終準備書面・その二)している。)

(八) 旧薬事法下におけるその他の薬務行政の例

〈証拠〉によれば、旧薬事法下におけるその他の薬務行政例として目をひくものが、次のとおり認められる。

(1) 学術調査班の設置

昭和二五年(一九五〇年)厚生省薬務局製薬課内に新しく学術調査班を設置し、内外の新医薬品、新製剤及びそれに関連する諸事項に関する情報並びに文献を調査整理し、それに基づいて時機に応じた、より適切な行政をなし、併せてこれら事項についての広報により斯界の便を図ることになつた。

(2) チビオンの製造許可の例

新結核薬チビオン即ちチオアセタゾンについては昭和二五年(一九五〇年)七月四日の第一三回新医薬品小審議会で、これまでだされた文献並びに臨床例について審議されたが、皮膚症状、不快感、白血球の減少等の副作用が問題となり、副作用と毒性についての基礎的研究不足の理由で審議保留となり、同年九月一四日の第一四回会合では、急性毒性と慢性毒性に関する中間報告がなされたが、なお動物実験も臨床試験の結果も相当問題があり慎重を要するとされ、東京大学附属病院外七か所に臨床試験を依頼することになつた。昭和二七年(一九五二年)九月医師の直接指導下に服用する場合は有効との結論がえられ、同年一〇月二か年有余ぶりに製造許可がおりた。

(3) イソニコチン酸ヒドラジドの製造許可の例

新結核薬イソニコチン酸ヒドラジドが従来の抗結核薬に比し数十倍ないし数百倍の効果があるとの報道がアメリカより昭和二七年(一九五二年)二月もたらされて以来、製薬業界でも前記チビオンの適否論争と共に薬務行政の重大問題と化し、厚生省薬務局製薬課ではイソニコチン酸ヒドラジドに関する諸情報をまとめると同時に、薬務局発表をもつてその基本方針を表明し、結核新薬協議会の開催、厚生省結核療法研究協議会における綿密な協議事項に基づく研究、国立衛生試験所の協力を得て、国内における研究と中間発表、欧米諸国の状況等を勘案し、結核症のあるものに対する効果は期待し得るものがあり、毒性も大きなものは認められないとの結論をだし、薬事審議会の答申をもとに、昭和二七年六月その製造許可がおりた。

2 薬局方について

これまで幾度か日本薬局方について触れてきたが、ここで、薬局方及び公定書について第六改正日本薬局方(昭和二六年三月一日公布施行)を中心に、その概略をみておく必要がある。

〈証拠〉によれば、以下のとおり認められる。

(一) 薬局方の定義及び内容

薬局方は医療に供する医薬品について、その強度、品質、純度、貯法等を定めたもので、国家が制定し発行公布した基準書である。薬局方はもともと民間の処方集から発達したもので、時代の進歩とともに医薬品の規格の統一が社会生活上必要となつてき、一八世紀デンマークが薬局方を公定したのを皮切りに、各国で制定されるようになり、日本でも一八八六年(明治一九年)初めて日本薬局方が制定された。

薬局方は医薬品につき製造方法如何にかかわらず、最終製品の強度、品質、純度を一定にするために化学的、物理的又は生物学的方法によつて、その最低の規準を制定しているのである。特に第六改正日本薬局方(昭和二六年三月公布施行)以後の薬局方は、具体的には医薬品そのものの性質、即ち色、臭味、結晶形、溶媒に対する溶解度、液性、比重、旋光度、融点、屈折率等を先ず決定し、次に真贋を定める確認試験でそのもつ独特の化学変化、物理的性質又は鏡検したときの状態を規定している。ついで純度につき試験条項を決定し、その薬品の原料又は製造上よりみて、不純なものであれば当然含まれているべきものを化学的又は物理的方法で検索する規定を設定している。この規定は勿論不純物の有無及び不純物を含む場合は、その許容限度を定めて、精製の度合を調べ、その良、不良を知ることができるものである、

次に灰分、乾燥減量等を規定して、総体的見地から純、不純を調査し、更に定量法によつて、医薬品そのものの含量、有効成分の含量を測定して最後の断を下すべき規格からなつている。製剤類及び生薬について、特殊な立場から右に準じて制定されている。又、貯蔵中変化する医薬品については、詳細な規定をおいて純度の低下を防止している。更に、医薬品によつては常用量(医薬品が最も普通に用いられる場合に治療効果を期待し得る量で、別に規定するもののほか、大人に対する経口投与量を示す。詳細は後記する。)を定め、危険な薬品即ち毒劇薬には特に極量(通例、その量をこえては用いない大人に対する量で、別に規定するもののほか、経口投与量を示す。詳細は後記する。)を明示して、治療上における過誤のないように注意をしている。収載医薬品は現在主として治療上に使用しているものであつて、試験方法も確立し、効力が一般に認められているものについてのみこれを採用している。

(二) 薬局方制定の目的

まず純良な医薬品を供給し、病人が安心して治療を受け得るようにすることが第一の目的である。医療の給付は一般大衆を対象とし、医薬品は右給付の根幹をなすものであるが、医薬品に関する知識は専門的で、一般人にはその制定が困難なため、薬局方は厳重な規定を設けて製造者がこの規格に合致する医薬品を供給し、医薬品を取扱うべき任にある医師、薬剤師等が、いつでも試験を行ない、真贋、強度、品質、純度を判定出来るようにし、更に貯法を設けて貯蔵中における注意を怠つてはならぬようにしている。

次に、薬局方は精良な医薬品を規定して、その時代に即応したものを収録し、その基準を示すことを目的としている。薬局方収載医薬品は純良なもので、一般に治療効果を充分に認められた医薬品であつて頻用されているものである。従つて治療上支障ないまで(特殊の病状には別である。)に多岐にわたる医薬品が収録されている。医師が薬局方収載医薬品を充分認識して使用すれば、その時代の標準的の治療行為を完遂でき、更にこれを縦横に活用できれば、全く名医といわざるをえないとされる。

第三に、病人の金銭上の負担を軽減することを目的としている。薬局方収載医薬品は効力が確実であり、安価なものを選んである。薬局方の規格は効力に影響なく、安全な最低限の規格を設定しているため、製造上においても困難を伴わない限度となり、他の新医薬品の様な宣伝費も使用せず、製造者も多く競争するため必然的に安価になる。

第四に、薬剤師又は医師等の専門家の便を図ることを目的としている。確認試験、貯法、極量、常用量等の規定は、医薬品取扱者が寸時も忘れてはならない規定で、薬局方によつて裨益するところが大きい。

第五に、派生的目的として行政上の立場から医薬品製造上の指導、不良医薬品取締上の規準書として活用せられている。これらの面は各人各様に見解を異にする場合が多いので、不測の間違いも生じ易い。従つてこれを統一する必要から、薬局方は最も妥当なものであり、これを更に応用することによつて医薬品行政上の手引となる場合が多い。又これらの拠るべき基準を明確にすることによつてこそ、明朗な科学的行政の強みと深みとが生れるのである。

(三) 薬局方制定の方針

① 薬局方は医薬品の規格に関する書物であるから、一般化学書と異なり、その医薬品を医療上に使用した場合絶対に安心して使用できる最低の基準を保障する線を標準とし、なるだけ精良なものを、安価に供給する目的に充分応じられるように考慮して制定していること。

② 国産品の普及を図り、国内の需給関係を充分に精査して制定していること。

③ 各医薬品間の規格は各々独特のものであるべきこと。

④ 薬局方の試験規格は確実にして簡単なものをなるべく選用すること。

⑤ 薬局方の規格は科学の進歩発達を阻害してはならないこと。

⑥ 薬局方中の規定は正確なこと。

(以上の(一)ないし(三)の認定は、厚生省薬務局監修「薬事年鑑(昭和二六年版)」即ち甲第三二六号証によつた。)

(四) 国民医薬品集

昭和二三年薬事法は公定書として、薬局方のほかに国民医薬品集を定め、法的強制力は薬局方と同等に取扱つている。これは同法が主としてアメリカの法制を基本としているため、アメリカにおけるNF(ナシヨナル・フオーミユラリイ)を取り入れ、これと同じ性質のものを規定する趣旨にほかならない。国民医薬品集収載医薬品は、薬局方に本質的に準ずる医薬品、薬局方より除外されたが市場性が相当ある医薬品及び新医薬品にして規格の決定又は治療効果が今一応研究を要する医薬品を採用し、薬局方と同じ目的のために貢献することを主限としている。

国民医薬品集の初版は昭和二三年(一九四八年)九月公布されたが、早急に制定されたので、その規格及び内容とも完壁を期することができなかつた。初版の公布以来三回の追補を経て昭和三〇年(一九五五年)三月第二改正国民医薬品集が公布され、昭和三六年現行薬事法制定の結果日本薬局方に吸収されることになつた。

(五) 公定書収載の基準

公定書或いは日本薬局方に医薬品を収載するにあたつての基準は、その時々の科学水準に応じて若干の相違はあるにしても、概略以下のとおりである。

① 繁用されている医薬品

② 繁用されていないが、薬効が明らかで、治療上重要な医薬品

③ 治療上必要なもので、使用にあたつて危険を伴うおそれがあるから規格を一定する必要のある医薬品

④ 医薬品の製剤用原料

(六) 第六改正日本薬局方

第五改正日本薬局方は昭和七年(一九三二年)六月公布後長年月を経過し、その間満洲事変、第二次世界大戦等があつたため、部分的改正が度々行なわれ、一時戦時薬局方と称する時代さえあつたが、終戦とともに当然大改正の必要に迫られていたので、昭和二二年(一九四七年)五月日本薬局方調査会では第六改正に着手することを決め、USP(アメリカ薬局方)を参考にその作業に着手した。その結果昭和二六年(一九五一年)三月一日厚生省告示第三一号をもつて第六改正日本薬局方を公布施行することになつた。その収載品目を検討する過程で、昭和二三年(一九四八年)一〇月、幹事会においてキノホルムは削除品目の一つにあげられたが、最終的には第六改正日本薬局方にも収載されるに至つた。(尚、〈証拠〉により認められる以下の事実、即ち、厚生省では終戦後の困難な経済情勢下で医薬品のうち最も必要とされるものを選定し、これに生産の主力を注ぐとの観点から、昭和二二年九月重要医薬品二八一品目を試案として選んだが、キノホルムも抗原虫剤として、戦後南方から引揚げてくる人達が罹患している可能性のあるアメーバ赤痢に対処するものとして、それに含まれていたものの、これに意見を求められた医師会側はキノホルムを削除希望品目九四品目の一つに掲げていたことも、記憶されていてよい事実である。)

第六改正日本薬局方において、第五改正のそれに比し、実質的な内容の変化と認められるものは、薬局方適否の規準を中心として、その判定を最重点におき、この一環として通則(従来の凡例)、製剤総則、一般試験法を設定して万全を期していることである。又、各医薬品の規定は、基原、成分含量、性状、確認試験、純度試験、乾燥減量、灰分、定量法等の順序とし、最後に貯法、常用量及び極量を設けているが、極量の記載は最初の日本薬局方以来採用されて今日に至つているものの、常用量の記載は第六改正日本薬局方で初めて採られた措置である。

(七) 常用量及び極量の意味

(1) 日本薬局方(明治一九年六月二五日公布)で、他薬と区別し鎖閉すべき場所に貯蔵すべき毒薬を明示し、その場合は薬品の各条項貯法欄に「最モ注意シテ貯フヘシ」と記載すること、他薬と区別して貯蔵すべき劇薬を明示し、その場合は薬品の各条項貯法欄に「注意シテ貯フヘシ」と記載することとされ、更に大人に対する薬物一回並びに一日の極量も必要に応じて記され、医師はその処方の薬名上特に▽標を付しないと極量をこえて処分できないものとされて以来、この毒薬、劇薬、極量を明記する方法は第二改正日本薬局方(明治二四年五月二〇日公布)以後第五改正日本薬局方まで踏襲された(但し、第三改正日本薬局方(明治三九年七月二日公布)以降極量の注意標が「!」とされた。)。しかし、第六改正日本薬局方(昭和二六年三月一日公布)からは、製剤の意味が変えられたため、従来からとられていた毒薬、劇薬の区別を貯法欄で「最モ注意シテ」又は注意シテ」の表現によつて明らかにするのが困難になつて廃止され、毒薬、劇薬の区別は旧薬事法二条一二項に基づいて厚生大臣の指定する毒薬、劇薬表により各人が判定しなければならなくなつた。

(2) 厚生省出版の第七改正日本薬局方(昭和三六年四月一日厚生省告示第七六号)第一部通則(薬局方を運用するための原則となる規定で、薬局方全般に通用するもの。いいかえれば、薬局方を運用する上に必要な解釈を統一するための一般的な規定が掲げられているもの。)によれば、

「常用量とは、医薬品が最も普通に用いられる場合に治療効果を期待し得る量で、別に規定するもののほか、大人に対する経口投与量を示す。この量は、使用者の参考に供したものである。常用量の項で「用時、医師が定める」と記載する場合は、用時に医師、歯科医師または獣医師がその用量を定めることを意味する。」「極量とは、通例、その量をこえては用いない大人に対する量で、別に規定するもののほか、経口投与量を示す。医師または歯科医師がその量をこえて処方する場合には、処方せん中、医薬品分量に注意標!を明記しなければならない。」と定め、厚生省薬務局推薦財団法人日本公定書協会責任編集の第七改正日本薬局方第一部解説書は更に解説して、常用量につき「医薬品の使用量は、その適用を受ける患者の病気の症状はもとより体重、体表面積又は体質などによつても著しく異なるものであり、又医薬品の用法も単一でなく適応症によつても使用量を異にする。そこで常用量とは最も普通に用いられる場合に治療効果を期待し得る量ということになつている。……常用量は決して拘束規定ではなく、医師が患者の体質、症状などを勘案し自由に変更してさしつかえない量である。従来常用量は、点で割り切つていたが、なるべく最近の治療方針に準じて範囲をとり、一つの点に固定しない方針をとつている。……

常用量の決定については、現在医療の基準として用いられている治療指針、その他の基準を参考にして変更した。第二項は新しく設けられた規定で、たとえば麻酔剤などは常用量が決めにくいので医薬品各条において「用時医師が定める」として特に常用量を掲げないことになつた……」、極量につき「毒劇薬については、原則として、経口および注射の場合の極量を定めている。極量に対しては外国薬局方にも全く定義を定めたものがない。極量の定義は今回日本薬局方が初めて薬局方に採用したものである。極量の考え方としては二つの考え方がある。即ち、国際薬局方のように危険量とみるという考え方と、ドイツ・スイス薬局方あるいは従来の日本薬局方のように安全量の最大量即ち警戒量とみるという考え方とがある。しかし現在日本の治療上では、後者の考え方即ち一種の警戒量であり、その量を多少越えても直ちに危険量を意味しない量であるという考え方のほうが一般的であるので、この考え方に従つた。

第二項の極量超過の場合の注意標の明記規定は薬局方のみに定められてあるものであつて、薬剤師としては最も注意を要する事項であるが、同時にこれは処方せんを発行する医師又は歯科医師がこの条を厳守することが望ましい。なお、常用量及び極量に関して、国際薬局方は小児常用量及び小児極量を別に規定している。……日本薬局方においても、将来は小児用量は大人用量とは別項において掲げなければならないものと考えている。……」としている。

第六改正日本薬局方(昭和二六年三月一日公布)の第一部通則及びその解説書における解説内容も、常用量及び極量につき第七改正日本薬局方のそれと殆ど同じである。

四まとめ

これまで明治初年以来旧薬事法に至るまでのわが国における薬事法制の歴史とそれに根拠をおく薬務行政の概略をみてきたのであるが、これによると、右薬事法制の歴史は、医薬品の性状及び品質を確保し、これに違反する不良医薬品を取締るところにその動機があり、後法は前法より更に徹底した形で取締規定を整備してきたとの被告国の主張は、真実をついている面があるといわねばならない。

しかし、このことから「旧薬事法の立法趣旨及び目的は、適正な医薬品の供給を通じて公衆衛生の向上及び増進という公衆(国民全体)の利益を保護することにあると解すべきであつて、副作用のない医薬品の供給を受け得るという個々人の利益を保護することにあると解することはできない。」と結論づける被告国の主張には到底組することはできない。以下詳論する。

1 薬事法制の歴史の根底に一貫しているもの

旧薬事法に至る薬事法制は、前記のとおり医薬品製造業者や販売業者に対する国家の規制を定めたものであり、国家と医薬品の供給を受ける国民個々人との間の関係を直接定めたものではないが、右規制が段々と厳しさの一途をたどつてきたのは、医薬品が国民の生命・健康に直接関係する必需品であることから、天皇主権主義の旧憲法下でさえも、国民の生命・健康の保全こそが最も肝要なものとしていた視点の反映に外ならないと解される。医薬品についても業者の営業の自由に委ねていたのでは、国の根基が損われかねないから、薬事法制は、医薬品(旧々薬事法が制定されるまでは、薬品と売薬とは区別されて規制されていた。)をすべて国の監視監督の下においてきた。

その主目的として終始一貫してきたものは、不十分とはいえ、医薬品の規制即ち安全な医薬品の供給を通して公衆衛生の向上及び増進をはかり、以て国民の生命・健康の保全をはかることにあつた、ということができる。ここにおいては、事理の性質上当然のこととはいえ、公衆(国民全体)の利益と国民個々人の利益とは峻別されるべきものではなく、一体として把握されるべきものと観念せざるをえないのである。

勿論、右のようにいうことは、旧々薬事法(昭和一八年薬事法)が大東亜戦争完遂という至上目的の為に制定されたことからも窺われるように、国は明治以来国民に対し法律上の医薬品安全性確保義務を負つてきたと速断してよいというのではない。ここでは、旧薬事法前の薬事法制も、安全な医薬品の供給をはかるという点に深く配慮し、もつて国民の生命・健康を保全する目的を貫徹させてきたことを、当然のこととはいえ、確認することで十分である。

2 新憲法と国民の生命・健康の保全

人の生命・健康の保全が国政の中心に据えられるべきことは新憲法下の今日では自明のことである。

憲法は前文で「……そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである……」とうたい、一三条では「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と、更に二五条では「①すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と定めている。これらをふまえれば、基本的人権尊重主義を掲げた新憲法は、基本的・絶対不可侵なものとして国民の生命・健康の保全を国政の重要な目標と宣言したものといわなければならない。かかる観点からすれば、昭和三五年七月一五日に当時の厚生大臣渡辺良夫が厚生省二〇年史に序文を寄せ、そこで「昭和一三年一月一一日、厚生省が設置されたことは、当時進行中であつたいわゆる支那事変の要請によるものであつたにしても、厚生行政の指向する国民福祉の諸施策は、政治の根幹をなすものであり、この意味において同省が生れたことは、わが国の政治史上画期的なことがらであつたといつてもいいすぎではない……戦時下における厚生省の仕事は、どちらかといえば、戦争を遂行するために捧げられ、従つて国民の幸福の問題は第二義的なものとして取り扱われたきらいがあつたとみてよいであろう。

終戦後、厚生省は大きな変り方をした。戦争の激化とともに航空機の生産や労務の苛烈な動員に全機能をうばわれた観のあつた厚生省は、終戦後かつての戦争的性格を取り払い、労働の面を切り離して、国民福祉の行政の府としての本来の姿をとりもどした。すなわち憲法二五条が示す健康にして文化的な生活の維持発展のために生存権的基本的人権の保障が厚生行政の眼目となつた。今日の時点においてこれをみるならば、このことは一国の経済的発展という名目のもとに、厚生行政が従属的な地位を強いられるのではなく、むしろ逆に、厚生行政の充実、向上の線にそうて、他の諸施策がとられ発展させられなければならないことを意味するものである。……」(甲第一二〇号証の一、二)と述べている内容は、新憲法の目指す福祉国家の理念を余すところなくさし示しており、その一環としての薬務行政を遂行する責務を負う厚生省の責任は重大である。

そして、前記したとおり旧薬事法は新憲法の制定に伴つて旧々薬事法を改正したものであり、新憲法下における薬務行政の基本法規をなしていることからすれば、旧薬事法が被告国の医薬品安全性確保義務を肯定しているものかどうかを考えるに当つても、新憲法における右の精神を指導原理とせざるをえない。

3 生命・健康保全の権利思想――その世界的動向

(一) ヴアジニア憲法とアメリカ独立宣言

歴史上、成文憲法の嚆矢といわれているのは、一七七六年六月のアメリカのヴアジニア憲法であり、その権利宣言は内容においても典型的とされているが、その一条は、「すべて人は、生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有するものである。これらの権利は、人民が社会を組織するに当り、いかなる契約によつても、その子孫からこれを奪うことのできないものである。かかる権利とは、すなわち財産を取得所有し、幸福と安全との追求獲得する手段を伴つて、生命と自由とを享受する権利である。」と定めている。続いて同年七月四日、一三州の代表者からなる第二大陸会議は、全会一致で、歴史的なアメリカの独立宣言を可決したが、その中では次のように述べられている。

「われわれは、次のような諸原理は自明だと考える。すなわち、すべての人間は平等に造られ、おのおの造物主によつて、他人に譲り渡すことのできない一定の権利を与えられている。そうした権利のうちには生命、自由および幸福の追求が含まれている。そして、これらの権利を確保するために、人間のあいだに政府が作られる。政府の正当な諸権力は、被治者の同意にもとづくものである。どのような政治形態も、これらの目的を害するようになる場合は、それを変更し、または廃止し、彼らの安全と幸福を実現するためにいちばん適当と考えられるような原理に基礎を置き、また、そういう形式でその権力を組織して新らしい政府を作ることは、人民の権利である。以上の諸原理をわれわれは、自明のものと考える。」

このように、生命の保全と幸福の追求等の権利は、生来的かつ不可譲の権利、人間が人間らしくあるために是非とも具有すべき権利(日本国憲法の保障する各基本的人権のうちでも、最も基礎的なもの。)として、歴史にその一歩を刻したのである。

(二) 世界人権宣言

国際連合の第三回総会で、一九四八年(昭和二三年)一二月一〇日採択された「人権に関する世界宣言」(又は「世界人権宣言」)は、形式上法的拘束力はないとしても、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として公布されたもので、その進むべき道を示しているものとして、本件訴訟を考える上でも教訓的なものを含んでいるといわなければならない。即ち、本宣言は、その前文で、基本的人権の尊重、人身の尊厳及び価値等を確認し、「総会は、社会の各個人及び各機関が、……その世界的で有効な承認と遵守とを国内及び国際の漸進的措置によつて確保することに、この人権に関する世界宣言を常に念頭に置きつつ、努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この宣言を布告する。」と結び、具体的に「すべて人間は、生れながら自由で、尊厳と権利とについて平等である。……」(一条)、「何人も、生存、自由及び身体の安全を享有する権利を有する。」(三条)、「何人も、憲法又は法律が与えた基本的権利を侵害する行為に対して、権限ある国内裁判所による効果的な救済を受ける権利を有する。」(八条)、「何人も、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し、かつ、国家的努力及び国際的協力を通じ、また、各国の組織及び資源に応じて、自己の尊厳と自己の人格の自由な発展とに欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する。」(二二条)、何人も、衣食住、医療及び必要な社会的施設を含む自己及び家族の健康及び福利のために充分な生活水準を享有する権利並びに失業、疾病、能力喪失、配偶者の喪失、老齢、又は不可抗力に基く他の生活不能の場合に保障を受ける権利を有する。」(二五条一項)、「何人も、この宣言に掲げられている権利及び自由が完全に実現されうる社会的及び国際的な秩序を享有する権利を有する。」(二八条)等と三〇か条にわたつて規定し、人類の歴史上において見事な道標を築きあげた。この内容が画餅に帰すことのないよう、あらゆる部署、場面において努力を傾注すべきことに誰も異論はあるまい。ちなみにいえば、わが国が国際連合に加盟したのは、一九五六年(昭和三一年)一二月一八日である。

(三) WHO憲章

又、第二次世界大戦の末期になり、各国が解決を迫られるに至つた悪疫の流行、保健衛生施設の崩壊、体位の低下等の問題が、国際的に取上げられ、協議が積み重ねられた結果、一九四八年(昭和二三年)四月七日世界保健機関憲章が効力を発し、世界保健機関(WHO)は国際連合の専門機関の一として正式に発足したが、その憲章は前文で「この憲章の当事国は、国際連合憲章に従い、次の諸原則がすべての人民の幸福と円満な関係と安全の基礎であることを宣言する。

健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。

到達し得る最高基準の健康を享有することは、人種、宗教、政治的信念又は経済的若しくは社会的条件の差別なしに万人の有する基本的権利の一である。

すべての人民の健康は、平和と安全を達成する基礎であり、個人と国家の完全な協力に依存する。

ある国が健康の増進と保護を達成することは、すべての国に対して価値を有する。

健康の増進と疾病特に伝染病の抑制が諸国間において不均等に発達することは、共通の危険である。

児童の健全な発育は、基本的重要性を有し、変化する全般的環境の中で調和して生活する能力は、このような発育に欠くことができないものである。

医学的及び心理学的知識並びにこれに関係のある知識の恩恵をすべての人民に及ぼすことは健康の完全な達成のために欠くことができないものである。

公衆が精通した意見を持ち、かつ積極的に協力することは、人民の健康を向上する上に最も重要である。

各国政府は、自国民の健康に関して責任を有し、この責任は、充分な保健的及び社会的措置を執ることによつてのみ果すことができる。

これらの原則を受諾して、かつ、すべての人民の健康を増進し及び保護するため相互に及び他の諸国と協力する目的で、締約国は、この憲章に同意し、かつ、ここに国際連合憲章五七条の条項の範囲内の専門機関としての世界保健機関を設立する。」と定め、それらを実現するべく幾多の任務を規定している。わが国は一九五一年(昭和二六年)WHOの第四回総会において正式に加盟することが認められ、同年六月二六日右憲章は国内で公布された。

この憲章は、先にみた世界人権宣言と共に、人類の生命・健康の保全こそが絶対不可侵の、最も基本的な権利であるということの重要性を全世界に確認したものとして、意義深いものであるといわなければならない。

4 旧薬事法下における医薬品と国民とのかかわりあい

旧薬事法においては、医薬品の製造・輸入・販売業者が従来許可制とされていたのを廃止し、登録制にしたのであるが、医薬品は公定書医薬品と公定書外医薬品に二大別され、前者は登録業者であればそれに従つてその製造・輸入・販売ができ、後者であれば品目毎に厚生大臣のなす製造・輸入の許可(この許可は、法令による一般的禁止(不作為義務)を特定の場合に解除し、適法に、特定の行為をなすことを得しめる行為と解される。)が必要とされ、いずれの医薬品も、その公定書又は許可基準に適合したものでなければならず、これを業者に遵守させるべく、被告国は医薬品に対する検査命令、業者の登録取消・業務停止命令、製造設備の修繕命令、廃棄命令、立ち入り検査権等の強い権限を有し、違反に対しては刑罰をもつて臨んでいたのである。これを国民の側からみれば、国民は医薬品としては、一般的に被告国が公定したもの(公定書医薬品)か、被告国が製造・輸入を許可したもの(公定書外医薬品)しか供給を受けられない制度になつていたのである。即ち、すべての医薬品は、原則的に被告国の直接・間接の関与を経なければ、誰も製造・輸入・販売等ができないし、国民はそれを服用することができない仕組みになつていたのである。

5 公定書と医薬品の安全性

① 前記認定の、旧薬事法における公定書の占める位置、包括建議とその廃止後の行政運用実態、薬局方制定の目的・方針、第六改定日本薬局方以降常用量の記載が新たに設けられるようになつたこと

② 被告国が、「日本薬局方に収載されている医薬品は、……そのときどきの医学・薬学の最高水準の知識を総合してその品質および性状が定められたものといえるのであつて、……日本薬局方に収載された医薬品については厚生大臣の製造承認を要しないで製造許可が与えられるのも、まさしく右の理由に基づくものである。」とか、「日本薬局方に収められている医薬品が性状および品質ともにその当時の科学的水準によつていわば公認されている医薬品である。……

したがつて、キノホルムそのものは日本薬局方に収められている医薬品であるから、その有効性と安全性については、日本薬局方に収載された当時の科学的水準に基づいて既に公認されているのであり、その後においてキノホルムを含有する医薬品の製造承認(旧許可)の申請があつても、被告国が改めてキノホルムそのものの有効性と安全性の確認を負う義務はない。」(以上、昭和四八年八月二一日付被告国第一準備書面)とか、医薬品の審査方法につき厚生省のとつている方法を述べている件で、「日本薬局方に収載されている医薬品を有効成分とする医薬品については……当該医薬品の有効成分は日本薬局方に収載されていることにより既に有効性及び安全性が確認されているため、当該医薬品の有用性については、改めて審査しない。」(昭和五二年一月一七日付被告国最終準備書面一八三頁、一八四頁)等と述べていること

③ 〈証拠〉により、厚生省の製薬課における事務処理手続が被告国の右主張に沿う意識と実態で運用されてきていることが認められる事実

④ 〈証拠〉により、昭和四六年(一九七一年)四月制定の第八改正日本薬局方のキノホルムの項には、最後に「本品はスモンとの関連において疑いがあるので、昭和四五年九月八日以降、腸性末端皮膚炎等医療上特にやむをえない場合の用に供するほかは、販売を中止させているものである。」との記載が認められる事実

⑤ 昭和五一年(一九七六年)四月制定の第九改正日本薬局方からはキノホルムが収載されなかつた事実

等よりすれば、旧薬事法下における公定書医薬品は、その収載時において、斯界の最高権威者をもつて構成する薬事委員会(後の薬事審議会)の調査研究を経て、被告国がその医薬品の安全性と有効性を公認したものと解するのが相当である。

6 医薬品の製造等許可と医薬品の安全性

薬務行政の目的が、医薬品関連業者の利潤追求よりも、国民の生命・健康の保全という命題にあるとの当然の事理を見据えておけば、旧薬事法における公定書外医薬品の製造・輸入の許可(二六条、二八条)は、無害かつ有効な医薬品であるか否かを基準にしなければならなかつたことは言うをまたない。有害かつ無効なのは勿論、有害かつ有効、無害かつ無効な医薬品も本来許可されてはならないというべきである。先に三の1の(三)の(6)で述べたように、明治四二年(一九〇九年)四月の内務省衛甲第二九号衛生局長通牒を例にひくまでもなく、先に公定書外医薬品に関する規制(三の1の(七)の(3))で述べた内容、ひき続き論じた旧薬事法下におけるその他の薬務行政の例(三の1の(八))からもこのことは明らかであろう。

7 小括

(一)  ここで、今まで述べてきたことから、特に以下の点を要約し指摘することができる。即ち

①  旧薬事法に至るわが国の薬事法制は、医薬品が国民の生命・健康の保全に至大の関連を有することに深く意を払い、その観点から不良医薬品の取締りを次第に厳しくしてきたこと

②  生命・健康の保全こそは、人間存在の根基をなすものであり、憲法なかんずくその一三条、二五条は当然のことながら、その重要性を高らかにうたい、国政のあらゆる部面における指導理念であることを定めていること、又、二〇〇年も遡るヴアジニア憲法やアメリカ独立宣言を嚆矢として、世界人権宣言や世界保健機構憲章も右のことを規定し、それは世界的・歴史的動向であること

③  従つて、医薬品に関して、俗つぽくいえば、少なくとも新憲法下では医薬品あつての国民ではなく、国民あつての医薬品という当然の事理から、すべての規制は派生しなければならないこと

④  旧薬事法下では、一般的に公定書医薬品は登録業者であれば、それに従い、製造・輸入・販売等ができるが、公定書外医薬品はすべて厚生大臣の許可を得ないと、登録業者といえども製造・輸入はできず、従つて、被告国は公定書の公布及び製造・輸入の許可という形態をとつて、すべての医薬品をその管理下におく制度になつていたこと

⑤  従つて又、公定書医薬品又は許可を与えた医薬品の規格が、本質的に危険なものであれば、その純正医薬品による被害は広汎かつ甚大になるおそれがあり、その危険性は不良医薬品(旧薬事法四〇条は不良医薬品を定義しているが、その内容は前記した。)や許可基準に達しない医薬品に劣らず大きいものがあり、キノホルム中毒によるスモンの被害は、右のことを何よりも如実に物語つていること

⑥  旧薬事法二六条は、文理上は日本薬局方医薬品を有効成分とし、それに添加剤が加わつたような新医薬品であつても、品目毎に厚生大臣の製造等の許可を要するとしているのであつて(従つて包括建議方式が法律上当然のこととされているのではない。)、日本薬局方収載時とは別に、許可審査時点において、新たに有効成分たる日本薬局方医薬品の安全性と有効性についての被告国による審査を予定しているとさえ言い得るのであり、この審査を包括的に義務づけているのが、公定書小委員会による一定年度毎の公定書の追補、改定の厚生大臣に対する原案提出規定(一六条但し、改正後は三〇条)とも見うること

⑦  右のような医薬品に関する仕組みの下で、医薬品の安全性を吟味する知力も財力もない国民は、医薬品を直接供給する立場にある者(製造・輸入・販売業者)の医薬品安全性確保に関する配慮に信頼せざるをえないのであるが、今日の商品経済社会においては、供給者側の製薬企業は眼前の利潤追求に走るあまり、安全性確保に関する配慮を十全に果さないことがあるのではないかと懸念されるところ、キノホルム中毒によるスモンの被害は、右のことを何よりも如実に物語つていること、従つて、新憲法下にあつて、利潤追求の観点を全面的に捨象し、国民の生命・健康の保全に至高の存在意義を認めている被告国の薬務行政こそは、現代の護民官的役割りとして、医薬品安全性確保に関する配慮を、製薬企業のそれとは別の視点から遂行させ、もつて、医薬品の安全性確保について十全を期する契機となり得ること

⑧  現に旧薬事法は、業者に対する規制しか展開していないけれども、それは医薬品の安全性は業者に対する規制の方法が最も簡明かつ直截的であることの反映ともいえるのであつて、決して国民個々人が視野の外に置かれていることを意味するものではなく、ましていわんや業者の利益保護のみを主目的としたものとは到底解しがたいし、そして言うまでもなく既に述べた以外に、三二条ないし三九条の規制、四一条四・六・七号が、特定物質についてはその誘導体まで含めて規制する慎重な態度をとつていたり、四一条八・九・十一号が、保健上の観点を明示して規制していること、更に強い監督権限を有している(四五条ないし四九条)うえに、薬事監視員まで設置していること(五〇条)、厚生大臣は、必要と認めるときはこの法律に基づく命令の制定又は改廃について公聴会開催が義務づけられていること(五三条)、等をみてくると、旧薬事法は被告国に、国民個々人を視野の外に置き、業者に対する関係でのみこれらの権限を付与したと解するよりは、むしろその背景にしりぞいてはいるが、実質的には最重要である国民個々人の生命・健康の保全を目指してこれらの権限を積極的、かつ、適正に行使し、以て有害な医薬品による国民個々人の被害を防止すべく義務づけていたと解しうること

⑨  旧薬事法下における前記した学術調査班の設置(昭和二五年)等薬務行政の例も、医薬品安全性確保義務を背景にしてなされた最も基礎的な薬務行政の一つとみる方が、単なる権能を行使したに過ぎず、何らの法的義務をも背景にしたものではない(従つて、国民からみれば、一種の恩恵的利益を得たにとどまる、ということにつながる。)というより説得的であること

⑩  このような制度的枠組みの下で、国民個々人が、被告国の医薬品安全性確保に寄せる期待と信頼こそは極めて当り前のことであつて、この期待と信頼が損われ、それによつて薬害を被つたとすれば、その薬害は、損害賠償という方法による原状回復を正当化させること、換言すれば、損害を賠償すべき法的保護に値すると考える方が、それを否定する考えよりも正義衡平の観念に合致すること、蓋しそれは、被告国が右のような意味で法的責任を負うことは、国民全体が法的責任を負うことに外ならないが、薬害被害者は自らの被害により、より広汎な国民に対する被害を結果的には阻止し、消極的ではあつても他の広汎な国民に利益を与えているとも見うるのであり、従つて、その負担の公平を法律的に保障することは道理にかなつた道と評価することが可能、かつ、妥当といえるからであること

⑪  先に詳述したとおり、医薬品は疾病の治癒、軽減に有効な反面、本質的に副作用を多かれ少なかれ併有するものであるから、医薬品の評価は有効性と安全性との総合的な比較考量の上にたつた有用性の判断に依存せざるをえないことも否定しきれないが、このことは医薬品の有効性のみを重視する考え方(いわゆる「使つた、治つた、効いた」の三た主義)への警鐘ともいいうるものであること

⑫  医薬品が本質的に副作用を伴う「両刃の剣」的性格をもつているものであるということは、尽くすべき努力を尽くし、安全性確保の為の真摯、かつ、慎重な姿勢と実行とが先ず要請されることを意味しても、それらを放棄し、副作用が生じても仕方がないという無責任な姿勢とは全く無縁であること

(二)  以上のように、旧薬事法の規定そのものと法体系、薬務行政例、医薬品と国民とのかかわりあい、国民の被告国の薬務行政に対する期待と信頼、医薬品の特質等を総合的に考慮してくると、国家賠償法一条一項による責任を負う前提での被告国の医薬品安全性確保義務と、それを介して国民個々人の生命・健康の保全をはかるべき義務とは肯定されざるをえない。

8 被告国の主張に対する見解

(一) 被告国は公定書外医薬品の場合、製造許可にあたつての審査基準、審査手続及び審査機関並びに許可後における追跡調査制度及び許可後の撤回等に関して旧薬事法は規定を欠き、医薬品安全性確保のための積極的、具体的規定が見られないことを理由に、旧薬事法上の医薬品安全性確保義務がないことを論証しようとしている。

(二) 確かに、被告国が主張するように、右のような医薬品安全性確保のための積極的、具体的規定が見られないのはその通りであるが、それは旧薬事法が、医薬品の安全性を確保する見地からすれば、不十分としかいえないような規定しか用意していなかつたことを意味するに過ぎず、従つて規定の整備こそが政治的・行政的に要請されこそすれ、そのことをもつて法律上の医薬品安全性確保義務を否定するのは、木を見て森を見ず、とのそしりさえ受けかねない。逆に、審査基準や審査方法、追跡調査制度等が定めてなかつたことは、医薬品安全性確保基準や方法も、科学の発達に伴い進歩発展するものであるから、それらを限定することなく、その時々に応じたあらゆる知見を駆使して、それこそ時宜にかなつた適切な行政措置でその任務を遂行することに委ねたものと解することもできるし、許可後の撤回の制度が定められていないとしても、有害な医薬品が誤つて許可され、又は許可後に有害であることが判明した場合、被告国がその事態を放任、黙認すべきでないことは、有害医薬品によつて侵害される生命・健康という非代替的な絶対的価値と医薬品関係業者の経済上の利益という代替的な相対的価値という対比からも容易に理解できるところであるし、医薬品関係業者も国民の生命・健康の保全に貢献すべきことがその営利活動においても内在的に要求されていることに思いを致すと、右の理に反対できる筋合ではない。医薬品がそもそも国民の生命・健康の保全に貢献しうること、即ち有効、かつ、安全であることを存在理由としている以上、被告国の医薬品製造等の許可は、右の存在理由を内在的な条件にしているとさえ解されるのであるから、当該医薬品の安全性に疑惑がもたらされた場合、許可権者たる厚生大臣は安全性確保の見地から、適切、かつ、迅速な行政措置を講じ(これこそ自由裁量行為に属するものとして、あらゆる要素を考慮してなされねばならない。)、それでも安全性の確保を積極的に認定できないときは、旧薬事法二六条三項を根拠に当該医薬品につき付与した許可を撤回することができるし、それをしなければならないと解される。

この点は、公定書医薬品の場合と対比して考えれば、より理解し易くなる。その理由は以下のとおりである。

公定書医薬品は、前記のとおり医薬品の安全性と有効性を被告国により公認されているものとの建前の下で、登録業者であれば、登録内容に応じて当該医薬品の製造等ができるのであるが、公定書そのものが科学的知見の時代的集積と共に、追補又は改訂することが当然の前提とされている(旧薬事法(改正後の)三〇条)ことからもわかるとおり、一たん収載された医薬品が公定書から削除される運命にあうことがあるのも当然のこととされているのであり、当該医薬品の安全性や有効性に疑惑がでて公定書から削除されれば、必然的にその製造・輸入・販売等は事実上一切不可能となるのである(公定書収載により登録業者が当該医薬品を製造・輸入・販売等できる利益が、反射的利益に過ぎないことは、まず異論がなかろう。勿論、公定書から削除されても、新たに公定書外医薬品として製造等の許可申請をして、それが得られれば別であるが、一たん安全性や有効性に疑問ありとして公定書から削除された医薬品が、そのままの姿で許可を新たに得られることはありえないし、又あつてはならない。)。この公定書医薬品と公定書外医薬品を実質上別異に取り扱うべき合理的な理由は見出しがたいし、公定書医薬品について医薬品の安全性確保の観点から可能な措置が、公定書外医薬品の場合に実質上とれないとする考え方の非合理性こそが、むしろ問題であろう。

又、現行薬事法は旧薬事法同様承認後の撤回を定めていないにもかかわらず、〈証拠〉によれば、昭和四五年五月の衆議院決算委員会で内田厚生大臣(当時)は、現行薬事法下においても、医薬品製造承認等の承認の取消(講学上の撤回、以下同じ。)は、その承認が誤りであつたとか、医薬品の有効性が認められなかつたような場合には可能である旨答弁していることが認められ、この見解の下に後述(第九の三の14ないし16)の通り、薬務局長通知により、有用性を示す根拠がないものと判定された医薬品について、それが日本薬局方医薬品であれば、日本薬局方からの削除、それが日本薬局方外医薬品であれば、当該医薬品の製造(輸入)承認及び当該医薬品にかかる製造(輸入販売)業の許可の取消しを行なうこととなり、そして右通知に従つて薬効の再評価が実施されてきたこと等は、旧薬事法下における被告国の医薬品安全性確保義務の有無を考えるに当つても、参考になる。

第五  医薬品安全性確保義務の顕現

一はじめに

先にみたとおり、被告国に医薬品安全性確保義務が旧薬事法上存在するということは、旧薬事法に基づく薬務行政においてもその指導理念として貫徹されなければならない(勿論、被告国も、政治的・行政的責務としての医薬品安全性確保義務は当然のこととしている。)。

しかし、本件においては、公定書収載時、公定書外医薬品の製造・輸入の許可時及び右収載、許可後の継続時点における右義務の存否が争われているので、この限りで論じれば必要かつ十分である。

既に述べたように、公定書医薬品は公定書収載により、公定書外医薬品は厚生大臣の製造・輸入の許可により、その医薬品は国民が一般的に服用しうる状況になるのであるから、右収載、許可時に被告国の医薬品安全性確保義務が顕在化するのは言うまでもない。しかし、科学は日進月歩するものであり、又人間の経験も時間と共に集積することから、医薬品に関する副作用情報を含む諸種の知見も時代の進展に応じて豊富になることは自明のことである。公定書への収載又は医薬品の製造・輸入の許可は、いずれも収載又は許可した時点での科学的知見に基づいている以上、右収載、許可後も被告国は継続して医薬品安全性確保義務を負うことはもとより当然である。旧薬事法(改正後の)三〇条が日本薬局方につき一〇年毎の改訂、二年半毎の追補の為に薬事審議会の意見を聞くことを義務づけていたのは、その当然の帰結でもあろう。又医薬品に伴う副作用の中にはその医薬品をヒトに使つて初めて発見できるものもあるのであるから、事前の十分な実験、調査研究を経ていても、ヒトに一般的に使用した際万人に安全で、かつ、有効であるなどとはとてもいえないからでもある。そう解してはじめて、医薬品の安全性は、国民の生命・健康の保全に貢献し続けることができる。本来継続して保全されるべき生命・健康を対象とし、しかも継続して日進月歩する科学的知見を手段とし、継続的に集積する人間の経験をふまえて判断すべき医薬品の安全性が、一時点での判断で十分であるといえないことの明白さは、格別の論証を要しない。

従つて、「日本薬局方に収載された医薬品は、当時の科学的水準に基づいて、その有効性と安全性が公認されたものであるから、その後において同医薬品を含有する医薬品の製造等許可の申請があつても、被告国においては局方収載医薬品の有効性と安全性の確認を行なう義務はない」旨の被告国の一般論の主張(昭和四八年八月二一日付被告国第一準備書面)は採用できない。但し、被告国はその後「医薬品が日本薬局方に収載された後においても、その後の科学的水準の向上等に伴い、当該医薬品の有効性及び安全性の評価が修正をうけることがありうることは否定しえない。そうであればこそ、日本薬局方は必要に応じて改正が行なわれているのである。従つて、キノホルムについても、日本薬局方収載後の研究・使用経験等によつて、その有用性を否定する程度の副作用の報告が行なわれていたならば、それに対応する適切な措置(それが法的義務であるかどうかは別論として)が採られなければならなかつたことは当然である。しかし、昭和四五年八月、椿教授によつて、スモンの病因に関するキノホルム中毒説が発表されるまでは、そのような報告は全く存在しなかつた。……キノホルムについて、椿教授の前記報告までに知られていた副作用は、すべてキノホルムの有用性を否定することができる程度のものではなかつた」とも主張(昭和四九年三月二八日付被告第五備準書面)しているのであるから、その主旨は、前記一般論の主張にあるのではなく、過失と違法性を否定する論拠にあるとも解される(この点については、いずれも後述する。)ことに注意を喚起しておくにとどめる。

二医薬品安全性確保義務の具体的内容

旧薬事法下において肯認された被告国の医薬品安全性確保義務は、事柄の性質上時代的制約を免れず、各時代における国内の医学・薬学の最高の学問水準により得られた科学的知見を基に考えられなければならない。その内容・方法等もまた当時の国内の最高水準によるそれが要求されるべきであるが、少なくとも文献調査に限つていえば、公定書収載時、公定書外医薬品の製造・輸入の許可時は勿論のこと、その収載、許可の後も継続的に、当該医薬品のみでなく、その類似構造化合物を含め、副作用情報等に関する内外の文献を自ら収集、調査し、又は、許可申請者等をしてそれをさせる義務があることは当然のことである。費用、時間、人材等の点からみても、医薬品に関する内外の右文献の収集調査義務は、最も初歩的、かつ、基本的なものといつてよい。そして、本件では、この文献収集調査義務の過程で結論がでるので、以下この限りで論じることにする。

そして、原則的には公定書収載時又は許可時点で医薬品の安全性に疑惑がもたらされて欠陥医薬品(これは第四章第一で詳述した。)かもしれないとの情報がでてきたら、新たにそれを積極的に否定しきれる資料を入手、獲得しない以上、公定書に収載してはならないし、許可をしてもならない。右収載後又は許可後に右のような情報がでてきたら、直ちに調査研究に着手し、新たにそれを積極的に否定しきれる資料を入手、獲得しない以上、消費者側(医師を含む。)に警告を発し、場合によつては製薬企業に製品の回収を命じ、製造・販売の一時中止を命じる等の行政措置を講じ、それでも不十分なときは、当該医薬品の公定書からの削除或いは許可の撤回をすること等により、消費者たる国民個々人の生命・身体に対する危害を未然に防止する措置を速やかにとり、医薬品の安全性確保のために考えうる限りの方法をとらなければならない。

三欠陥医薬品と過失の推定

1 欠陥医薬品の推定

先に被告会社の責任で述べたのとほぼ同じ理由により(第四章第一、第五章第一)、被告国との関係でもキノホルムは欠陥医薬品であると推定される。

被告国は昭和四年(一九二九年)から昭和四五年(一九七〇年)にかけての、国内におけるキノホルム剤に関する臨床文献四二例を掲げ、それが腸内殺菌剤等として各種の効用を有していることが明らかで、その有用性は否定しうべくもないと主張している(被告国の最終準備書面二三一頁ないし二四六頁)が、右文献をもつてしても、スモン症状との対比において有用性を肯定しうるとは到底いえず、他に右キノホルム剤が欠陥医薬品であるとの推定を覆すに足りる証拠がない、というべきことも被告会社の責任で述べた(第五章第一)のと同じである。

2 過失の推定

先に、被告国の医薬品安全性確保義務を肯定してきた理由及び被告会社の責任について述べた理由部分(第四章第二の六)を合わせ考えれば、欠陥医薬品たる純正医薬品を服用した人が、その生命・身体に副作用被害を被つた場合で、かつ、その医薬品が製造業者の手もとを離れた当時のままの状態で、なんら実質的な変化を受けずに消費者の手もとに到達すると考えられるとき(純正医薬品の場合は、先ずこの点も当然のことながら推定されてよい。)には、製造業者のみならず、別の視点から医薬品の安全性を確保すべき義務を負う被告国にも過失があつたからそのような被害が生じたのではないかと考えるのが当然であるから、公定書医薬品又は製造・輸入を許可された公定書外医薬品の服用によつて、消費者の生命・身体に副作用被害を及ぼしたことだけで、当該医薬品の国民への供給を可能ならしめた被告国の過失が事実上推定され、そのような副作用の発現が、被告国に要求される注意義務(本件では、先に述べたように、文献の収集調査義務の点にしぼつて考えることにする。)を尽しても、全く予見し得なかつたことを、被告国において主張・立証しない限りは、右推定は覆らないものというべきである。

尤も、右のような法的思惟は、文献の収集調査義務に限つたとしても、製薬会社と国との地位の相違や、許可の性格を無視したものである旨の被告国の主張(被告国の最終準備書面三八八頁など)にも傾聴すべき点が見られる。製薬会社がその製薬事業により利益を得ているに対し、被告国はそうではなく、又、製薬会社において当該医薬品に関するあらゆる資料を収集、保管しているとしても、被告国はそれらをすべて閲覧し、かつ、検討しうるわけではないからである。しかしながら、前者については、責任の性質が違うことは意味しても(この点は本章末尾で述べる。)、消費者との関係ではそれ以上のことを意味するとはとても解し難く、後者については、消費者との関係でその力関係を考えるとき、被告会社の責任で述べたのと別異に解すべき程の理由を見出し難い以上、過失論に関する右の一般的結論を変更する必要はない。ただ、右の二点については被告国の行為の違法性を論じる際には考慮されてよいことを指摘しておく。

四過失の有無の判断基準時

本件原告患者らにおいて最も早くキノホルム剤を服用してスモンに罹患したのは、後記のとおり原告石原広喜(原告番号一四九番)で、その服用時期は昭和三四年(一九五九年)五月であり、しかも同原告の場合服用した医薬品名はエマホルムであるので、同原告につき被告国の責任が問われるためには、右時点において、被告国が旧薬事法二六条三項に基づき先に昭和三一年一月一七日被告田辺に製造を許可したエマホルムの、国民への供給を事実上不可能にならしめる行政措置をとるべき義務が、被告国にあつたか否かが解明されなければならない。もし、この点が肯定されれば、同時点及びそれ以降に原告患者らの服用に供せられた他の本件キノホルム剤についても全く同様の義務が導かれることは当然のことである。(尚、右の「行政措置」をもつと具体化する必要があるかどうかは一個の問題である。しかし、被告国が、キノホルム(剤)については昭和四五年九月の行政措置をとるまで何もしていないことは、同被告の自認するところであるから、ここでは、「国民へのキノホルム剤の供給を事実上不可能ならしめる行政措置」という程度で十分と思料される。この点については、後にも触れる。)

五予見可能性の対象と素材

損害発生について予見することが可能であれば、損害回避措置をとることにより損害の発生を防止することができるのであるから、本件においても被告国の昭和三四年五月時点における医薬品安全性確保義務の懈怠の有無を論じることは、同時点における損害の予見可能性の有無を論じることにほかならず、ここでいう損害、即ち予見可能性の対象たる損害とその素材は、被告会社の責任で述べたところ(第五章第二の三)と同じに解すべきである。即ち、キノホルム又はその類似構造化合物(キノリン及びキノリン誘導体)において、スモンそのもの或いはスモンとの関連性を推認しうる何らかの神経障害が予見可能であれば、スモンそのものの損害が予見可能であつたと評価されて然るべきであり、従つて、結果回避措置をとることも出来たのに、それを怠つたものと評価され、過失が肯認されるということになる。

六予見可能性の有無

1 はじめに

後記損害各論(第九章)で認定のとおり、原告患者らはすべてキノホルム剤を服用してスモンに罹患したものであるところ、本章第五の三の2で述べたように本件においてはキノホルム剤の国民への供給を可能ならしめた被告国の過失も事実上推定されるのであるから、被告国において過失がなかつたというためには、昭和三四年(一九五九年)五月の時点に至るまで、キノホルム又はその類似構造化合物(キノリン及びキノリン誘導体)において、スモンそのもの或いはスモンとの関連性を推認しうる何らかの神経障害の予見が全く不可能であつたことを立証しなければならない。そして、被告国の右予見可能性の有無を考えるに際しては、以下2ないし6に述べる諸事情をも看過してはならない。

2 被告国によるキノホルムの開発と劇薬指定

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

(一) キノホルムが日本で初めて輸入発売されたのは大正二年(一九一三年)チバ社日本学術部が、横浜のカール・ローデ商会より防腐創傷剤ヴイオフオルム「チバ」として発売した時を嚆矢とすると思われるが、大正一一年(一九二二年)頃から、軍部がそれに興味を示し、陸軍では同年一二月医務局長承認治療薬として使用することになつた。その頃から陸軍軍医学校薬学教室においてキノホルムの合成に努めてきたが、必ずしも満足すべき成果をあげえなかつた。

(二) 陸軍に於ては、独自に陸軍薬局方医務局長承認薬の制度をもつていたが、この医薬品に昭年二年(一九二七年)三月キノホルムが承認された。昭和四年(一九二九年)ごろは陸軍でも劇薬に指定され、応用も防腐剤であつてヨードホルムの代用薬とされていた。昭和一一年(一九三六年)には通常薬とされるに至つたが、防腐剤であつてヨードホルムの代用薬とされる点では従前どおりであつた。

(三) その後、被告国は昭和一一年(一九三六年)七月三日毒薬、劇薬竝毒物劇物品目改正を公布(内務省令第一九号)し、同年一〇月一日より施行したが、それによるとヨードクロルオキシキノリン(キノホルムのこと)は劇薬に指定された。

同年七月二〇日発行の日本薬報に掲載された日本薬局方調査会幹事で東京衛生試験所技師であつた薬学博士刈米達夫氏の見解(毒劇薬竝に毒劇物品目改正に就て述べたもの)によれば、毒劇薬とは

① 小量にて危害を生ずるおそれあるもの

② 中毒量と薬用量の極めて接近せるもの

③ 慢性中毒その他連用により危害の生ずるおそれあるもの

④ 特異体質に対し危険なる反応を呈し易きもの

の条件に該当するものをいい、右の小量をどう解するか困難ではあるが、大体において成人経口致死量一g以下のものを毒薬、一g以上一五g以下のものを劇薬とするが、人の致死量に関する文献のない場合は大体において動物の体重一kgに対し経口的致死量二〇mg以下、或いは皮下注射致死量一〇mg以下、若しくは静脈注射致死量七mg以下の程度のものは毒薬、又同様に経口三〇〇mg、皮下注射一五〇mg、静脈内注射一〇〇mg以下を以て死に到る程度のものは劇薬として一応調査上の参考にしたと述べ、更にキノホルムにつき、当時スイス薬局方でも劇薬に収載しており、ヨードホルム代用の無臭撒布殺菌薬で、腸結核に内用薬とし、その製剤は普通薬たること無論である、と解説している、(従つて、キノホルムの製剤は普通薬とされ、キノホルム原末のみが劇薬に指定されたのである。)

(四) 日本と中国との関係が急速に険悪化し、いわゆる宣戦なき戦争へと突入、ついで米英との外交関係も次第に悪化の道をたどり、経済的に孤立した状態になつていく中で、厚生省東京衛生試験所(現在の厚生省国立衛生試験所の前身)では昭和一一年(一九三六年)頃より次々と重要医薬品や輸入医薬品の製造を計画し、実行に移したが、キノホルムもその一つであつた。キノホルムは当時ヨードホルムに代る優秀な外用剤として注目されていたが、腸内殺菌、異常発酵防止の内用薬としても推奨されていた。製薬部ではその国産化の研究を推進していたが、技手篠崎好三のキノホルムの製造方法の開発により、工業生産が可能となり製造特許を取得するに至つた。昭和一三年(一九三八年)度には製造費が予算化され、被告国は本格的にキノホルムの製造を開始し、翌一四年にはじめて製品として発売された。製品の大部分は軍に納入され、一部は民間にも払下げられた。

3 キノホルムの戦時薬局方への収載と劇薬指定解除

〈証拠〉によれば、以下のとおり認められる。

事変下長期建設に対処して第五改正日本薬局方を戦時的に改編することが、銃後国民の保健上最も重要であるとの観点から、昭和一三年(一九三八年)秋以降日本薬局方調査会に諮問し、国産医薬品の調査研究と局方改正の審議を進めてきた厚生省は、その成案を基に翌一四年八月二三日厚生省令第二七号で第五改正日本薬局方の大改正(これは通称「戦時薬局方」ともいわれる。)を公布し即日施行したが、国産医薬品の生産奨励により可及的自給方策を講じ、外国品の輸入を防遏する趣旨から、新たに収載された医薬品の一つにキノホルムがあつた。尤も、キノホルムは当時繁用されていたわけではなかつたし、大学及び医専付属病院を含む全国一〇五病院に対してなした日本薬局方に収載希望の医薬品等に関するアンケート結果でも、キノホルムはそれらの病院から希望されていたものではなかつた。

そして、昭和一四年(一九三九年)一一月九日被告国は厚生省令第三六号をもつて、先に昭和一一年七月三日内務省令で劇薬に指定していたキノホルムを劇薬から解除した。これはキノホルムが戦時薬局方において普通薬として収載されたことに起因するものである。

4 キノホルムの劇薬性

一たん劇薬に指定されながら、三年後に指定を解除した当否について若干の考察をしてみたい。

(一) 毒薬と劇薬

明治一〇年(一八七七年)制定の毒薬劇薬取扱規則及び明治一三年(一八八〇年)制定の薬品取扱規則中の毒薬・劇薬の定義並びに昭和一一年(一九三六年)毒薬、劇薬竝に毒物劇物品目改正(内務省令第一九号)に際しての刈米達夫の毒薬劇薬に関する見解はいずれも前記(第四の三の1の(二)の(6)・(8)及び第五の六の2の(三))したが、〈証拠〉によれば、以下のとおり認められる。

昭和一五年発行の薬学大全書中清水藤太郎は、「成人経口致死量一五g以下、動物経口致死量三〇〇mg/kg以下、中毒量と薬用量の接近せるもの、蓄積作用により中毒のおそれあるもの、慢性中毒のおそれあるもの、個性により鋭敏度を異にするもの」を劇薬とし、昭和二三年(一九四八年)発行の薬事法詳解によれば、松尾仁は「動物の経口的致死量三〇〇mg/kg以下」を劇薬とし、昭和三七年(一九六二年)発行の薬事法詳解によれば、牛丸義留(当時厚生省薬務局長)は「毒薬と劇薬との差異は絶対的なものではなく、あくまで相対的なもので、その危険性の程度の差で区別されるとし、毒劇薬の指定基準を急性毒性の強いもの(五〇%致死量が毒薬は経口投与の場合三〇mg/kg以下、皮下注射の場合二〇mg/kg以下、静脈注射の場合一〇mg/kg以下、劇薬は経口投与の場合三〇〇mg/kg以下、皮下注射の場合二〇〇mg/kg以下、静脈注射の場合一〇〇mg/kg以下の値を示すもの)、慢性毒性の強いもの、安全域の狭いもの、中毒量と常用量が極めて接近しているもの、副作用の発現率の高いもの、蓄積作用の強いもの、常用量において激しい薬理作用を呈するもの」を毒劇薬の基準にしている。

そうであれば、昭和一一年(一九三六年)の刈米達夫の見解も今日のそれも殆ど同じ基準を設けてきているのが学界の見方といつてもよく、劇薬の経口致死量を動物でみてみると三〇〇mg/kg以下のものをいうと解されてきたものであるといえる。

(二) キノホルムの経口致死量

前記(第五章第二の五の(二))の通り、一九三〇年(昭和五年)から一九四八年(昭和二三年)にかけて、スイスチバ社の社内実験を含め、キノホルムの経口致死量は、動物において三〇〇mg/kg以下を示した実験データが発表されていたのであるから、当時キノホルムは学界における基準から、劇薬に相当すると解されても格別異論はないであろう。

又、〈証拠〉によれば、スモン協における池田良雄らの研究(丁第三号証一九頁以下)では、モルモツトの経口致死量を二〇〇mg/kgと推定し、大月三郎の研究(丁第一〇号証一〇頁以下)ではキノホルムの経口投与動物の症状とキノホルム量の関係から、慢性毒性の強いもの(長期間連続投与した場合、機能又は組織に障害を与えるおそれのあるもの)に該当するものと認められるから、前記した劇薬の基準からいつて、今日はより一層キノホルムが劇薬に相当するといいうるであろう。

(三) ドイツ薬局方におけるキノホルムと極量

〈証拠〉によると以下のとおり認められる。

一九三〇年(昭和五年)ドイツ薬剤師会編集発行の「ドイツ薬局方追補(ドイツ薬局方に収載されざる医薬品)第五版」によれば、これはドイツにおいて薬局方の権威ある追補版として広く認められ利用されていたものであるが、効力の強い医薬品の場合末尾に最大投薬量(極量)を付記し、職務上市販するに際してはこれらの最高用量を用いてはならないと命じ、収載されたキノホルムにつき一回の極量0.3g、一日の極量一gとした。ドイツの薬剤師団協定も同様の極量を決めており、それはチバ時報というスイスチバ社の宣伝紙により当時日本にも紹介されていた。一九五三年(昭和二八年)のドイツ薬局方でも同様の極量が定められていた。

(四) スイス薬局方とキノホルムのセパランダ(劇薬)指定

〈証拠〉によれば、以下のとおり認められる。

スイス薬局方では一九〇七年(明治四〇年)の第四版以来現在の第六版(一九七一年、昭和四六年)までキノホルムが収載され、しかもセパランダに指定され続けている。

スイス薬局方第六版(一九七一年発行のもの)によれば、医薬品イノキユア(作用の強くない医薬品)、セパランダ(作用の強い医薬品)、ベネナ(作用の非常に強い医薬品)、スツペフアシエンチア(麻酔薬)、ラデイオフアルマカ(放射性のある医薬品)とに分類され、イノキユアを除く各医薬品については、当該欄にそれがどのグループに分類されるかが示されることになつている。容器の表示・保存方法も法定され、イノキユア、セパランダ(白地又は白とほぼ同様に淡い色地に、赤文字で、その薬品名を記入した容器に入れて保存されなければならず、かつ、他の医薬品と区別されていなければならない)、ベネナの間では順に厳しい保管が指示されている。こうしてみると、右三分類は、それぞれ日本語の、普通薬、劇薬、毒薬にほぼ該当するとみてよい。尤も、右スイス薬局方に記載されたキノホルムには極量の記載はない(しかし、劇薬に指定されていても、極量の記載がないのは日本薬局方の歴史上も多々見られるのであつて、この点も記憶されていてよい。)。

但し、一九三三年(昭和八年)当時のスイス薬局方では、キノホルムには一日の極量一g、一回の極量0.3gとしての記載があり、その報はチバ時報(一九三三年三月号、丙第二〇号証)で日本にも紹介されていた。

5 日本薬局方等におけるキノホルムの取り扱い

〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

(一) 準薬局方とキノホルム

戦前、日本においても薬局方以外に準薬局方があつた。これは国が公定したものではなく、日本薬学会で編纂発行したものであり、広く使用され、有益な作用をもたらしていた。

その第三版日本準薬局方(一九三〇年版、昭和五年版)の中のクロールヨードオキシヒノリン(キノホルムのこと)と第二改正日本準薬局方(一九三三年、昭和八年)の中のクロルヨードヒノリン(キノホルムのこと)の欄にはいずれも類薬としてチバ社製品のヴイオフオルムが掲げられ、「極量一回0.3g、一日一g、ヨードホルムに代用し無臭なり。」と記載されていた。

(二) 戦時薬局方(第五改正日本薬局方)とキノホルム

キノホルムが日本薬局方に収載されたのは、第五改正日本薬局方の昭和一四年(一九三九年)の臨時改訂(いわゆる戦時薬局方)においてが初めてであるが、その解説書には応用欄に「乾燥、止血、強力な殺菌、防腐の作用を有し、しかも無臭、無刺戟性であるから、ヨードホルムよりも優れた製品である。また急性腸疾患に腸内殺菌、防腐の目的で内服する。内服には一日0.3〜0.5g。……ヴイオフオルムチバは本品と同じ製品である。エンテロヴイオフオルムチバはキノホルム0.2gを含有し、その腸内に於ける乳化と分布とを容易ならしめるためサパミンを配伍し、錠剤となしたものであつて、アメーバ赤痢に用いる。ビオメチンはキノホルムにペクチンを同量配伍した粉末及び錠剤である。アメーバ赤痢その他各種の細菌性及び寄生性腸疾患、異常発酵、腸チフス或いは熱帯地方腸障害などに応用する。一日三回0.25〜0.5g(一〜二錠)ずつ服用する。……」とあり、昭和二四年発行の注解書を見ると応用欄には「防腐剤でアメーバ赤痢に内用し又散布剤、軟膏、坐剤として外用する。ヨードホルムより有力で毒性が少ない。」との記載があり、常用量欄には「一回0.25g一日0.75g」との記載があるが、いずれにも極量の定めはなかつた。

(三) 初版国民医薬品集とキノホルム

初版国民医薬品集は旧々薬事法の規定による公定医薬品(第一部)及び旧公定処方(第二部)よりなり、一時的に定められたものである。これは当時第五改正薬局方の改訂が行なわれていたため、これが完結を待つて国民医薬品集の制定に取りかかる予定であつたからである。これは旧薬事法の公布に伴い早急に制定したので、その規格及び内容も完璧を期すことができなかつた。

キノホルミンとはキノホルム64.1分、賦形薬等35.9分を取り混和して製するものであり、キノホルミン錠とはキノホルミンを取り製するもので、一錠中にキノホルミン0.4gを含むものであるが、いずれも戦争中の昭和二〇年(一九四五年)四月二四日厚生省告示第四二号により既に旧々薬事法上の公定医薬品に指定されていたので、必然的に初版国民医薬品集にも収載された。しかし、ここにおいても極量についての定めはなかつた。

(四) 第六改正日本薬局方とキノホルム

昭和二六年(一九五一年)三月一日公布施行の第六改正日本薬局方にもキノホルムは収載され、「常用量一回0.2g一日0.6g」とされ、その解説書によれば、応用欄に「無刺戟性で、強い殺菌、防腐、止血、乾燥の作用があるから、そのままあるいは一〇%軟膏として外用する。ヨードホルムよりもよい薬である。水虫にも初期ならばよくきく。内用としては腸内異常発酵、急性腸疾患に腸内殺菌、防腐の目的に使用する。一回0.2g一日三回。症状により増加してさし支えない。……」と、製剤欄に「……エンテロヴイオフオルムは……アメーバ赤痢に使う。ビオメチンは……アメーバ赤痢、パランチウム赤痢、ランブリヤ性伝染病、その他各種細菌並に寄生性腸疾患、腸内異常発酵、腸チフスあるいは熱帯地方の胃腸障害等に使用する。一日三回、0.25〜0.5g(一〜二錠)ずつを服用する。」とあるが、極量の定めはなかつた。

(五) 第二改正国民医薬品集とキノホルム

第六改正日本薬局方に準じて昭和三〇年(一九五五年)定められた第二改正国民医薬集からはキノホルミン、キノホルミン錠が削除され、新たに複方キノホルム散が収載されたが、これはキノホルム一五〇g、オウバク末五〇〇g、乾燥酵母三五〇gをとり、散剤の製法により製するものであるが、これについても極量の定めはなかつた。

(六) 第七改正日本薬局方とキノホルム

昭和三六年(一九六一年)四月一日公布施行の第七改正日本薬局方は、キノホルムの常用量を「一回0.2g一日0.6g」とし、解説書には、薬効として「各種細菌(ブドウ球菌、レンサ球菌、大腸菌、チフス菌、肺炎菌など)及び原虫(アメーバ、ランブリア及びトリコモナス)に対して、殺菌、又は発育阻止作用を有している。内服により腸内殺菌、防腐、異常発酵防止などの作用を発揮する。……副作用は極めて少ない。代謝に関しては殆ど知られていないが、内服された大部分は吸収されることなく、腸管を通過するものとみなされている。」とあり、適用欄には「内用としては細菌性の下痢、胃腸炎などには一日量0.6〜1gを三回に分服。アメーバ赤痢の急性症には一日量二〜三gを一〇日間投与。慢性症には一日量0.9〜1.5gを一〜二週間、細菌性赤痢には一日1.5〜2gを投与。」とされているが、極量についての定めはなかつた。

第二改正国民医薬品集で収載された複方キノホルム散は、第七改正日本薬局方にひきつがれて収載された。

(七) 第八改正日本薬局方とキノホルム

昭和四六年(一九七一年)四月一日公布施行の第八改正日本薬局方のキノホルムは「常用量一回0.2g一日0.6g」とした上で、「本品はスモンとの関連において疑いがあるので、昭和四五年九月八日以降、腸性末端皮膚炎等医療上特にやむをえない場合の用に供するほかは、販売を中止させているものである。」と注記され、更にその解説書によれば、「連用は厳重な監視下に行なう必要があり、アメリカ薬局方第一八版では、二週間以上の連用を慎しむべきことを記載している。」と注記しているが、極量についての定めはなかつた。

(八) 第九改正日本薬局方とキノホルム

昭和五一年(一九七六年)四月一日公布施行の第九改正日本薬局方からは、キノホルムが収載されなかつた。

6 被告国から民間へのキノホルム製法特許実施権等の払下げ

前記認定の事実、弁論の全趣旨及び戊第四一一号証によれば、第二次世界大戦前日本で初めてキノホルムの製造方法の開発に成功し、被告国による製造と販売を可能ならしめた厚生省東京衛生試験所の技手篠崎好三は、昭和二一年(一九四六年)八月厚生大臣及び衛生試験所長から、キノホルムの製法特許実施権と製造用機械の払下げを受けて八洲化学株式会社に入社し、同社の立石工場で昭和二三年四月より三〇年四月までキノホルムが製造され、昭和三〇年一一月以降は、八洲化学立石工場の設備一式を賃借した立石製薬株式会社(被告田辺の全額出資になる会社)で、キノホルム、乳化キノホルム等を製造し、その製品を被告田辺が購入し同被告は被告国の許可に基づいて、昭和三一年エマホルム、エマホルム錠の販売を開始し、昭和四五年九月の行政措置までそれを継続した事実が認められる。

7 一応のまとめ

(一)  右の2ないし6で認定した事実と前記第四の三の2の(六)及び(七)で認定した事実を基に考えると、キノホルムは大正二年(一九一三年)日本に初めて輸入され、大正一一年(一九二二年)頃から軍部が興味を示して以来、被告国自身が開発に取り組み、次いで、製造販売してきた医薬品であるが、その国内における取り扱いは一たんは劇薬に指定しておきながら(昭和四年の陸軍での劇薬の取り扱い、昭和一一年陸軍では通常薬にしたが、被告国は逆に同年劇薬に指定)、昭和一四年、当時の時局に応じて国産品の生産奨励と外国品の輸入防遏の趣旨から第五改正日本薬局方の改訂(いわゆる戦時薬局方)に当りキノホルムを普通薬として収載したことを起因として、キノホルムの劇薬指定を解除したが(そもそも、日本薬局方収載と劇薬指定解除とは何らの関連性もないことを注目しなければならない。)、それに対応するように昭和五年版の日本準薬局方中のクロールヨードオキシヒノリンと昭和八年の第二改正日本準薬局方中のクロルヨードヒノリン(いずれもキノホルムのこと)については極量を一回0.3g、一日一gと定めて記載していたのに、昭和一四年の戦時薬局方からは極量の記載も欠くに至つたこと(特に、常用量が極量と共に品目により記載されるようになつた昭和二六年の第六改正日本薬局方以降もキノホルムにつき極量の記載がない。)、ことにキノホルムが現在は勿論当時においても劇薬に指定されても当然と思われるのに、何ら首肯するに足る格別の理由もなくその指定がなくなつたことには甚だ奇異の念を禁じ得ないのである。(ちなみに、〈証拠〉によれば、昭和一六年(一九四一年)出版の東北帝国大学講師医学博士高瀬豊吉著の「化学構造と生理作用」という標題の本は当時よく読まれていたものであるが、そのヴイオフオルム・チバの項には極量一回0.3g、一日一gと記載され、〈証拠〉によれば、昭和二四年(一九四九年)発行の伊沢凡人著の「病気の知識と正しい薬の用い方」という標題の本では、キノホルムを劇薬として取り扱つていることが、それぞれ認められるが、これらのこともここで念頭においていてよい。)

その上、前記認定のとおり、被告国は戦後、このキノホルムの製造方法、生産技術及び生産設備のすべてを八洲化学に譲渡し、キノホルム剤の製造・販売の途を民間企業に開いたのである。

要するに、被告国はキノホルムに関しては、日本における最初の製造・販売者であり、戦後においては逸速くその製造・販売の途を民間企業に開いたのであつて、その歴史をみるとき、被告国には製造者と同一の地位を付与することも可能なのである。

(二)  右のような特殊事情が認められる以上、戦後の旧薬事法下におけるキノホルム(剤)の公定書への収載に際しても、右の特殊事情をふまえた安全性についての取り扱いがなされて然るべきであるが、右の5で認定したように、初版国民医薬品集には、キノホルミンとキノホルミン錠が昭和二〇年四月に旧々薬事法上の公定医薬品に指定されていた関係から必然的に収載されたものであり、第六改正日本薬局方、第二改正国民医薬品集におけるキノホルム(剤)の収載に当つて、その安全性につき格別の配慮がなされたと認めるに足りる証拠は全くない。

このキノホルムの日本における最初の開発者であり、かつ、戦後における民間の製造・販売に途を開いた地位に鑑み、キノホルムの劇薬性につき今少し慎重でありこれを軽視するような態度をとらなかつたならば、これがその危険性についての内外の文献を収集し調査に十全を期する契機にもなりえたであろうことは、否定し得ないように思われる。そして、第五章(被告会社の責任(その二)―各論)の第二の四及び五で認定した事実によれば、昭和三四年(一九五九年)五月の時点で、被告国においてキノホルム又はその類似構造化合物(キノリン及びキノリン誘導体)服用によるスモン又はスモンとの関連性を推認しうる何らかの神経障害の発現を全く予見し得なかつたとはいえないばかりか、却つて、前記文献の集積状況からすれば、キノホルムによるスモンそのものさえ予見可能であつたといつても過言ではない。そうであれば、被告国の過失は肯定されざるを得ないのである。

(三)  つまり、被告国が昭和三四年(一九五九年)五月の時点でキノホルム(剤)の安全性確保義務を懈怠していたとの推定は覆えらないのである。換言すれば、右時点において、被告国がキノホルム剤につき、国民への供給を事実上不可能ならしめる行政措置を何らとらなかつたことには過失があるということになる。

七被告国の主張に対する見解

1 被告国の主張

被告国は、薬事法上の義務違反を理由として、被告国に対して損害賠償を求めることが可能であるとしても、本件訴訟においては厚生大臣には過失が認められない、として以下のとおり主張する。

先ず第一に、一般論として、①医薬品は有効性と安全性の比較考量の上に成り立つているものであり、製造等の許可(又は承認)は限られた動物実験又は臨床例を資料として総合的、統計的に判断するものであつて、個々の患者に投与された場合に、常にそれが有用性をもつことを保証し得るものではないから、医薬品の絶対的な安全性を確保する注意義務を要求したり、いささかの副作用なり危険があれば、予見可能性ありとする主張は、医薬品の本質及び許可、承認の性格を無視したものである(医薬品の本質及び許可、承認の性格からの制約)。②薬事法は、本来不良医薬品の取締りを主眼とした取締法規であるから、医薬品が取締りの対象として製造・販売業者の営業の自由を規制するためには、その医薬品により危険な結果が発生すること又は発生するおそれのあることが、合理的根拠に基づいてかなりの程度まで客観的に認められる必要があるから、厚生大臣の注意義務の程度は、具体的で、かつ、顕著なものである場合に限られるし、又、厚生大臣は薬事法の規定に基づき、チエツク機関として後見的立場から医薬品にかかわり合いをもつにすぎないので、製薬会社や医師の注意義務に比べ、そこには自ら限界があり、注意義務は軽減される(薬事法の性格(取締規定)からの制約)。③医薬品は、その時代における学問の水準を反映したものであり、過失の有無を論ずるに当つても、当時の学問水準に基づいて判断すべきである(学問水準による制約)。④厚生大臣が許可、承認を行なうに際しての医薬品の有用性の判断は、その性質上、厚生大臣の裁量にゆだねられた側面を有するのであるから、その裁量権限内の行為については、本来その責任を問われるべきではない(行政裁量による制約)。

ということを理由に、厚生大臣に薬事法上の注意義務違反はないといい、

第二に、具体論として、⑤キノホルム剤は内外における多数の臨床使用報告に基づき、一九三〇年代に内用薬として使用されて以来、昭和四五年八月椿教授によつてスモン・キノホルム説が発表されるまで長い間内外において、その有用性を否定する程度の副作用が問題にされたことはなく、学問上もその安全性が承認されてきたもので、日本においても、わが国の医学、薬学の最高の科学的水準にある構成員からなる薬事審議会又は中央薬事審議会では、キノホルムを日本薬局方に収載し継続するに際し、又はキノホルム剤の製造許可等をするに際して、キノホルムの有効性及び安全性を疑問視する意見は一度もだされなかつた(学界の常識)。⑥キノホルムは世界各国において極めて有用な医薬品として長年月にわたつて繁用されており、日本薬局方収載医薬品でもある。医薬品の安全性と有効性を実証するデータとしては繁用という事実に勝るものはなく、繁用の実績のない新薬こそが医薬品の安全対策上最も問題になるのである(繁用医薬品、日本薬局方収載医薬品)。⑦文献評価については、その文献が報告時点においてどのように評価されていたかが問題であるばかりでなく、動物実験は種差のため多くを期待できないし、世界各国の医学文献を調査することは事実上不可能であり、製薬会社から提出がない限り、原告ら指摘の文献はその多くが入手しえないのである(文献評価)。⑧スモン発生は昭和三〇年前後から始まるが、昭和三九年五月の日本内科学会総会、同年から二年にわたる京大教授前川孫二郎を班長とする研究班に対する厚生省の研究委託を経て、昭和四四年九月スモン協発足となり、翌四五年八月の椿によるスモン・キノホルム説の提唱、九月の被告国の行政措置となつたのであるが、このように日本の有力な専門学者の多数動員により、一五年もかけてはじめてなしえたことで、しかも外国の学者の誰もがなしえなかつたスモンの原因究明過程をみるとき、キノホルムからスモンないしにこれに準ずる重篤かつ不可逆な神経症状の発現を予見することは至難の技であつた(スモン発生からキノホルム説提唱に至る一五年間の経緯)。⑨キノホルムの安全性が問題になつたのはわが国が世界で初めてであり、現在何らかの規制を行なつている国においては、その規制はわが国からの情報に基づいて講ぜられたものであり、現在なお多くの諸外国においてキノホルム剤が製造・販売され、その効能、効果、用法、用量は厚生大臣がした許可、承認の内容と大差はない(外国における取扱いとの比較)。

ということを理由に厚生大臣に薬事法上の注意義務違反はないといい、

第三に、本件訴訟で問題とされているものに反論し、⑩キノホルムは既に昭和一四年から日本薬局方に収載され、医薬品としての有用性が十分評価されてきたものであるから、本件キノホルム剤の許可、承認の審査に際し、特に中央薬事審査会における検討を必要とせず、前例を参考として審査したことなどをとらえて許可、承認に違法な点があつたとはいえない(許可、承認の適法性)。⑪被告国自身が動物実験等をして安全性を確認すべき義務は何らない。⑫日本薬局方にキノホルムを収載し続けたことは、昭和九年頃からの繁用の実績によるものである(日本薬局方収載の適法性)。⑬昭和一一年から劇薬に指定されていたのは、キノホルムの原末のみであつて、キノホルムを有効成分として配合した製剤は劇薬には指定されていなかつたから、キノホルム剤はキノホルム原体の劇薬指定のいかんにかかわらず、従来より普通薬として販売されてきたのである。又、劇薬の指定は医薬品の有用性を否定するものではないから、キノホルム原末の劇薬指定の解除はスモン発生との関連において関係がない(劇薬指定解除と過失責任)。

ということを理由に厚生大臣の薬事法上の注意義務違反がないと主張している。(被告国の最終準備書面三八六ないし四五一頁)

右の点を整理して、次に当裁判所の見解を示すことにする。

2 被告国の主張に対する当裁判所の見解

(ここでの番号は右1の被告国の主張に対応する。)

① 医薬品が有効性と安全性の比較考量の上に成り立つのは当裁判所の基本的立場でもあるが、被告国の製造等の旧薬事法上の許可(現行薬事法上の承認、以下同じ。)が、国民個々人に対し有用性をもつことを常に保証したものとまで述べているのではない。ただ、旧薬事法上は被告国にも、国民個々人に対し医薬品の安全性を確保すべき義務が肯定され、その義務が懈怠されたら損害賠償義務を負うといつているにすぎず、無過失責任を課しているわけではない。どの程度の予見可能性で足りるかは、前述したとおりであるが、後記第六の違法性論でも再論する。

② 旧薬事法が不良医薬品の取締りを主眼とした取締法規的性格を有していることは否定しないが、そのことに限定されることなく、医薬品の安全性を国民個々人に確保するという観点からの規定と解されるものもあり、よつて、被告国に医薬品安全性確保義務が旧薬事法上肯定されるのであつて、「医薬品業者の営業の自由を規制するには、その医薬品により危険な結果が発生すること又は発生するおそれのあることが、合理的根拠に基づいてかなりの程度まで客観的に認められる必要がある」と、予見可能性の程度を被告国にとり有利に基準設定する見解には左袒しえない(この点については前述した。予見可能性の程度は後記違法性でも問題となるので、そこでも再論する。)。

③ 過失の有無を論ずるに当つて、当時の学問水準によるべしとするのは、当裁判所の見解でもある。

④ 医薬品の有用性の判断が厚生大臣の裁量に属するというのは、ある意味ではその通りであるが、これは違法性の問題なので後述(第六)することにして、過失論で論じることはしない。

⑤ キノホルム剤が安全との学界の常識に従つていたのだから過失がないとの主張はとらない。要は国内における最高の医学、薬学の科学的知見に基づいて、医薬品の安全性確認義務が遂行されたか否かである。学界の常識になるのを待つていたのでは、国民の生命・健康の安全は守れない。科学的真理は常に最初から学界の常識となつているものではないという自明のことを想起すればよい。

⑥ 内外で繁用されているという事実は、キノホルムの安全性及び有効性を実証するものであり、日本薬局方収載医薬品であつたことは更にそれを補強するという主張も本末転倒である。先ず、キノホルムが繁用されていたかどうかも疑問である(〈証拠略〉)が、仮にそのことを措いても、安全性が確認されたうえでの繁用であり、日本薬局方収載であるといえるかどうかが大切なのであつて、繁用され、日本薬局方に収載されているから安全だ、というのは思考順序が逆様とのそしりさえ受けかねない。現に、被告国主張の端々にみられる議論は、キノホルムは昭和一四年(一九三九年)いわゆる戦時薬局方に収載されたことにより、当時の国内における医学・薬学の最高権威者によりその安全性と有効性が確認され、それは以後の繁用に裏打ちされて、第六、第七改正日本薬局方等に引き継がれてきたものであり、昭和四五年八月の椿によるスモン・キノホルム説の発表まで、キノホルムの安全性と有効性については、疑いをはさむ者がいなかつた、というのである。しかし、問題は、戦時薬局方へのキノホルムの収載が真に「安全性」についての科学的検討を経てなされていたものかどうか、その後の「繁用」がどの程度の実態を伴つているものかどうか、その間キノホルムの安全性について特別に調査検討されたのかどうか、ということにある。しかも、本件全証拠によるも、右の諸点につき、被告国の主張を首肯せしめるに足りないのである。見方をかえれば、被告国の主張は、誤つた或いは確証のない結論(戦時薬局方へのキノホルム収載は、キノホルムの安全性を確認した上でなされたとの主張を指す。)を基に、次々と議論を展開しているのではないか、とさえ思われる程である。

⑦ 文献評価については、先に被告会社の責任(第五章)で論じた。

⑧ 予見可能の問題点については前述したが、一五年間にわたるスモン発生からキノホルム説提唱に至る経緯は、ある未知の疾病(本件では即ちスモン)の原因解明の困難性を物語りはするが(医薬品の副作用の把握さえ困難であることは多数の識者によつて指摘されている。医薬品の副作用かどうかさえ皆目わからない段階から出発したスモンの原因究明の困難さは推して知るべしであろう。)、そこから、過失の有無を論じるに当つて、スモンの発現を予見することは至難の技であつたと主張するのは、論理に飛躍がありすぎる。

⑨ 外国の取扱いと比較することは、安全性を厳しく審査する観点からは重要であつても、安全性をゆるやかにしようとする観点からは有害である。社会的事情は国によりそれぞれ異るからである。この点については、〈証拠〉によれば、同人が医師を対象とした調査結果に基づき、一九六〇年代において日本でスモンが多発、重症化した社会的要因として、キノホルム剤が胃腸障害作用をおこす薬であることが古くから報告されていながら、これが現場の臨床医には伝えられず、医師の参照する能書、処方集などでは、かえつてキノホルム剤の有効性と安全性が強調されていたこと、前項のことが一因となつて、キノホルム剤の増量・連用は安全であると判断ないし信じ込んだ医師が、キノホルム剤投与の結果生じた「腹部症状」に対して、さらにキノホルム剤を投与し続けたこと、スモンの原因としてウイルス等による感染説を主張又はとり入れた医師が、その結果として、さらにスモンないしその疑いと診断した患者に「消毒・殺菌のために」キノホルム剤を長期大量に投与したこと、の三点を総括していることが認められることを指摘しておくのも有益であろう。

⑩ キノホルム剤の製造等の許可が、殆ど無審査に等しい方法でなされたとしても、それはキノホルムの有用性が昭和一四年の日本薬局方収載以来、十分評価されてきたから適法であり、過失はない、との主張も首肯し難い。というのは、「キノホルムの有用性が十分評価されてきた」との前提に疑問があるからである。決して、そうはいえないというのが、当裁判所の見解であることは、前述したところである。

⑪ 本件において、被告国に動物実験をしてでもキノホルムの安全性を確認すべき義務があつたかどうかまで触れる必要はないので、これについては述べない。

⑫ 日本薬局方収載の適法性が、繁用の実績を根拠にしているというのであれば、その不当性は⑥で述べた。

⑬ 劇薬指定解除と過失責任の関係については前述した。確かに、かつて劇薬に指定されたのがキノホルム原末のみであつて、キノホルム剤はそうでなかつたのは事実であるが、そのこと自体で先に述べた結論に消長をきたすものではない。

第六  違法性について

1  被告国は、「医薬品の公定書収載、製造・輸入の許可に関してなす被告国の行為は、医薬品の特質に鑑み、有効性と安全性の比較考量の上に、その時々の社会的要求をも斟酌してなされる専門的、技術的判断を伴つているから自由裁量行為というべきであり、キノホルム(剤)の公定書収載、製造・輸入の許可は勿論、その後公定書から削除せず、許可を撤回しなかつたこと等についても、何ら違法性はない」旨主張する。

2  確かに右のような被告国の行為が専門的、技術的判断を伴うものという意味で自由裁量行為に属する面のあることは否定できない。しかし、国民の生命・健康の保全という崇高な目的を達成すべき被告国の薬務行政において、医薬品の安全性が疑わしくなり、欠陥医薬品ではないかと思わしめる情報があるとき、そこに自由裁量性が入りこむ余地はないのであつて、あるのはいかにして医薬品の安全性を確保するかでしかない。換言すれば、医薬品の安全性を確保するために、いかなる具体的方策をとるべきかには裁量性が入り込んでくるのは当然のこととしても、その方策を何らとらず、放置、黙認することは許されないのである。

従つて、自由裁量論を根拠に被告国の責任を一切否定する主張に賛同することはできない。

3  しかし、右のようにいうことは医薬品の安全性にどの程度の疑惑がでてきたときに(即ち、予見可能性がどの程度にまで高まつたときに)、どの程度のことをしたらいいのか(即ち、どの程度の行為をしたら違法性がなくなるのか)という問題を不問にしていいというのではない。本件では、昭和四五年(一九七〇年)九月被告国によるキノホルム剤等の使用中止等の行政措置がとられるまで、被告国は何もしていないのは、被告国が自白しているところであるから、昭和四五年九月の時点に至るまで、被告国は何もしなくてもいいだけの予見可能性しかなかつたのか、そうでないとしたら、どの時点までその可能性を遡らせることができるか(本件に即していえば、一番早くキノホルム剤を服用した原告石原広喜の昭和三四年五月の時点で右予見可能性が肯定できるか)ということが論じられねばならない。

この点に関し、被告国は、行政権限の行使義務がでてくるとしても、行政権限の行使の要件である公益侵害の状態が一義的に明白であると判断し得ること、行政権限の行使こそ被害回避の唯一ないしは最も有効な手段であり、行政権限が行使されなければ回復し難い損害が生ずるというような救済の緊急の必要性の要件が具備されなければならないと主張する(被告国の最終準備書面四七〇ないし四七四頁)。

しかし、右の議論は、義務づけ訴訟において、いかなる場合に行政権力に対する作為請求権を法的に求めうるかの要件として考えられているものであつて、これを、無批判に、不作為を違法と主張してなす国家賠償請求訴訟に持ち込むことは当を得たものといえないことは、両訴訟のもつ性格の相違からも明白であろう。

4  本件では、キノホルム剤が事実上国民の服用するところとならないように、何らかの具体的な行政措置(その内容を特定する必要はない。それこそ時と場合に応じて、最も適切な方法がとられればよいのである。)をとらしめるには十分な予見可能性があつたかどうか、を論じればよい。この違法性論における予見可能性を、過失論で述べた予見可能性と全く同一に考えていいかどうかは一個の問題である。というのは、過失論における予見可能性は、あるかないかの問題、即ち質的な問題であるのに対し、違法性論におけるそれは、どの程度のものか、即ち量的な問題といえるのであり、概念上は同一線上にありながら、現れる局面が違うからである。

しかしながら、既に述べたように、日本においてはキノホルムは被告国自身が先ず開発、販売してきた医薬品であること、本来劇薬に指定してもいいのに、昭和一一年一たん指定した劇薬品目から、同一四年には戦局の進展に伴い、国産品の奨励と外国輸入品の防遏の趣旨(繁用の趣旨からではなかつた。)で、キノホルムを戦時薬局方に収載したことに応じて、これを劇薬品目から削除したが、その間にキノホルムの安全性が試された形跡を認めるに足りる証拠は全くないこと、戦後被告国はキノホルムの生産方法、生産技術及び生産設備のすべてを八洲化学(結果的には後の被告田辺のキノホルム剤の製造・販売につながつている。)に譲渡し、キノホルム剤の製造・販売の途を民間企業に開いてきたこと、以上の事実は、キノホルムに関する限り被告国は製造者又はこれに準ずる地位にあつたものと評価しうること、このような事情をふまえて被告会社の責任で認定した文献の集積状況(第五章第二の五)を検討すると、昭和三四年(一九五九年)五月の時点で、キノホルム剤が事実上国民の服用するところとならないように何らかの具体的行政措置をとるべきであるというに十分な程の、キノホルム剤の危険性についての予見可能性があつた、と評価されるのは致し方のないところであり、右時点においては勿論のこと、昭和四五年九月に至るまで、何らの行政措置をとらなかつたことを併せ考えると、結局被告国の行為の違法性も肯認されざるをえないのである。(なお、付言するに、国家賠償請求訴訟においては、被告国に過失による私人の権利侵害行為があれば、違法性も推定されて然るべきものと解される。或いは、「違法性」という概念は、「社会的に是認されない不相当な行為」と言えるのであるから、右の予見可能性の他に色んな要素が判断資料となりうる。然して、その主張・立証責任は、個々の国民と被告国との力関係、判断資料の存在領域その他諸般の事情を考慮すると、正義公平の見地から、被告国にあるものと解するのが相当である。然りとすれば、原告らはスモン被害をもたらした背景には、「昭和三六年の国民皆保険制度の実現とそこにおける低診療報酬政策(安上り医療政策)と薬価規制方式(いわゆる九〇%バルクライン方式)によつて完成された、医薬品の大量生産・大量消費の社会的基盤を切り拓いたのが厚生省の薬務行政」であり、これを維持し、補強してきたものに、「厚生省と製薬企業の癒着」の実態がある等と主張(原告ら最終準備書面二六五ないし二八八頁)しているのであるが、被告国の主張する予見可能性の程度を検討しても、未だ違法性を阻却するものとは解し難いこと前記のとおりであり、しかも、他に被告国が、違法性阻却事由を具体的に主張・立証していない以上、原告らの右主張についてまで検討する必要はない。)

第七  被告国の行為とスモンとの因果関係

一これまでるる述べてきたように、旧薬事法下において医薬品は公定書に収載されるか、厚生大臣による製造・輸入の許可を得たものでない限り、一般的に国民の服用しえないものであつたから、厚生大臣がキノホルム(剤)を公定書に収載しないか、キノホルム剤の製造・輸入の許可申請を容認しないか、仮に右の収載、許可をした後でも公定書からのキノホルム(剤)の削除及びキノホルム剤の許可の撤回をすれば、勿論のこと、それが国民によつて服用されないような行政措置を被告国が講じていれば(このような措置を被告国が昭和四五年(一九七〇年)九月前に何ら講じていなかつたことは、何度も述べてきた。)、国民はそれを服用しないのであるから、原告患者らがスモンに罹患する筈のなかつたことも疑問の余地がない。従つて、被告国が、昭和四五年九月前に、キノホルム剤の国民への供給を事実上不可能ならしめるような行政措置を何らとらなかつたことと原告患者らのスモン罹患との間には因果関係が認められる。

二但し、旧薬事法には既になした医薬品の製造・輸入の許可の撤回につき何らの規定もない以上、許可の撤回はできないと解する余地もありうる(尤も、当裁判所はそのような見解はとらず、撤回も可能との解釈をとるものであることは前記した。)ので、この見地から因果関係について若干の考察を付加しておきたい。

1 旧薬事法上製造等の許可の撤回ができないとの立場をとるとしても、キノホルムの欠陥医薬品情報がもたらされれば、被告国としては、販売中止を含め、キノホルム剤が事実上国民に供給されないようにあらゆる手段での行政措置をとるべき義務があることは前記した。

2 被告国は、仮に右のような行政措置義務を肯認したとしても、被告国のなす右措置はいわゆる行政指導であつて、あくまでそれを受ける医薬品製造・販売業者の任意の協力があつてはじめてその実効を挙げ得るもので、強制力を有するものではないところ、本件においては、キノホルム説が提唱される(昭和四五年八月七日)前の段階で、もし厚生大臣がキノホルム剤の販売中止等の行政指導をしたとしても、その製造・販売業者らがこれに従つたであろうという主張・立証が原告らにおいてなされていない以上、厚生大臣の権限不行使(行政指導の不実施)と原告らのスモン罹患との間には因果関係がない、と主張する。

3 しかしながら、キノホルム剤の製造・販売等に関し、右昭和四五年八月以前に、被告国が国民の生命・健康の保全を図る見地から何らかの行政指導を試みた形跡があるのならいざしらず、何らの措置もとつていない(このことは被告国も自白している。)のに拘らず、行政指導をしたとしても製造・販売業者らがそれに従つたかどうか疑問がある旨の主張をすることが、信義則上許容されてよいかどうか再考の余地がある。仮に右主張が許されるとしても、日本における行政指導のもつ影響力の強さは半ば公知の事実であり、しかも事が人間の生命・健康の保全に直接響く医薬品に関することであれば、世論の支持を得た行政指導の実を挙げる方法は決して困難ではない(例えば製造・販売業者らにキノホルム剤の危険性を説明し、販売中止を勧告するだけでも実効は期待できるし、それを公表することによりそれは事実上完璧な効果を挙げうるであろう。)こと等に思いを致すと、行政指導の不実施と原告患者らのスモン罹患との間に因果関係が存在するとの事実上の推定をすることが可能であり、かつ、妥当といわなければならない。そして、本件において右推定を覆すに足りる反証がない以上、因果関係の存在は肯認されて然るべきであると解される。

第八  総括

以上述べてきたところを要約してまとめると以下のとおりとなる。即ち

① 被告国は、当該義務を懈怠すると国家賠償法一条一項による損害賠償責任を負担する義務を負わなければならない場合がある、という意味での医薬品安全性確保義務を旧薬事法上負つていたものである。

② キノホルムが欠陥医薬品であることは、昭和三四年五月の時点で既に予見しえたのであるから、被告国はキノホルム(剤)を公定書から削除し、許可済みのキノホルム剤については、その販売中止を含め、キノホルム剤が国民に服用されないよう適切な行政措置をとるべき義務があるのに、これを怠り、もつて原告患者らのスモン罹患の事態を惹起せしめた違法有責な行為があつた。

③ 従つて、旧薬事法下でスモンに罹患した原告患者らは、それによつて被つた損害の賠償を被告国に請求することができる。

右に要約した結論は、現行薬事法上も医薬品安全性確保義務が存するとした場合には、そつくりそのまま妥当するものであることは、これまでの論理の筋道からいつて明らかである。よつて、次に現行薬事法上も医薬品安全性確保義務が肯定されうるのかどうか検討を加える。

第九  現行薬事法と被告国の医薬品安全性確保義務

一現行薬事法の制定

〈証拠〉によれば、以上の事実が認められる。

前記した事情の下に制定された旧薬事法は、わが国の薬事の実態に即しない点や不備な点も多く、早晩その改正が予期されていた。一方、旧薬事法は立法以来、既に十数年を経過し、その間、医薬品等の進歩は著しいものがあり、薬業の実情に合わない点が益々多くなつてきた。

又、医薬品販売業者数も急増し、その競争が激しくなつてきた事情もあり、薬業関係の各種の団体、特に医薬品の販売に直接関係のある諸団体から、旧薬事法の改正が強く要望された。そこで厚生大臣の諮問機関たる薬事審議会に諮問され、その答申を基に厚生省薬務局で検討を加え、結局昭和三五年八月一〇日法律第一四五号として現行薬事法が公布され、羽三六年(一九六一年)二月一日から施行された。

二現行薬事法の概要

医薬品安全性確保義務の存否を考える上に必要な限りで現行薬事法の概要をみると以下のとおりである。

1 目的

「この法律は、医薬品、医薬部外品、化粧品及び医療用具に関する事項を規制し、その適正をはかることを目的とする。」旨規定している。(丁第四二号証によれば、同法制定当時の薬務局長牛丸義留は、その解説書で「本法は、医薬品、医薬部外品、化粧品及び医療用具の適正をはかることを目的とするものであつて、いわゆる衛生法規である。本法は、衛生法規として、公衆衛生の向上及び増進をはかり、国民の健康な生活の確保に資することを目的とするものである。」と明記していることが認められる。)

2 薬事審議会

従来、中央には薬事審議会が設けられていたが、今回これが中央薬事審議会と改称され(三条)、新たに都道府県知事の諮問に応じ薬事に関する当該都道府県の事務等を調査審議させるため、都道府県に地方薬事審議会を置くことができることになつた(四条)。

3 医薬品の製造業及び輸入販売業

医薬品の製造業を営もうとする者は、製造所毎に厚生大臣の許可を受けなければならず、許可の更新期間は二年であり(一二条)、日本薬局方外医薬品を製造しようとする場合は、予めその物につき品目毎に厚生大臣の承認を受けなければならず(一三条)、この承認は、その物の名称、成分、分量、用法、用量、効能、効果等を審査して、それが医薬品として適当な物であるかどうかについて判断のうえ、与えられる、承認を受けた者が、当該品目について承認事項の一部を変更しようとするときは、その変更についての承認を求めることができる(一四条)。そして、医薬品の製造については原則として、薬剤師による実地管理が要求されている(一五条)。

医薬品の輸入販売業については、医薬品の輸入が医薬品を国民に供給する源であるという点では、医薬品製造と軌を一にするものであるので、製造業に関する規定が殆どそのまま準用され、製造業と同様の規制がなされている(二二、二三条)。

(一四条の「承認」とは、結局旧薬事法二六条による「許可」と同じ法律上の性質を有すると解されることは明らかである。)

4 医薬品の販売業

薬局開設又は医薬品販売業の許可を受けた者でなければ、特殊な場合を除き、業として、医薬品を販売し、授与し、又は販売若しくは授与の目的で貯蔵し、若しくは陳列してはならないし、許可の更新期間は二年とされた(二四条)。

医薬品販売業の許可には、一般販売業の許可、薬種商販売業の許可、配置販売業の許可、特例販売業の許可の四種が定められた(二五条)。旧薬事法下では、医薬品販売業の種類は、厚生省告示である医薬品製造業者等登録基準で定められていたが、こんどは法律で規定された。現行薬事法の右販売業は、旧薬事法下の、すべての品目を販売する販売業、指定医薬品以外の品目を販売する販売業、配置販売業、品目を限つて販売する販売業に相当する。

医薬品販売業の許可を受ければ、合理的に、業として医薬品の販売、授与等を行なうことができるが、その業務については、保健衛生上の見地から色々の法的規制が及ぼされている。第一に、販売業の種類により取扱い品目の範囲に一定の制限が設けられている。即ち、薬種商は指定医薬品以外のすべての品目であり、配置販売業者及び特例販売業者は、いずれも許可の際都道府県知事が個々に指定した品目である。第二に、販売方法等が制限されている。元来医薬品は人の身体に直接作用を及ぼすものであつて、その品質が悪かつたり、使用方法を誤つたりすれば、生命にかかわることも容易に考えられるので、その販売、授与等の方法は事後においても業者の責任を追求できるようなものでなければならないとの趣旨から、現行薬事法でも、従来どおり、医薬品の販売方法を、一般販売業者、薬種商、特例販売業者にあつては店舗による販売又は授与、配置販売業者にあつては配置の二種類に限定し、現金行商や露天販売等を禁止した(二八ないし三八条)。

5 医薬品の基準及び検定

旧薬事法においては、公定書として日本薬局方と国民医薬品集とが別個に定められていたが、現行薬事法により、国民医薬品集の名称が廃止され、日本薬局方に統合された(四一条、附則八条)。日本薬局方は、医薬品の性状及び品質の適正を図るために厚生大臣が定めるもので、繁用される原薬たる医薬品及び基礎的製剤を収める第一部と、混合製剤及びその原薬たる医薬品を収める第二部からなる。そして厚生大臣は、少なくとも一〇年毎に日本薬局方の全面にわたつて中央薬事審議会の検討が行なわれるように、その改定について同審議会に諮問しなければならない(四一条)。

又、保健衛生上特別の注意を要する医薬品については、その製法、性状、品質、貯法等に関し必要な基準を設けることができる(四二条)とされ、具体的には抗菌性物質製剤基準等が、これに基づいて定められている。これらの基準は、医薬品そのものの品質に重点をおいて定められるものである。

次に、特に高度の製造技術や試験技術が必要であるか、又は製造の過程等によつて品質に影響を受けやすいため、完成品について公的機関の検査を経ずに使用された場合に、保健衛生上危害を生ずるおそれがあるような医薬品は、国立予防衛生研究所又は国立衛生試験所の検定に合格したものでなければ、販売、授与等が禁止される(四三条)。

6 医薬品の取扱い

医薬品の製造業者又は輸入販売業者は、その製造し、又は輸入した医薬品を、医薬品の製造業者以外の者に販売、授与するときは、医薬品を収めた容器又は被包に、いつたん容器等を開いた後には容易に原状に復することができないように封を施さなければならない(五八条)。医薬品の容器、添付文書等には、その取扱いの適正と品質の確保を図るため、一定の事項を記載することが要求されており、これらの事項は、見やすい場所に、邦文により、一般使用者に分りやすく記載されていなければならない(五〇ないし五三条)。尚、これらの事項以外の事項をもあわせて記載することはさしつかえないが、虚偽若しくは誤解を招くおそれのある事項又は保健衛生上危険な用法等の記載は禁止されている(五四条)。

まず、直接の容器又は被包には、原則として、以下の事項が記載されていなければならない(五〇条)。

製造業者又は輸入販売業者の氏名及び住所(一号)

日本薬局方医薬品にあつては局方名、日本薬局方外医薬品にあつては、一般的名称があるときはそれ、ないときは承認を受けた販売名(二号)

製造番号又は製造記号(三号)

重量、容量又は個数等の内容量(四号)

日本薬局方医薬品にあつては「日本薬局方」の文字及び局方において直接の容器等に記載するよう定められた事項(五号)

製法、品質等につき基準が定められた医薬品にあつては、その基準において直接の容器等に記載するように定められた事項(六号)

日本薬局方外医薬品にあつては、有効成分の名称及び分量(有効成分が不明のものにあつては、その本質及び製造方法の要旨)(七号)

習慣性があるものとして厚生大臣の指定する医薬品にあつては、「注意―習慣性あり」の文字(八号)

要指示医薬品として厚生大臣の指定する医薬品にあつては、「注意―医師等の処方せん・指示により使用すること」の文字(九号)

その他厚生省令で定める事項(十号)

次に、添附文書又は容器若しくは被包には、原則として、以下の事項が記載されていなければならない(五二条)。

用法、用量その他使用及び取扱い上の必要な注意(一号)

日本薬局方医薬品にあつては、局方において添附文書等に記載するように定められた事項(二号)

四二条一項の規定により、基準が定められた医薬品にあつては、その基準において添附文書等に記載するよう定められた事項(三号)

その他厚生省令で定める事項(四号)

毒薬及び劇薬については定義規定が設けられ、毒薬とは「毒性が強いものとして厚生大臣の指定する医薬品」、劇薬とは「劇性が強いものとして厚生大臣の指定する医薬品」とされ、その表示方法が法定され(四四条)、このほか、文書に基づく譲渡(四六条)、薬剤師による管理の行なわれない医薬品の販売業者に対する開封販売の制限(四五条)、一四才未満の者等に対する交付の制限(四七条)、他の者と区別し、かつ鍵をかけて貯蔵、陳列すべきこと(四八条)等、その性質上特に厳しい規制がなされている。

要指示医薬品についても、医師等の処方せんの交付又は指示を受けた者以外の者に対して販売が禁止される等の規制が行なわれ(四九条)、その表示が法の規定に適合しない不正表示の医薬品は、模造品及び無許可製造品とともに、その販売、授与等が禁止されているが、成分、分量が品目毎の承認の内容と異なるもの、基準に適合しないもの、異物が混入しているもの、その品質が不良な医薬品及び容器等が不良な医薬品等について、その販売、製造等が禁止されている(五五ないし五七条)。

7 医薬品の広告

医薬品の広告は益々盛んになつてきているが、一般国民のうちには医薬品に関する知識に乏しく、その鑑別能力の十分でないものも少なくなく、虚偽誇大の広告でこれを惑わすときは適正な医療を阻害し、保健衛生上支障を生ずるおそれがあるので、何人も虚偽又は誇大な記事を広告することが禁じられている(六六条)。

次に、現行薬事法は新たに、癌その他の特殊疾病用の医薬品の当該特殊疾病に関する広告は、政令で医薬関係者以外の一般人を対象とする広告方法を制限する等、当該医薬品の適正な使用の確保のために必要な措置を講ずることができるとされた(六七条)。これは、これら特殊疾病に決定的効果を期待できる医薬品がないこと、使用方法がむずかしく、かつ、副作用が強いため素人療法が特に危険であること等の理由によるものである。又、品目毎に製造の承認を要する医薬品の承認前の広告についても、新たに禁止されることになつた(六八条)。承認前にはその物の内容が不明であつて、広告の適正を期するすべがなく、当然の措置である。

8 監督

監督については、厚生大臣又は知事による医薬品製造業者、販売業者等に対する報告命令、薬事監視員による立入検査、質問、試験用分量の収去(六九条)、不良医薬品等の廃棄命令等(七〇条)、医薬品の検査命令(七一条)、構造設備の改繕命令、その間の施設の使用禁止命令(七二条)、薬事法違反者等に対する許可の取消しや、業務停止命令(七五条)等従来とほぼ同様の規定が設けられたほか、新たに、医薬品製造管理者に法令違反行為があつた場合等のその管理者の変更命令(七三条)や、配置販売業の配置員に法令違反行為があつた場合等の、その業者又は配置員に対する業務停止命令(七四条)を発することができると規定された。

厚生大臣又は知事が、管理者等の変更命令(七三条)、医薬品製造業者等の許可の取消しや業務停止命令、許可の更新拒否等をするときは、予めその相手方に理由を通知し、弁明及び有利な証拠提出の機会を与えることとされた(七六条)のも、その趣旨はほぼ従前と同様である。

9 その他

尚、現行薬事法は新たに、許可又は承認には、条件を附することができるし、この条件には保健衛生上の危害の発生を防止するため必要最少限度のものに限り、かつ、許可を受ける者に不当な業務を課することとならないものでなければならない(七九条)と明記された。

10 薬事法施行規則による定め

右規則二〇条、二七条は、日本薬局方外医薬品の製造・輸入の承認(法一四条一項、二二条)、その承認事項の一部変更の承認(同条二項、二二条)について必要と認めて厚生大臣又は知事が医薬品若しくはその原料の見本品、基礎実験資料、臨床成績その他の参考資料の提出を求めたときは、申請者は、当該参考資料を同大臣又は知事に提出すべきことを命じている。

三現行薬事法下の薬務行政の実例

〈証拠〉及び弁論の全趣旨(被告国の主張)によれば、現行薬事法下における薬務行政の実例で注目すべきものとして、以下のとおり認められる。

1 薬剤師法及び薬事法の施行について

右標題の昭和三六年二月七日厚生省発薬第五一号各都道府県知事あて厚生事務次官依命通達によれば、右両法の制定につき、「……薬剤師の任務の明確化、医薬品等に関する規制の整備等により、国民の保健衛生の確保を図るため、……」と解説している。

2 昭和三七年医薬品製造指針

昭和三五年五月一二日の新医薬品特別部会において新医薬品製造許可申請書添付資料の基準が承認され、その後右基準が、現行薬事法下でも審査方法の内規として用いられるようになつた。右基準の内容は、承認申請の手引書として初めて公刊されたもので、厚生省薬務局監修になる「医薬品製造指針(一九六二年版)」(昭和三七年四月五日発行、丁第七九号証)に登載されているが、添付資料につき概略以下のとおり記載されている。

① 基源または発見の経緯に関する資料

これは申請された品目の判断を容易にするもので、出来得る限り提出するようにすべきである。

② 構造決定など物理的、化学的基礎実験資料

これを知ることは、医薬品としての認定に際して基本的なことで、特に新医薬品の場合、臨床及び薬理試験にのみ気をとられ、比較的軽視される傾向がみられるので、この点よく注意すべきことである。

③ 効力及び毒性に関する基礎実験資料

当該資料中主要なものについては原則として専門の学会に発表、又は学会雑誌或いはこれに準ずる雑誌に掲載され、もしくは掲載されることが明らかなものであることが必要である。

効力に関する基礎資料については、その申請品目により相違するが、少なくとも期待している効能(申請効能)があると認められるような薬理実験のほか、関連ある基礎資料があれば成可く多く提出するよう心がけるべきである。毒性に関する資料については、その申請品目によつて急性毒性資料のみでもよいが、長期間連用されるものは必ずしも慢性毒性資料も考慮すべきである。なお、その試験については経皮、経口、腹腔内注射その他の投与方法による試験がある。

④ 臨床実験に関する資料

二か所以上の十分な施設がある医療機関において、経験ある医師により、原則として合計六〇例以上について効果判定が行なわれていること。なお、当該資料中二か所以上は専門の学会に発表し、又は学会雑誌或いはこれに準ずる雑誌に掲載され、もしくは掲載されることが明らかなものであることを要する。

⑤ その他の参考資料

外国文献を資料として使用する場合は、当該文献の写し及びその邦訳を添付すること。

3 医薬品等製造承認特別審査について

右標題の昭和三七年九月二〇日薬発第四九三号各都道府県知事あて厚生省薬務局長通知によれば、薬事法七八条二項に基づき、同法一四条一項(二三条において準用する場合を含む。)による承認のための審査につき特に費用を要する場合、及びこの場合において承認を申請する者が納めるべき手数料に関し、薬事法施行令の一部を改正する政令(昭和三七年九月一四日政令第三五八号)及び薬事法施行規則の一部を改正する省令(昭和三七年九月一四日厚生省令第四一号)が公布され、それぞれ昭和三七年一〇月一日から施行されることとなつたことに鑑み、以下の点に留意するように指示している。

① 特別審査は医薬品製造承認申請書に記載された「規格及び試験方法」のうち試験方法の適否について、試験研究機関(主として国立衛生試験所)において実地に検討を行なうものであり、これによつて「規格及び試験方法」の審査を適正ならしめ、医薬品の品質の確保を図るものであること。

② 特別審査の対象品目として薬事法施行規則六四条の二の各号に掲げられた医薬品は、いわゆる新医薬品と解熱鎮痛剤であるが、この選定は医薬品を新医薬品とその他の医薬品に大別し、新医薬品を特別審査の対象に定めるとともに、その他の医薬品についても規格及び試験方法を実地に検討する必要性が強いものから順次特別審査の対象に定め、審査能力に応じて、いまだ「規格及び試験方法」の確立していない医薬品のすべてに特別審査を及ぼす方針のもとに行なわれたものであること

4 医薬品の安全確保の方策について

右標題の昭和三八年四月三日薬発第一六七号各都道府県知事あて厚生省薬務局長通知によれば、医薬品の胎児に及ぼす影響等については、昭和三六年(一九六一年)一一月西ドイツにおいて妊婦のサリドマイド服用が奇形児を生ずる疑いがあると報ぜられて以来、医薬品特にサリドマイド製剤と奇形児出産との関連の有無が世界的な問題となつたため医薬品の安全確保の方策について種々検討を重ねてきたが、差しあたり、今後新医薬品の承認審査に当つては、胎児への影響も併せて考慮することとし、これがため原則としてすべての新医薬品については、申請者から従来の基礎実験に加えて当該医薬品の胎児に及ぼす影響に関する動物試験成績の提出を求めるとされ、これに基づいた昭和三八年四月三日薬製第一二〇号各都道府県衛生主管部長あて厚生省薬務局製薬課長通知によれば、右動物試験法につき、医薬品がその本来の作用と別に胎児に及ぼすおそれのある影響について、あらかじめ動物を用いて試験する趣旨で、①動物の種類をマウス、ラツトおよびウサギなどのうち二種類以上とすること、②投与量は大量および小量によること、③群は妊娠動物数を一〇匹以上とすること、④投与期間は交尾後一週間前後から一定期間連続投与すること、⑤検査は出産前及び出産後離乳期までのものについて行なうこと、検査項目は、外形、骨格、産仔数その他とすること、とされた。そして、右局長通知と殆ど同旨の厚生省薬務局長通知「医薬品の安全確保の方策について」が昭和四〇年四月三日薬発第一六七号で各都道府県知事あて発せられ、それに基づいた同年五月二八日薬製第一二五号各都道府県衛生主管部長あて厚生省薬務局製薬課長通知が発せられたが、それは①動物数を一群の妊娠動物は種によつて数匹以上二〇匹程度としたこと、②投与時期を感受期を含む一定時期投与すること、③検査は出産前のものについて行ない、検査項目は外形、骨格その他とすること。但し、薬物の種類によつては出産後一定の発育時期までのものについても行なうこと、とされた以外は昭和三八年の右課長通知と同じであつた。

5 アンプル入りかぜ薬の販売自粛について

主として昭和四〇年二月下旬から三月上旬にかけて、アンプル入りかぜ薬を飲んだ者がシヨツク死する事件が続出し、右の一か月間で一〇名以上が死亡した。(大阪府医師会の調査によれば、昭和三九年一〇月から翌年四月まで七〇二名の中毒患者を診察し、内六二名が意識混濁、失神、胸内苦悶、呼吸困難等の重症患者であつたと伝えられている。)厚生省薬務局長は、昭和四〇年三月一日薬発第一六九号「アンプル入りかぜ薬の販売自粛について」と題する通達を発し、製薬業界に対するアンプル入りかぜ薬の回収を指導し、同業界もこれに従つた。同年五月七日には、中央薬事審議会(刈米達夫会長)は厚生大臣に、アンプル入りかぜ薬の製造販売の禁止を答申し、厚生省もこれをうけて同年五月薬務局長通知でもつて、その製造、販売の中止措置を講じた。

6 昭和四一年改訂版医薬品製造指針

厚生省薬務局監修の「医薬品製造指針(一九六六年改訂版)」(昭和四〇年一一月二〇日発行)によれば、項目としては前記2の昭和三七年医薬品製造指針のそれに「胎仔試験に関する資料について」が付加され、「効力及び毒性に関する基礎実験資料」の項では、解説として、「毒性に関する資料については、急性毒性資料のほか、慢性毒性資料も考慮すべきである。急性毒性についてはLD50測定のほか、その中毒、病理学的所見をも詳細に記載し、その他使用動物についても一種類のみでなく、なるべく多くの種類の動物による結果が得られることが望ましい。慢性毒性についてはその試験のもつ意味からみて、単に或る一定量のみの試験だけでなく、出来得る限り投与量を段階的にとり、期間も少なくとも三か月、必要と認められる場合には六か月以上継続すべきである。また、体重曲線のほか、その組織学的所見として脾、甲状腺、肝、心筋、肺、腎、副腎、腸管、骨髄等出来得る限り広範囲に調査すべきである。これら毒性試験において、異常と思われる所見が得られた場合には、更に精密な観察とそれに対する考察が加えられていなければならない。なお、投与法については経皮、経口、腹腔内注射その他の方法があるが、当該製剤の投与法だけでなく、各種の投与経路において実験することが望ましい。」とされ、「臨床実験に関する資料」の項では、解説として、「例数は少なくとも五か所一五〇例程度の症例を蒐集することが望ましい。」とされ、昭和三七年医薬品製造指針よりはるかに厳しい内容のものになつた。

7 医薬品の製造承認等に関する基本方針について

(一) 右標題の昭和四二年九月一三日薬発第六四五号、昭和四六年六月二九日薬発第五九一号一部改定各都道府県知事あて厚生省薬務局長通知により、従来から慣行上行なつてきた方針の一部と今回新たに決定した方針と併せて定めた行政方針を、必要部分につき指摘すると以下のとおりである。

① 医薬品の製造承認の申請者は、原則として次の資料を提出するほか、輸入医薬品にあつては、当該医薬品の輸出国における製造承認証明書又はこれに代わる資料及び輸入契約書又はこれに準ずる資料を提出しなければならない。

資料

番号

解説

1

医薬品についての起原又は発見の経緯及び外国での使用状況等に関する資料

2

医薬品についての構造決定、物理的・化学的恒数及びその基礎実験資料並びに

規格及び試験方法の設定に必要な資料

3

医薬品についての経時的変化等製品の安定に関する資料

4

急性毒性に関する試験資料

5

亜急性及び慢性毒性に関する試験資料

6

胎仔試験(人体に直接使用しない場合を除く)その他特殊毒性に関する資料

7

医薬品についての効力を裏づける試験資料

8

一般薬理に関する試験資料

9

吸収、分布、代謝及び排泄に関する試験資料

10

臨床試験成績資料(精密かつ客観的な考察がなされているものであること。)

② 医薬品の製造承認にあたつて、薬務局長が必要と認めたときは、申請者に対して当該医薬品の使用上の注意等の案の提出を求めることができる。

③ 提出を求められた資料のうちの主なものは、原則として、日本国内の専門の学会若しくは学会誌に発表され、又はこれらに準ずる雑誌に掲載され、若しくは掲載されることが明らかなものでなければならない。

④ 日本薬局方医薬品及び製造承認を受けている医薬品のいずれにも有効成分として含有されていない成分をその有効成分として含有している医薬品又は既に製造承認を受けている医薬品の薬効と明らかに異なる薬効を有すると認められる医薬品ごとに新たに製造承認を与えられた者は、当該医薬品の製造承認を得たのち、少なくとも三年間は当該医薬品を使用した結果生じたとみられる副作用に関する情報を収集し、これを薬務局長に報告しなければならない。

(二) 右第六四五号薬務局長通知の取扱いについては、昭和四二年一〇月二一日薬発第七四七号各都道府県知事あて厚生省薬務局長通知により定められたが、必要部分を指摘すると、以下のとおりである。

① 医薬品の製造承認(輸入承認を含む。以下同じ。)申請に当つては、次に定めるところにより資料等を提供させるものとすること

② 当該申請に係る医薬品が、前項の区分に該当する医療用医薬品(毒薬・劇薬、医師のみの使用が適当な医薬品等)であるときは、添付文書又は直接の容器、被包に記載する「使用上の注意」のうち、禁忌症、副作用、その他特別な警告事項に関する案

③ 医薬品の製造承認の審査については右の①に定めた資料等に基づき審査を行なうが、医療用医薬品として申請されたものが、既に承認済みの医薬品と同一成分であつても、その用量を変更することによつて同種の他の医薬品に比較して大量投与と認められる場合には、その大量投与の効果と安全性を証明する精密、かつ、客観的な臨床試験に関する資料が提出されていないときは認めないものとする。

④ 新開発医薬品の承認・許可を受けた製薬企業は、当該医薬品を使用した結果発現したと思われる全ての副作用につき、承認時判明している副作用については、その頻度・程度が著しく変化した場合、又承認時判明していなかつた副作用については別に定める様式により詳報を、それぞれそのつど直接薬務局長に報告するものとし、この副作用報告については薬事法七九条に基づく条件として課するものとすること。

8 アミノ塩化第二水銀(白降汞)を含有する製剤等の取扱いについて

この医薬品は長期連用に伴う皮膚障害の多発という副作用をもたらすことから、昭和四四年(一九六九年)七月二三日薬発第五六二号各都道府県知事あて厚生省薬務局長通知でもつて、今後製造・輸入承認を与えないこと、既に承認・許可済みの白降汞含有製剤は、医師の指導監督下で使用されることが目的とされている医薬品以外のもの(以下「白降汞含有一般製剤」という。)を製造している者については可及的速かにその製造を中止させるものとし、かつ、遅くとも同年八月末日までに薬事法一四条一項に基づく製造承認申請及び同法一八条に基づく製造品目変更許可の申請又は当該品目について同法一九条に基づく製造品目の廃止の届出を行なわせること、当該製造業者が同日までに自主的に右措置を講じない場合は、当該品目について製造及び輸入の承認及び許可の取消処分を行なう方針であること、現在市販中の白降汞含有一般製剤については、同年末を目途として販売中止を行なわせること等を通知した。

9 シクラミン酸カルシウム及びシクラミン酸ナトリウムを含有する医薬品等の取扱いについて

これらの医薬品は毒性について問題のある情報が内外から報告され、発がん性の報告もアメリカより入手されたため、昭和四四年(一九六九年)一〇月三〇日薬発第八四九号各都道府県知事あて厚生省薬務局長通知により、右医薬品を成分として配伍する医薬品等の製造・輸入は今後承認しないものとし、既に製造・輸入の承認・許可済みのものは、今後その製造を中止させること等が通知された。

10 キノホルムを含有する医薬品の取扱いについて

そして、前記のとおり昭和四五年九月八日薬発第七八七号各都道府県知事あて「キノホルム及びキノホルムを含有する医薬品の取扱いについて」と題する厚生省薬務局長通知が発せられ、右医薬品の販売中止、使用中止の周知徹底方等が指示されたのである。

11 薬効問題懇談会の答申と医薬品再評価の実施

化学療法剤、ペニシリン等抗生物質等の優れた医薬品の出現は、医薬品に対する過信にもなり、一部に医薬品の濫用という風潮を招いたが、昭和三六年(一九六一年)のレンツ博士の警告の前後数年にわたつたサリドマイド事件(催眠剤のサリドマイド系剤を服用した妊婦から西ドイツ、イギリス、日本等で多数のあざらし肢症児が生まれた事件。日本だけでも約一〇〇〇人のサリドマイド児が出生し、内約二〇〇人が生存している。)、昭和四〇年(一九六五年)の前記アンプル入りかぜ薬事件などは、医薬品の特殊毒性についての追求の契機や薬務行政及び一般国民の医薬品使用に対する一大警告となり(勿論、後にサリドマイド系剤やアンプル入りかぜ薬の販売中止措置が厚生省によりとられ、市場から姿を消すことになつた。)、医薬品についての有効性及び安全性の再検討は喫緊の課題となり、厚生大臣は対象とする医薬品の範囲及び実施方法を如何にするかについて、薬効問題懇談会を設置し、意見を求めることになつた。同懇談会は昭和四六年(一九七一年)七月答申をだし、同年一二月からそれに基づいて、当局による薬効の洗い直しが開始されることになり、昭和四六年一二月一六日薬発第一一七九号各都道府県知事あて厚生省薬務局長通知「医薬品再評価の実施について」を発せられた。

12 医薬品の副作用報告

これについては、国内では昭和四一年度より医薬品副作用モニター制度を発足させ、臨床機関において発見する副作用情報を収集し、国外の医薬品情報については、主として世界保健機関(WHO)を通じ、情報入手に努めてきたが、この副作用情報の収集をより広い範囲に行なうため、①未知の副作用 ②既知の副作用であつて、重篤なもの ③既知の副作用であつて、その副作用の発生頻度、程度、症状などが従前知られているものと著しく変化したものについての薬務局長宛報告を義務づけた(昭和四六年一一月一五日薬発第一〇五九号厚生省薬務局長通知)。

13 副作用情報と行政措置

厚生省は、収集された副作用情報について、適切な評価を行なつた後、副作用の種類や重篤度に応じて、昭和四九年(一九七四年)現在次の行政措置を講じている。(既述分との重複をいとわない。)

① 添付文書(能書)に記載すべき使用上の注意事項を、適切なものに改訂させる。

② 用法、用量、効能及び効果について検討を加え、それぞれについて承認事項の一部変更を行なわせる。

③ 大衆薬の場合については、その流通過程に検討を加え、医療用としてのみ流通させるか、要指示医薬品又は毒薬に指定するなどの規制を行なう。

④ 重篤な副作用の発現が明らかになり、当該医薬品の存在意義が問題とされるときは、製造又は販売の禁止等の措置を採る。

なお、これらの行政措置別に主な事例を掲げると次表のとおりである。

表  各行政措置別副作用事例

措置の内容

(一)

使用上の注意事項を改定させたもの

(二)

用法、用量又は効能、効果を変更させたもの

(三)

販売方法について規制措置を講じたもの

(四)

製造、販売の中止の措置を講じたもの

主な事例

(一) クロラムフエニコールの副作用(血液障害等)についての情報に基づき、薬務局長通知で使用上の注意事項を改定させた

(昭和四三年八月)。

(二) エタンブトールの新しい副作用(精神障害)の発現により使用上の注意事項を改定させた(昭和四五年一二月)。

(三) アンジニンの新しい副作用(肝障害)の発現により、使用上の注意事項を改定させた(昭和四五年一二月)。

(四) ホウ酸の副作用(過敏症)についての情報に基づき、昭和四六年三月薬務局長通知で使用上の注意を改定させた。

(五) チアンフエニコールの長期使用による末梢神経障害と血液障害の報告があつたため、使用上の注意事項を改定させた(昭和四九年一〇月)。

(一) ナフアゾリン含有点眼薬の乱用による二次充血の副作用が問題となつたため、一般用医薬品の場合、ナフアゾリンの配合濃度を0.003%以下にするよう行政指導した(昭和四一年三月薬務局長通知)。

(二) 甲状腺製剤がやせ薬として乱用され、精神障害の副作用が報告されたため、「肥満症」の効能を削除させた(昭和四一年三月薬務局長通知)。

(三) アルキルベンジルトリメチルアンモニウムクロライド含有外用剤について、皮膚障害の副作用が報告されたため、化粧品的効能を削除し、使用上の注意事項の記載を指導した<

(昭和四五年一二月)。

(一) 甲状腺製剤の乱用を防止するため、要指示薬に指定した

(昭和四一年二月)。

(二) クロロキン製剤について眼障害の副作用が問題となつてきたため、要指示薬に指定した

(昭和四二年三月)。

(三) シクラミン酸塩に発がん性が疑われたため、適用を制限するとともに、要指示薬に指定した

(昭和四五年六月)。

(四) ニトラゼパム及びメタカロンについて薬物依存性が認められたため、要指示薬に指定した

(昭和五〇年一月)。

(一) アンプル入りかぜ薬(死亡事故の事例が続出したため、昭和四〇年五月薬務局長通知)

(二) 塩化ビニルモノマーを含有するスプレー式殺虫剤(塩化ビニルモノマーに発がん性が認められたため、昭和四九年六月薬務局長通知)

(三) ウレタンを含有する医薬品(ウレタンの発がん性について動物実験で新たな知見が得られたため、昭和五〇年七月薬務局長通知)

14 医薬品再評価が終了した単味剤たる医療用医薬品の取扱いについて

これについては、昭和四八年一一月二一日薬発第一一四一号各都道府県知事あて厚生省薬務局長通知により、次のとおり取扱われることとなつた。

① 有用性を示す根拠がないものと判定された医薬品に対する措置

日本薬局方医薬品については、日本薬局方から当該医薬品を削除する。

日本薬局方外医薬品については、当該医薬品の製造(輸入)承認及び当該医薬品にかかる製造(輸入販売を含む。以下同じ)業の許可の取消しを行なう。

② 有用性が認められるもの及び適応の一部について有用性が認められるものと判定された医薬品に対する措置

日本薬局方医薬品については、今後表示できる効能又は効果並びに用法及び用量(以下「効能効果等」という。)を再評価結果によつて認められた効能効果等とする。

日本薬局方外医薬品については、その効能効果等を再評価結果によつて認められた効能効果等とし、承認事項の一部変更承認申請に基づく承認は必要のないこととする。

右取扱いに則り、実際の措置として、有用性を示す根拠がないものと判定された医薬品に対しては、市場に流通している医薬品について当該医薬品の製造業者に対し、すみやかに回収措置を講じさせることが指示された。

15 医薬品再評価に伴う単味剤たる医療用医薬品に関する監視指導上の措置について

これについては、昭和四八年一一月二八日薬監第三二三号各都道府県衛生主管部(局)長あて厚生省薬務局監視課長からの措置が指示されたが、それによると、有用性を示す根拠がないものと判定された医薬品は、

① 再評価結果の通知(以下「通知」という。)後、直ちに当該医薬品の製造(輸入を含む。以下同じ。)は禁止される。通知後製造を行なつた場合には、薬事法一二条一項、一八条一項(二三条において準用する場合も含む。)又は二二条一項違反として措置する。

② 通知前に製造された製品については、通知後直ちに販売を中止し、できるだけ速やかに、少なくとも通知後一か月以内に市場から回収しなければならない。

③ 通知後直ちに、当該医薬品の広告は禁止される。通知後新たに広告を行なつた場合には、同法六八条違反として措置する。

16 医薬品再評価の実施結果

前記の諸方針に従つて実施された薬効再評価結果は、逐次厚生大臣あて中央薬事審議会から答申され、昭和四八年(一九七三年)一一月さしあたり抗菌製剤と精神神経用剤の一部六五一品目についての再評価結果がでたが、それによると有用性を示す根拠がないとして、一三メーカーの二七品目の製造販売中止と在庫回収が指示され、又、「適応の一部について有用性が認められる」と判定された三七四品目の効能書きの不当表示を一か月以内に変更させることにした。この再評価にあたつては、六八社の一四〇品目には申請さえもだされず、その製造承認は取り消されることになつた。

翌昭和四九年七月にはビタミン等代謝性製剤評価結果がでたが、有用性を示す根拠がないものとされたのが八九品目にも及んだ。

四まとめ

1  このように、現行薬事法は旧薬事法以上に、医薬品に関する規制を詳細にし、かつ、厳しい内容となつており、監督や、罰則の内容も、一段ときめ細かくなつているのである。

2  しかも、その上に現行薬事法下の薬務行政は、旧薬事法下のそれに比し、国民各自の生命・健康の保全に対して医薬品安全性の確保を介して、より充実したものを展開しておることが窺えるのであり、そのうえ右(三の14・16)のとおり、医薬品再評価に伴い昭和四八年一一月有用性を示す根拠がないものと判定された医薬品につき、それが日本薬局方医薬品であれば、当該医薬品の日本薬局方からの削除、それが日本薬局方外医薬品であれば、当該医薬品の製造(輸入)承認及び当該医薬品にかかる製造(輸入販売)業の許可の取消し(講学上の撤回)の行政措置をとることを薬務局長が通知し、又、実際にも、製造承認の撤回を幾つかの品目についてとつているのである。右に先だつ昭和四四年薬発第五六二号薬務長局通知でも、白降汞含有製剤につき、安全性に問題ありとして、製造中止等を命じ、自主的に応じない者に対しては、当該品目について製造、輸入の承認・許可の取消処分を行なう旨指針を示してさえいたのである(三の8参照)。

3  このようにみてくれば、現行薬事法が旧薬事法以上に、国民個々人に対する医薬品安全性確保義務を被告国に課していることは疑う余地がない。

4  〈証拠〉によれば、サリドマイド事件について、昭和四三年(一九六八年)五月厚生大臣園田直(当時)が参議院社会労働委員会において、次のように答弁していることが認められるが、これは、被告国の医薬品安全性確保義務を考える上で示唆的である。

「これはここで、はつきり厚生省が反省をし今後の問題を明確にしたいと思います。第一は薬というものを機械的・理論的に許可することはよくないのであつて、やはり理論的な上に動物実験・人体実験・臨床実験を経て、万間違いないと言う場合に始めて許可すべきものであつて、しかも病気の治療であるとか、生命を救うために、万止むを得ないという薬なら別でありますが、鎮静剤でありますとか、睡眠剤というものを許可したことについては、厚生省は非常に責任があると思います。第二番目にはドイツで昭和三六年にこういう奇形児が出るということが発表になつたと同時におかしいと思つたら、ただちに製造中止を命じて、その上で実験すべきであつた。

調べてみますとそう言う事実を知り、厚生省の方では、大学に頼んで動物実験をやつているようでございます。その間しばらく見送つておつた。そして製造中止を命じておる。次に販売中止をやつておる。この二つの手抜かりがあつた。率直に製薬会社と、これを許可販売させた厚生省およびこういう事件が起つたあとの処置についての厚生省の責任を私は痛感しており、これに対する処置をしなければならないと思います。

それで、まずこの際に、明確にしなければならないことは、正直いつて許可した場合、それからその後の処置について、あいまいな責任のがれの言葉を言つておりますが、たとえ訴訟になつておりましようと、おりませんとも、政府と製薬会社がその責任をとつて、今後の措置をそれぞれやるべきと考えます。」

5  右に述べたように、現行薬事法上も被告国の医薬品安全性確保義務が認められる以上、現行薬事法下でスモンに罹患した原告患者らが、それによつて被つた損害の賠償を被告国に請求することができることは疑問の余地がない。

第一〇  結論

一結び

以上の次第であるから、結局原告らの被告国に対する損害賠償請求は、後記認定の限度で理由があるものといわなければならない。

二付論―被告会社と被告国の法的帰責原因の相違

被告会社の帰責原因の背景に報償責任・危険責任の法理があるのに対し、被告国の帰責原因の背景には危険責任的法理はあるが、報償責任的法理はなく、代わりにあるのは保証責任的思想であることは、前記第四章ないし第六章の全体を通じての当裁判所の立場である。結論的には、被害者に対する関係では、被告国も関係する被告会社と不真正連帯債務を負う関係にあることは次章で説明するけれども、右のような法的帰責原因の相違は、必然的に、本件におけるような薬害事件において、まず第一次的、かつ、究極的に責任を分担すべきは被告国ではなく、製薬業者即ち被告会社ではないか、との思惟に傾くのである。このことは、被告国が、キノホルムに関しては最初の開発者であり、製造・販売者であり、戦後その製造・販売の途を民間企業に開いた事実を考慮しても、なお変更の余地はない。原告らが最終準備書面で先ず被告国の責任を、次いで被告会社の責任を主張してきたにもかかわらず、当裁判所が先ず被告会社の責任を、次いで被告国の責任を論じたのは、右のような思惟の結果でもある。しかし、この問題は、被告ら相互の内部関係の問題に帰着し、原告らとの関係では、これ以上触れる必要性はないので、問題性の指摘にとどめることとする。

第七章  被告ら相互の責任関係

第一  被告会社相互の責任関係

一被告チバと被告武田の責任関係

後記損害各論で認定のとおり、原告患者らの中にはエンテロ・ヴイオフオルムを服用してスモンに罹患したもの又は、(或いは、かつ)再燃・増悪を来したものがいるのであるが、それが被告武田の製造許可申請にかかるものか、それとも被告チバの製造・輸入許可申請にかかるものかは必ずしも証拠上明確ではない。しかしながら、被告武田は別紙(二)キノホルム剤製造許可等一覧表(2)記載のキノホルム剤を自ら製造したことはなく、被告チバの製造・輸入にかかるキノホルム剤を販売者として販売し、或いは昭和二八年八月から昭和三六年四月まで被告チバよりキノホルム原末の支給を受けてこれを製剤(打錠、小分け)したことがあるにすぎないと主張し、被告チバも右主張につき黙認の態度をとつていることが弁論の全趣旨より認められ、これらの事実に、後記損害各論で認定のエンテロ・ヴイオフオルムを服用した原告患者らの服用時期を合わせ考えれば、そのエンテロ・ヴイオフオルムとは全て被告チバの製造・輸入にかかるキノホルム剤と推認することができる。そして、先に第五章第三の二で認定した、被告チバと被告武田の関係を考慮すれば、原告患者らのうち、右のエンテロ・ヴイオフオルムを含め、別紙(二)の(1)記載のキノホルム剤を服用してスモンに罹患した者に対する関係では製造・輸入販売業者としての被告チバと、販売業者としての被告武田とは、実質上同一体としての地位にあると見うるのであるから、両被告は共に連帯して民法七〇九条の責任を負うことになる。

二被告チバ・被告武田と被告田辺の責任関係

原告患者らの中には、被告チバ製造・輸入で被告武田販売にかかる別紙(二)の(1)記載のキノホルム剤を服用してスモンに罹患し、更に被告田辺製造・販売にかかる別紙(二)の(3)記載のキノホルム剤を服用してスモンの再燃・増悪を来して現在に至つている者や、逆に右(3)記載のキノホルム剤を服用してスモンに罹患し、更に右(1)記載のキノホルム剤を服用してスモンの再燃・増悪を来して現在に至つている者、或いは右(1)及び(3)記載のキノホルム剤を服用してスモンに罹患し、又は再燃・増悪を来した者がいることは、後記損害各論で認定のとおりである。

そして、これらの場合、右原告患者らの現在のスモン症状は、右(1)及び(3)記載のキノホルム剤が相俟つて今日の損害の全容を形成しているものといえるのであるから、被告チバ・同武田と被告田辺は相互に民法七一九条一項にいう共同不法行為者として、連帯して後記損害を賠償しなければならない。

第二  被告国と被告会社相互の責任関係

本件原告患者らは後記損害各論で認定のとおり、すべてキノホルム剤を服用したことにより、スモンに罹患し、又は(或いは、かつ)再燃・増悪を来して今日に至つているところ、そのキノホルム剤の服用を可能ならしめた被告国に国家賠償法一条一項に基づき、不法行為による損害賠償義務があることは前記した。そして、この被告国と被告会社の責任関係は、両者独自の過失に基づくものであるから、帰責に至る法的性質は先に第四章ないし第六章で詳述したとおり違つたものがみられるのであるが、損害の範囲を全く同じにするものである以上、不真正連帯債務を負担する関係にあるということができる。よつて、被告国は、当該原告につき責任を負うべき、被告チバ・被告武田と連帯し、又は被告田辺と連帯し、或いは右被告三者と連帯して、勿論、服用したキノホルム剤(の商品名)が特定できない関係で製薬会社の責任が問いえない場合は、被告国が単独で、後期損害を賠償しなければならない。

第八章  損害総論

第一  はじめに

スモンの医学的な面からみた臨床像及び病理像並びに治療及び予後については、その概略を前記した。スモンの発生機序に関する部分はなお解決すべき問題点が多く、治療法についても極めて不十分なまま長年月を推移して今日に至つていることは、多数の識者によつて指摘されているところである。スモンはその名が示すとおり、主症状は神経症状であるから外見上は普通人と見分けられない者が大部分である。しかし、その被害の深刻さと広がりのすさまじさは、当裁判所にとつても驚きであつた。原告患者らの本人尋問、供述調書等の証拠調を進めていく中で、その幾分かを体得することができた。もとより、患者及びその家族らが、一〇年、二〇年と長年月にわたつて被つてきたばかりか更に今後も又続くであろう損害の総体をすべて認識することは不可能であろう。後記損害各論では、原告患者らのスモン罹患前の略歴、キノホルム剤服用に至る経緯、スモンの発現、闘病経過、現症、まとめの順で個々の損害を認定したが、損害の総体を把握するには、原告患者らに共通してみられる訴えから、一種の共通性が見出されると思われ、損害総論をここで起すことにした。

そして、ここでの叙述は、最初に原告患者らの被害を幾つかの共通項毎に整理し直したものである。その認定に供した証拠は、損害各論で摘示している証拠のすべてであるが、適宜原告患者らの生の表現を挿入した。それは、裁判所が一般化し、抽象化した言葉で説明するよりも、はるかに真に迫つていると考えたからにほかならず、それ以上でもそれ以下でもない。必要に応じて証拠を明示特定したのは、右の趣旨からでもある。次いで、スモン被害の広がり、その他の問題点を数次にわたつて要約し、被害の深刻さと広がりをも考慮した。最後に原告らの訴えを要約した。

第二  スモンによる個々の被害

一初期の症状

1 腹部症状

殆どの原告患者らがキノホルム剤服用中に、下痢、便秘、腹痛或いはそれらの合併したもの等の後記神経症状に先立つ、いわゆる前駆腹部症状を呈している。その程度、期間は様々であり、キノホルム剤服用のきつかけになつた、いわゆる一般的腹部症状と格別異つた腹部症状の自覚のない者もいたかと思えば、それとは別に重篤な腹部症状を訴えていた者もかなりにのぼる。〈証拠〉によれば、一般的な腹部症状は、下痢なら下痢、便秘なら便秘というふうに単一の腹部症状を呈するのが普通であるが、スモンの前駆腹部症状というのは、色んな症状、例えば、激しい腹痛、腸閉塞(イレウス)様のお腹がパンパンにはつて腸が動かなくなるような状態、激しい下痢、激しい便秘等が含まれていることが認められる。

その腹痛に耐えられず、病院から痛み止めの注射をしてもらつた者は枚挙にいとまがない。それでも腹痛は容易に治らず、更に医師から開腹手術を勧められた者もいる(原告番号一一番原告岡部千代子(以下「原告番号」と「氏名」で原告患者を特定する。)、一三四番細川サキ)し、現にその手術を受けた者さえいるのである(九三番住吉キミ子、一〇六番草場重弘)。そこまでいかなくても、腹痛のために夜も寝れない日が続いたとか、ある者は医師にその痛さを訴えて逆にノイローゼ扱いされたとか、通院中の者で入院に切りかえた者等、その症状の激しさを訴えた者は数多い。

2 神経症状

(一) はじめに

前駆腹部症状が一段落し、或いはその腹部症状が持続するうちに、原告患者らは突然急激に、或いは徐々に、足から始まつて、下腿部、膝、大腿部、股(そけい)部、腰腹部と上向部位の程度に差異はあるが、順に、両側性に異常な知覚と激しい痛みを感じるようになる。四六時中襲つてきたこの異常知覚と激痛は、ことごとく原告患者らの肉体的苦痛を極限におしやり、不安のどん底におとしいれた。その異常知覚の内容と上界、時間的関係はいずれも後記損害各論で詳細に認定しているとおりである。

この知覚障害が次第に増悪し、又は改善されないうちに原告患者らすべてに下肢の筋力低下、脱力感等による歩行障害が発現してくる。殆どの者が単なる歩行困難にとどまらず、一時は歩行どころか、独力での起立すら困難におちいつた。そこで原告患者らは入院先の病院で、又は自宅で寝たきりの闘病生活に入る。そして、この歩行障害より若干遅れ、又は殆ど同時に、かなりの原告患者に両側性の視力障害が発現する。ものが見えにくくなるといつた者から失明した者まで、その程度は様々である。そのときの驚きと不安は言語に絶するものがある。

(二) 学者の説明

右の神経症状につき、学者は多数患者の診察結果を基に、それぞれ以下のとおり説明している。

(1) 井形昭弘の場合

証人井形昭弘(鹿児島大学医学部教授)の証言によれば、以下のとおりである。

「知覚障害というのは感じが鈍くなるというのが一般的であるが、スモンの場合は、ものがついている、しめつけられる、ジンジンするといつた異常知覚が特徴的で、これは患者にとつて極めて大きな苦痛で、はたからみて何ともないように見える人でも、ものすごい苦痛に耐え忍んでいるのが実情です。通常人が、長い間座つたあとに感ずるしびれを思い出すと大体想像がつくが、ああいう状態が四六時中続いているようなものです。

スモン患者には深部知覚障害を呈する者が多い。これは、足がどちらに向いているか、どういう風に力が加わつているか、例えば小指をさわつてみてこの指が何指かとわかるような神経が侵されているわけで、そうすると、じつとして立つていても倒れそうになる、倒れそうになつたという刺激が脳までいかないので倒れやすくなる。足先をつまんでも、それが何指かわからない。自分の足を組んでいるのか、のばしているのかさつぱり判らない。これがあると歩くときもしつかり歩けない、股を広くして非常に倒れやすい状態になる。

運動障害を示すものも多い。四〇%位のスモン患者に下肢の筋力低下がみられる。力が抜けてくるわけだから、しやがんだり、立つたり、又足先程ひどいから爪先立ちができないような症状がおこつてくる。脊髄の運動経路がやられていることも多い。普通上肢には症状はでないが、ある程度以上重症になると、手先に軽いしびれ、感じの鈍さ、脱力感が起こつてくることがある。

両側性の視力障害は重症者において多い。キノホルムの毒性が作用して、抵抗力の弱い視神経が徐々にやられてくる。最初は白いものが少し青ずんで見えるとか、ものが輝いてみえるというふうないわゆる色彩感覚が落ちてくることを初期に訴える者が多い。ひどい場合には視力が零になる。下肢の知覚異常は、患者の大きな苦痛になつているが、これに視力障害が加わると絶望的な気持におちいる患者が多いようである。

更に、キノホルムの急性中毒に該当するものとして、脳症状を呈する者がある。時としては気を失う意識障害、全身の痙れん、てんかん様の痙れんをおこしたり、しやべりづらくなつたり、飲みづらくなつたりすることもある。全体として、うつ状態(ふさぎこんでしまう)、ひどい場合には多少幻覚、妄想といつたような精神症状がでる者もいる。

膀胱・直腸障害を訴える者も多い。膀胱障害とは小便が出にくい、或いは出終つたと思つても又洩れてくる。知らぬ間に洩れてしまつているという状態である。直腸障害とは、排便に関するコントロールがうまくいかない、ひどい場合には激しい便秘であり、或いは大便が自然に洩れてしまつて、おしめをつけていないと困るという状態である。これらと性機能の神経支配はほぼ共通であることから、性機能の神経が侵されて、患者を大きく悩ませることも少なくない。」

(2) 豊倉康夫らの場合

〈証拠〉によれば、豊倉康夫(東京大学医学部教授)らはスモンに関する臨床神経学的研究結果を以下のとおり要約していることが認められる。

「知覚障害の特徴は、その発現の模様と経過、部位、性質のいずれにもみられる。

発現の模様と経過からの特徴は、①神経症状のうち初発症状であることが多い。②比較的急性に発現し、下肢末端より上向するものが多い。③経過は慢性で、ときに症状の悪化、再燃をみることがある。

部位的な特徴は、①ときに上肢末端にもみることがあるが、常に下肢に強い。②近位部より遠位部に強い。③両側性である。④知覚障害の上界は徐々に健常部へ移行する。

性質の特徴は、①特有な異常知覚と知覚鈍麻がある。②深部知覚障害、二点識別覚障害を伴うことが多い。③下肢末端に、強い冷感を伴うことが多い。④長時間の起立、歩行、運動後に増強することが多い。

脳症状、精神症状を呈することも稀ではなく、末梢神経、脊髄長神経路、視神経、自律神経系の症状と並んで、スモンの臨床上見逃し得ない重要な症状である。スモン患者三〇三例の経過中、何らかの脳症状、精神症状を呈したものは四七例(15.5%)に達した。特に意識障害、失神発作、痙れん、複視、球症状(構音障害、嚥下障害、呼吸障害)、著明な精神症状(うつ状態、神経症様症状、不眠、記銘力障害等)が注目される。

(3) 安藤一也(名古屋大学第一内科講師)、祖父江逸郎(同助教授)の場合

〈証拠〉によれば、右両名は以下のとおり説明している。

「腹部症状にひきつづいて下肢末端部のしびれを生じ、それは左右対称性に上向してそけい部ないし臍部に達し、表在及び深部知覚はともに下肢末端部ほど障害が強く、知覚障害の上界は鮮明ではなく、次第に正常部に移行する。また下肢末端部ほど強い特異な異常知覚を訴え、これは頑固で難治性で患者を悩ます。このような知覚障害はスモンでは必発の核心的な神経症状である。

下肢麻痺や視力障害は必発ではないが、かなり多くの例に見られる。下肢の深部反射は一般に亢進するものが多い。上肢が障害されることは少なく、視神経以外の脳神経は稀に障害されるにすぎない。……

スモン患者は病初から特異な異常知覚を覚える。足部に関しては、足の裏に「餅がついている」「厚いゴムが貼りついている」「硬い革がついている」「粘土がついている」「ベニア板が貼つてある」等の足裏に厚いもの、硬いものがついた感じと、「足指がくつついてしまつている」「窮屈な靴をはいている」「ゴムの足袋をはいている」「足首がひきしまつて縮まる」等の足が硬くなり、しめつけられるような感覚が特徴的である。ほかに、足の冷感、腫れぼつたい感じも頻度が高く、ひきしまつて縮まる感じが強いと痛みとして感じられる場合も多い。足に衣類や布団がふれたり、足底を刺激すると耐えられない痛みが誘発されることも稀ではない。

下腿及び大腿部は「何かでしめつけられる」「つつぱる」「石膏で固まつている」「ギブスをまいたよう」等の硬くなつた感覚が主で、足同様にこの感覚の強いものは痛みとして感じ、実際に腓腹筋などはかなり硬くなつている例もある。

こうした異常知覚は下肢を動かしたり、歩行したりすると増強し、痛みも強化される。しかし逆に関節リウマチ様の朝の下肢の硬ばりが強く、下肢を動かした方が楽になるという者もある。又、足や下腿の冷感も実際の皮膚温低下以上に著明で、夏でも何枚も厚い靴下をはいたり、コタツを入れている症例はかなり多い。

このような異常知覚は難治性で長期にわたつて患者を苦しめ、下肢の知覚障害を呈する他の神経疾患に比し極めて特徴的なものである。

四割近い症例にかなり強い下肢の失調もみられている。

下肢の麻痺(筋力低下)は約半数に認められる。下肢完全麻痺は約一五%にみられる。起立不安定、歩行障害の頻度は高いが、これは下肢麻痺よりも失調による方がより一般的である。下肢麻痺は知覚障害に比べると回復しやすい。独歩不能例の過半数は三か月以内に独歩可能となる。……」

(三) 初発症状の苦悩

右に述べた種々の初発症状はすべての原告患者らに、短期間のうちに、重畳的に発生したのであり、その肉体的苦痛と精神的苦悩の甚大さは、計り知れないものがあつたように思われる。この時期に殆どの原告患者らが自殺のことを考え、ある者は自殺未遂までおこしている。自殺未遂までおこした者は後記各論で一応指摘しているが、自殺を考えながら結局思いとどまつた者はあまりに多数にのぼるため、一々指摘するのは省略した程である。この一事をとつても、原告患者らの初発症状の肉体的苦痛、精神的苦悩の深さを汲取ることができる。

(四) 原告患者らの訴え

種々の神経症状がどういうものとして原告患者に体験されたかを知るには、何人かの原告患者らの訴えを再現する以上に的確な表現方法はない。そこで数人の原告らの声に耳を傾けてみる。

(1) 七番宮津三紀子

「だんだん上の方へ上つて腹部からやがて胸部までしびれてきました。いつもジンジンと針で刺すような痛み、足をロープでしばりねじり上げられ、しめつけられるような痛みが続きます。……やがて全く立つことも歩くことも出来なくなりました。足はベツドの上でいつも冷えて氷のように冷たく、どんなにアンカを入れても暖まりません。そのくせ、ぬるいお風呂がとても熱く感じます。また、一寸した振動が体にひびき、痛みとなつて体にこたえてきます。フトンの重さですら痛く感じて、フトンもかけられませんでした。……(そのうち)頭痛、耳鳴がしてくる。一人で寝返りができない。両手の指先もしびれてきて、食事のときお茶わんもお箸も持てず、みかんの皮もむけなくなりました。時々息をつくのも苦しく、あごもガクガクと引きつつたようになつて、言葉をしやべろうと思つても吃る有様です。……足から腹、胸までのジカジカする中で夜も眠れず、この先どうなるか不安で生きた心持はしない、もう死んでしまうのだろうと思い、このころは毎日毎日泣いていました。)(原第七号証の三)

(2) 一〇番井上美知子

「ジンジンする不快感は乳せんまでに達し、嘔吐しては意識をなくしておりました。寝返り一つ出来ず、入院以来電気毛布を使用し、扇風機の風が当ると痙れんをおこすようになりました。両足は冷たさを通りこし、火の付いた真赤な木炭を押し当てたような火傷に似た痛みというのでしようか、余りの苦しさに足を切りとつて下さいと、幾度言つたことでしよう。」(原第一〇号証の三)

(3) 四八番白尾サトリ

「発病して二九日目の昼頃、臍から下、特に内股の方が針でえぐりとられるような耐えられない痛みがおき、夕方頃になると、このひどい痛みは足から下半身全体に襲いかかつてきた。起立歩行が全く不能となり、寝たつきりとなり、食欲もなくなつた。……足の痛みが口では言えない程ひどく、吉田先生に足を切つて下さい、メスを入れて下さいと大声で叫び続けた。メスを入れると中から何か化膿したようなものが出てきて気持が良くなるような気がしたからです。」(原第四八号証の三)

(4) 八九番山本松子

「両側の下肢もシビレがひどく、キリでつつくような痛みが昼夜なくおそつてきました。足の裏には、小石や砂がついて長靴をはいた重々しいような感覚でしたし、又立てば足の裏は剣山の上を歩いている様な痛みで、床につけば腹の痛み、私は主治医に「この様に毎日が苦しむのだつたら、いつそのこと足を切りおとして下さい。」と何度も頼みました。」(原第八九号証の三)

(5) 一二五番大塚トキエ

「しびれ感は膝より上り、足を母になでたりさすつたりしてもらうと、ビリビリして電気が通つているようでした。お布団に座つている時も、直接の皮膚の感覚がなく、じつとしていても、ヂカヂカジンジンして、その上包帯か何かでしめつけられたような苦痛は耐えられませんでした。……(転院先で)、足のシビレは手術したら直るといつて手術をすすめられました。……手術後もしびれ感はとれません。すでに腰から腹部迄しびれ感は上つてきて、しびれ感のまま寝ている気持ちは何ともいいようのない苦しさと恐ろしさで、このまま死んでしまうのではないかと思い、死を覚悟しました。」(原第一二五号証の三)

(6) 一五〇番入江栞

「朝手洗いに行つて用を足し、立ち上ろうとしたところ、全く下半身に力が入らず、手洗いの中にすわり込んでしまいました。……私は下半身が麻痺し、腰から下の感覚が殆どなくなつてしまつたため、精神的に大変動揺いたしました。……(転院後)足先からしびれはじめてきたのです。……じりじりとシビレが足先からはい上つてくるのをただじつとがまんするほかない恐怖。……いつそこのまま身体が駄目になつて死ぬことができたならどれだけ楽だろうと真剣に考えました。」(原第一五〇号証の三)

(五) 失明者の嘆き

不幸にも失明に至つた者の嘆きは、想像を絶するものがある。

(1) 三五番諸岡冨美子

「朝、目がさめた時、目の前がまつくらで何も見えません。私の手も、電灯の明りも。……夫の顔も、私の母の顔も、子供の顔も何一つ見えなくなりました。私は必死になつて瞼を指で何度となく押し広げようとしました……本当に気が狂う程の焦燥感におそわれました。遂に永久に光を失つてしまつたのです。どんなにわずかでもいい、光を求めて泣き叫びました。」(原第三五号証の三)

(2) 九〇番芳川憲夫

「下半身は麻痺し、手までしびれ、寝たきりの状態で目が見えなくなつた時は、気が狂いそうになりました。フトンの中で大声を出して泣きました。どうにでもなれとやけをおこし、担当の看護婦に当たりちらしたりしました。し瓶をなかなか替えてくれなかつたときなど、ひつくり返したりしました。又、食後、いつまでも片付けてくれない時など、飲み残しの味噌汁をひつかけたり、病院の窓ガラスを割つたりしました。病院の中で首を吊つて死んでやろうと思つたりもしました。しかし、立つこともできず、首つり自殺もできないので、睡眠薬をもらおうとしましたが、病院の方はくれませんでした。」(原第九〇号証の三)

(3) 一二三番三宅博文

「それまでぼんやり見えていたのが全然見えなくなつてしまつたのです。強い光だけがわずかにわかる程度です。度重なるシヨツクで私はその時心の平静を失つてしまい、考える余裕もなかつたようでした。私はもう立つことも出来ず、目も見えず、完全に身体の自由を奪われ、一人で入院していることができなくなつてしまいました。……弟が迎えにきてくれた車に抱え込まれ、人目を避けるようにして、絶望感と精神錯乱状態のまま退院しました。」(原第一二三号証の三)

(4) 一四六番朽網ツタエ

「四月一五日頃の昼頃桜の花を遠くに見ていたら、又目がひどくかすんでくるようだつたので、手で一生懸命に擦つていましたら、急に目の前が真暗くなり何も見えなくなつてしまいました。病院にきてからスリツパが履けなくなり、足が立たなくなり、そして寝たきりになつてしまい、身体が次第次第に悪くなつて行くし、毎日毎日不安が募つてきてどうすることもできなくなつていた時、目が見えなくなつてしまつたのです。わずか四〇日位の間におきたことは信じられないことばかりで、その時の私の気持を言葉に現わすことはできません。」(原第一四六号証の三)

3 リハビリテーシヨン

異常知覚や痛みがやや軽減(決して治ゆしたわけではない。これは現在も後遺症として残つているのであつて、ここでいう軽減とは最悪期に比して、という意味にすぎない。)したのを期して、殆どの原告患者らは、萎えた足に鞭打ち、痛む足に歯を食いしばり、必死のリハビリテーシヨンに踏みだした。身近な者の献身的な協力を得て立ちたい一心で努力する、その姿は胸を打つものがある。以下幾つかその姿をみてみる。

(一) リハビリテーシヨンに励む姿

(1) 五番別宮逸郎

同原告はリハビリテーシヨン施設としては充実した九州労災病院で、十分なスタツフに守られ約一年間必死の訓練を経て、ようやく一本杖である程度の歩行が可能になつたことは後記認定のとおりである。

右原告は当法廷でその訓練の辛さについて以下のように供述している。

「一番辛かつたのは、労災病院ではじめて車椅子で訓練室に連れて行かれて、二本の松葉杖を渡されたときです。生まれてはじめて握る松葉杖を、一生懸命握りしめ、両脇に食い入るほど抱き込み、体の上半身の重量を全部二本の松葉杖にかけて、しびれたそして麻痺した足をひきずるように、全身の力を込めてやりました。しかし、いも虫がはうような、じりじりという程度、床の上を本当にずるという感じ、ものの五mも歩くと両方の目が見えないという関係上、何があるのかもわからないし、転倒してけがをするんではないか、そういう恐怖も先に立ち、……

八月の最中だつた……ものの一〇mも歩くと、疲れはててしまい、歩行訓練を続ける気力もわいてまいりません。こんなことで自分はもとの体で帰れるんだろうか、二本の足で歩くことができるんだろうか、そういうことを考えますと、悲観的になり、汗だらけになつた顔の汗は、半ば自分の両眼から流れた涙でありました。そして、人に見られないように、窓のそばに顔を突きだし、泣いた記憶がございます。」

(2) 八六番橋爪貞男

「最初は寝返りの稽古からです。毎日毎日一生懸命努力して一〇日目位にやつと横向きになれました。第二は足の屈伸でした。七五kg位ある先生が、私の両足首をつかんで引き曲げる、曲げたひざを寝ている胸に持つてくる、踵を臀部に持つてきてつける訓練をされたが、その時の痛さは何とも耐えられないものでした。足が強くなつてから平行棒につかまつて立つ練習、立てるようになつてから車椅子を押す訓練をしました。その間肋骨を骨折したこともあります。骨折が治つて自転車のペダルを踏んで足首をきたえる訓練、次に平行棒の中で松葉杖で立つ訓練がありました。苛酷な訓練に耐えて頑張つた甲斐あつて、昭和四六年一二月ついに松葉杖をついてではあるが、五、六歩歩くことができました。自分の足で歩いたのだ。余りの嬉しさに涙がこみ上げてきました。家内と二人で涙を流して喜びました。」(原第八六号証の三)

(二) しかし、中にはリハビリテーシヨンの甲斐もなく遂に立てずにいるもの、或いはその十分な機会を得られず、歩行は勿論起立さえ不能のまま今日に至つている者もいることは後記損害各論で認定のとおりである。

4 医原病スモンの特異性―特にスモンの再燃・増悪

(一) はじめに

昭和四五年(一九七〇年)八月椿忠雄によりスモン・キノホルム説の発表がなされ、同年九月八日被告国によりキノホルム(剤)の販売・使用中止措置がとられるまで、原告患者らのスモン症状に対しキノホルム剤が効くものと信じ込んだ医師から、同剤を投与され続けた原告患者が多くいることは医原病といわれるものの中でも、スモンに特有なものである。下痢、腹痛を初めとして多彩な胃腸疾患によく効く薬として宣伝、販売されていたキノホルム剤であるから、スモンの初発症状としての前記した腹部症状の発現に対し、このキノホルム剤を更に投与し続けた医師、医院は少なくない(丁第二号証中二三五頁表4参照のこと)。スモンにキノホルム剤がよく効くとの論文さえ発表されていた時期があることは丙第一三五号証、戊第七一号証(九九頁)等で認められるとおりであるから、当該医師、医院のみを責めるのは当を得ていないであろう。

しかし、患者の側からみれば、キノホルム剤の投与が継続されなければ、治ゆしたかもしれない、或いはもつと軽い症状だつたかもしれない、との思いを禁じえないであろう。

(二) スモンの再燃・増悪

後記損害各論に認定のとおり、中には、一たん軽減し、落ち着きをみせた者が、キノホルム剤の投与を受けて、前記の激しいスモン症状を再燃し、更に増悪させているのである。その一人に一六番篠原萬里子がいる。

後記損害各論で認定のとおり、数回の再燃を経てきた右原告は、最後の再燃のときのことを「昭和四五年二月第六回目の再燃がおそいかかりました。例の如く激痛(腹・背)と共に、私の体は全身しめつけられる苦しさで呼吸困難を来しました。そして、かすむ目、しめつけられる足、腰、体に加えてシビレは遂に手の指先からも新しくおそいかかつてきました。このような恐ろしい事がこの世に二つとあるでしようか。私はシビレる手を顔に押しあてて慟哭しました。父は私に「きつかろう苦しかろう、でもお前はえらいえらい」とも言い、又、「替れるものなら」とも嘆きました。」といつて、その苦しさを述べている。(原第一六号証の三)

二後遺症

1 はじめに

生存の原告患者らも長いもので既に二〇年近く、短い者でも七年の年月をスモンの初発症状とそれに続く多彩な後遺症状に悩まされ続けて今日に至つているのである。その主なものを以下に列挙してみる。

2 腹部症状

原告患者らの殆どが、スモンの初期症状の重篤な一時期を脱した後も、今なお、程度の差はあれ、下痢、便秘、腹痛、腹部膨満感、食欲不振等を頻発し、悩まされている。それが、楽しかるべき食生活を味けないものにし、ひいては栄養状態にも悪影響を及ぼしていることは容易に推測できるのである。

(一) 戊第二二号証によれば、前記安藤一也及び祖父江逸郎は、神経症状発現後の慢性腹部症状につき、以下のとおり説明している。

「スモンの神経症状はかなり難治性で慢性の経過をとるが、これと伴つて前駆腹部症状よりはるかに軽いにせよ、何らかの慢性的な腹部症状を間歇的ないしは持続的に示す例が少なくない。こうした腹部症状は下痢、便秘、かるい腹痛、胃部不快感、膨満感、食欲不振など多彩であり、発症前の慢性胃腸症状に類似している……このような神経症状発症後の慢性腹部症状はしばしば神経症状の再燃と関係している。この慢性腹部症状対策もスモンの治療上重要であるが、適確な治療法は見いだされていない。」

(二) 本件における原告患者らもすべてが何らかの慢性的腹部症状を訴えている。

体調を崩すと現在でも日に五、六回の下痢に見舞われるという者、腹部膨満感、腹痛あるいは食欲不振を訴える者、週に三、四回腹が張つたりするという者、便秘におそわれる者、下痢・便秘を不則規にくり返す者等々である。

3 神経症状

異常知覚等の神経症状についても、初期の極めて厳しく、かつ、重篤な一時期を脱した後、若干の軽減をみてはいるが、原告患者らすべてをスモン発症以来数年から一〇数年にわたつて、今なお日夜苦悩させている。傍目にはわからず、他人(医師も含めて)にはよく理解してもらえないことが、原告患者らの精神的苦痛をより一層深める契機にもなつている。

(一) 異常知覚

多様な異常知覚とその苦痛、不快感について、原告患者らに、「チカチカ」、「もじやもじや」、「ジンジン」、「ズンズン」、「ジカジカ」、「ビリビリ」、「ピリピリ」、等と比喩的な表現を使いながら異口同音に訴え、この苦痛を何とかしてもらいたいと言い続けている。

(二) 痛み

異常知覚を覚える部位と殆ど同部位に、異様な痛みをすべての原告患者らが現在も訴えている。

「重たいような鈍痛」、「チカチカした痛みが一寸した刺激に対して非常に増強して、涙が出る程である。」「足底に何かちよつとしたものをふみつけた時に異常に激しい痛みがある。」「長く立つているだけで痛みがくる。」「股関節を広げると痛い。」等、色んな表現を使いながらも、ほぼ共通の痛みである。

現在も続いているこの痛みにつき、三〇番松本ヨシエは「昭和四六年暮頃足をくじいて足の指を骨折したが、その痛さはスモンのしびれに比べれば何ともない。」(原第三〇号証の三)と表現し、又、一四七番古沢利雄は「足の痛みのため昭和四八年四月頃から一日四、五本の痛み止めの注射を打ち続けてもらつており、そのため妻は同原告の筋肉が固くなつているのをもみほぐすため毎日正味三時間位もんでくれている。」と供述(原第一四七号証の三)している。

(三) 冷感

殆どの原告患者らが下肢を中心に冷感がある旨現在も訴えている。そのため女性でもスカートよりズボンがいいと言い、男女を問わず年中厚い靴下をはいている者が多い。真夏でも扇風機の風にあたれないという訴えは多い。

当裁判所が真夏に施行した原告本人尋問の際にも、ズボン下をはき、厚い靴下をはいている多数の患者を目のあたりにした。

4 歩行障害、運動機能障害

(一) その程度

前記したように、スモン罹患初期の起立不能、歩行障害に直面した大多数の原告患者らの涙ぐましいリハビリテーシヨンの結果、殆どの者は曲りなりにも、ある者は若干の、ある者はかなりの歩行障害の改善をみた、その具体的な程度は後記損害各論で詳述しているとおりである。その程度はようやく五〇m歩けるとか、一〇〇m歩けるとかいつた類であつて、健康な成人の歩行能力に比べて質的に劣つているのである。しかも、歩けるといつても前記神経症状が随伴しているのであつて、多大の異様な苦痛を伴いながら 五〇mであり、一〇〇mでもある。この大人の足にしては極めて不十分であり、人間の特典である二本足で自由に立ち、かつ、歩く、ということをなくした原告患者らの落胆、無念さは、健康な足を具備している者にも十分に理解し得るところであろう。スモン罹患後遂に立ちえず、寝たきりの生活を長年にわたつて強いられている者の悲しみの大きさは言わずもがなのことである。

どうにか立て、どうにか歩けるものも、急に立ち上れないし、立ち上るにも足をマツサージし、両手を使つて、ようやく立ち上れるのであり、反対に座るのも容易にできるわけではない。そのため多数の原告患者の家庭では、便所を和式から洋式に改造し、少しでも不便をしのげるようにしているのである。しかし、中には、その費用さえなく、不便と苦痛をしのびながら排便に臨まねばならない原告患者がいることも忘れてはならない。

(二) 学者の説明

〈証拠〉によれば、昭和四六年の段階で、スモン協治療予後部会はリハビリテーシヨンの重要性を早くから唱え、その実施方法に関心を示していたこと、リハビリテーシヨンによる日常生活活動度(ADL)向上の阻害要因としては異常知覚、両下肢運動麻痺、知覚障害、視力障害、失調症を指摘し、精神的因子、意欲の欠如も無視すべからざる要因である旨注記していることが認められるが、職務上顕者な事実によれば、昭和四九年度スモン班の上田敏(東大医学部リハビリテーシヨン)らはスモンにおける運動障害の評価について、「スモンにおける運動障害には疾患の本態からして、中枢性麻痺、末梢性麻痺、深部覚障害による二次的運動調節障害その他、各種のものが混在し、また中枢性麻痺自体の中でも、病的(原始的)共同運動、各種の姿勢反射、痙性、固縮その他の陽性症状(解放現象)と立ち直り・平衡反応の障害、巧緻性・速度の低下その他の陰性現象とが複雑にからみ合い、相互に影響しあつている。そのためスモンの運動障害の評価は多元的になされる必要があり」と指摘し、昭和五〇年度スモン班の中村隆一ら(東京都神経科学総合研究所リハビリテーシヨン研究室)は「スモン患者二七名の運動・動作障害を検査測定した結果、その能力が三才児レベルに低下していた」旨報告していることが認められる。

5 視力障害

スモン罹患初期に視力障害をきたした原告患者らの中で、幸いにして視力回復をきたした者もいるが、中には不幸にして視力低下、視野狭窄等の障害を後遺症として背負つた者、最悪の失明のまま現在に至つている者もいることは後記損害各論で認定している通りである。失明者の悲嘆は言語を絶する。

(一) 六六番鳥羽道子

中学時代に、将来のスチユワーデスを夢見ていた右原告は、大牟田南高校に入学の直後スモンに罹患し、光を失つてしまつた。それは将来の夢どころか、日常的な楽しみまでも奪いとつてしまつたのである。その苦しみを同原告は次のようにうたつている。(原六六号証の五)

「コツコツコツ コツコツコツ シンヤニヒビク テンジノオト

ノロノロト テンジヲサグル イツシカトメドモナクオチルナミダ

アー ナゼコンナニクルシマナケレバナラナイノ

ナゼ コンナニマデシナケレバナラナイノ

ソーツト ジブンノカオヲナデテミルアレカラ一〇ネンタツタノニ アタシノカオノキオクハ

アノトキノママ ジブンノカオサエミエナイツラサ

ダレカオシエテ アタシノカオヲ

ドコヘイケバイイノ アタシハ シロツエヲタタイテサケブ

マツスグダ マツスグダト ドコカデコエガスル

ヤミクモニムカツテ ワタシハススムカスカナヒカリヲモトメテ」

(二) 一二三番三宅博文

右原告は、その本人尋問において「子供の顔も赤ちやんの時の顔しか知りません。私が、生きている間に、死ぬ前に一度でもいいから子供の顔ばみたかです。見ときたかです。」と述べている。子を持つ親で、この悲しみを理解できない者がおるだろうか。

(三) 一番越智義信

失明して自暴自棄になり、荒れて妻に対し相当ひどい仕打をした右原告は、それでも「わらをもつかむ気持で、いつかはいくらかでも視力が取り戻せるのではないかと、今でもその希望は捨てておりません。」と本人尋問で述べ、あきらめきれない心情を吐露している。勿論、今はすべてを妻の介助に支えられている。

6 その他の症状

(一) 排便、排尿障害

現在も、慢性的な腹部症状時に大、小便の残留感を訴える者、便意をがまんできなくて洩らしてしまう者、排便が終つたかどうかわからなくていつも残留感がある者、排尿の際、尿がでるまで時間がかかる者等その訴えはほぼ共通している。又、これに関して、スモン患者らは、便器にしやがんだり、立ち上つたりが、下肢を中心にした異常知覚と痛み、運動機能障害などからスムーズに出来ないため、洋式に改造したところも多い。費用の関係で、それもできず天井からひもをつるしたり、手でつかまる棒を設置する等して工夫している原告患者家庭もある。

(二) 不眠

足の異常知覚、痛みのため安眠することがないと原告患者らは訴える、眠れないことから、睡眠薬を使用する患者、睡眠薬をのんでも寝つかれないという患者もいる。

(三) 易疲労感、倦怠感

長く立つたり、歩いたりすると、すぐ疲れる、仕事も長続きしないから、すぐ休息しなければならない等、疲れやすいとの訴えが共通している。

(四) 性生活障害

配偶者をもつ原告患者らは、下肢の異常知覚や痛み、事後の倦怠感、又は性欲がなくなつた等と訴え、性生活に支障をきたしている旨訴えている。これは、長年月にわたるため夫婦間に微妙な影響をもたらす。気まずい夫婦、すぐけんか口論になる夫婦、酒をよく飲むようになつた患者の夫、女性関係ができたといつて深刻な家庭問題をかかえる夫婦等々である。

三死亡患者

後記するとおり、スモン患者には不幸にして、この訴訟提起前に死亡した者(亡栗原義一、亡芳野カヨノ、亡西林清人)もいれば、この訴訟継続中に、本判決が早く、自分らの生きているうちにでるように、裁判所に対し、叫び続けながら、中途にして死の道を辿らざるを得なかつた者(亡中村和弘、亡田中小一、亡佐野瀧吉、亡山本太良治)もおり、本訴訟の内包する問題性を指摘している点で、決して看過されてはならない。

亡西林清人は死亡前に、妻と五人の子供達に対し遺言様のものを書き残していた。その全文は「かなしい運命の日が私しのよき通り来たよです 妻子のこして去りゆく私しも生きられるものならどんな事してでも生りたいが人にはげんどがあつて私しも先は見えました 長い間だ病弱な夫を良くたへしのんで来てくれました あの世からも私しも一家幸わせを心から祈つて見守つています なにとぞ私の死をいつまでもきにしないで早やく一家で暮しを立直し子供は人にくらい陰をもつような子供にならない様お父さんがいなくなつたからこれから自分達でお母さんをたすけて行つて下さい 貴達を立派に生長させてやるのが父親ぎむですが私がなんと願つても運命はどうにもなりません ほんとうにすみません きよだい仲良くたすけあつて大きい人からてだすけしてやつて下さい 貴女達が大きくなつたらきつと良時が来ます かならず悪時ばかりはありません わたしもいつまでも貴女達の生長するのをいつまでもいつまでもみまもつていますのでかなしい時は父が見いてがんばれとなにごともどにかなつているのできつとわらふ時もあると書いた事を思い出してがんばつて下さい きついのでやめます」というのである。(原第一三九号証の六の一ないし三)

妻子に対する愛情と子供の成長を見届けられず、死にいく親の悲しみは、切々と胸を打つものがある。

四病因論と精神的被害

1 病因不明による不安

キノホルム剤を服用しているうち、ある者は以前と違つた激しい下痢、腹痛等に襲われ、次いで全員にジンジン、ジカジカ等の異常知覚と猛烈な痛みが足先から始まつて、膝、大腿部、腰部と上向してき、それとほぼ同時に下肢の筋力低下による歩行不能、歩行障害及び失明を含む視力障害をきたしたのが、原告患者らであるが、この重篤な症状が僅かの日数の間に、正に晴天の霹靂のように発現したのであるから、その驚き様は目に見えるようである。まして、その原因がよくわからないままに、それぞれがつらい闘病生活を経験している。長い者は発病から昭和四五年(一九七〇年)九月八日被告国の事実上のキノホルム説の公認まで優に一〇年をこしている。この長い原因不明の時期に、自らの不安だけでなく、奇病、業病、恥ずべき病、伝染病などの汚名を着せられ、ゆえなくして人権や生活を破壊されたスモン患者らの心情にも深く思いを致すべきであろう。

2 ウイルス説による不安

(一) はじめに

前記認定のとおり、スモン様症例の報告が相次ぐなかで、ウイルス説は当初から唱えられていたが、昭和四〇年(一九六九年)六月久留米大学医学部助教授新宮正久により発表されたエコー二一型ウイルス説は、初期の代表的事例であり、その他種々のウイルス説が唱えられはしたものの、いずれも学会において認知されるところとならなかつたが、丁第五〇号証及び戊第四四〇号証等により認められるとおり昭和四五年(一九七〇年)二月京都大学ウイルス研究所助教授井上幸重が、スモン患者から新しい型のウイルス(前記のいわゆる井上ウイルス)を発見したと発表し、これが朝日新聞などの報道機関により大々的に取り上げられ、全国的に報道されたことから、それまで、もしかしたらスモンの原因はウイルスであつて感染するのではないか、との危惧感をもつていた原告患者及びそれをとりまく者の不安が現実化したものとして、あちこちで一種の恐慌状態が醸成される事態に進展した。

それまでも原告患者及びその家庭を取り巻いていた白い眼は益々強固なものとなり、ひどいときに村八分同様の仕打にあわざるをえなかつた者もいるのである。このウイルス説は学会でも論争の的となり、ウイルス説をとる一部の学者からの精力的な研究発表が相次いで公表されたが、学者の支持を得るに至らず、昭和四七年(一九七二年)三月一三日スモン協総会において、スモンの病因に関し「……以上述べた疫学的事実並びに実験的根拠から、スモンと診断された患者の大多数は、キノホルム剤の服用によつて、神経障害を起こしたものと判断される。」と総括され、更に同年九月二四日にはスモン協総会において、スモン井上ウイルス説については凍結するとの措置をとることが了承されたことは前記認定のとおりである。そしてその結果、スモンウイルス説の与えた恐慌状態は終息に向つたとはいえ、それまでの間に、スモンウイルス説が投げかけた爪痕の深さを想起してみることは、幾つかの教訓を示すものとして貴重であると共に、原告患者らの精神的被害にとどまらない拡がりをもつた損害の一端を構成するものとして見のがしえない重みをもつている。

(二) ウイルス説による患者の不安

自宅で療養中のものは家族の者が、病院で入院中のものは、他の患者又は見舞いにくる者が、自分のためにスモンに罹患したりはしないかと始終おそれおののきながら、ひつそりと息をこらすように生活してきた。そして、家族或いは他の誰かが、腹が痛い、足がしびれる、と聞くと、自分のせいではないか、もしかしたらスモンにかかつたのではないか、と心配した。現実にスモン患者が家族に或いは身近に発生したときの、スモン患者の心痛は大きかつた。

(1) 五五番雪丸正利

「私は昭和三九年七月スモンに発病して、医師よりウイルスである旨言われ、それによる苦しみはキノホルム説が下された昭和四七年三月まで続きました。……伝染説で最も苦しめられたのは、生活の糧を得るために、この社宅を追い出されないために、何とか三井三池鉱業所で働き続けなければならなかつたことです。私は、スモン発病当時病院の薬局助手をしていました。受付や薬包でつつんだものを数えて取りに来た患者に渡すのが主な仕事です。相手はたくさんのしかも病気で苦しんでいる患者さん達です。病院は、薬は、その苦しい病気を治してやるのが務めです。そこに、得体の知れない病気を持つた人間が働いている、しかもウイルス性なのです。一方、当時の私にとつて、薬局助手はどうしても離したくない職場でした。……三井三池鉱業所の職種の中でこれ以上楽なところはありません。他に全く新しい就職口をみつけることは事実上不可能です。病身の私にとつて会社をクビになれば、一生職を追われることになります。しかも社宅を即刻出なくてはならないのです。少なくとも外科の医師は、私がウイルス性の病気にかかつていることを知つている、それがいつ皆にバレるか、会社からお前はクビだ、自宅待機しろといつ命じられるか、いつもビクビクしていました。できるだけ病気を隠そう、何でもない、治つたふりをして働き続けることに終始しました。この間の苦しみを思うと、国や製薬会社が憎くて憎くて、追いつめられるところまで追いこんで、それこそ食い殺してやりたい気持です。」(原第五五号証の三)

(2) 一一八番吉村富子

「私の姪の牛島寿美子の足がシビレたという知らせが入つてきました。寿美子は私のことを姉ちやん、姉ちやんと慕つていましたし、おばあちやんが梶山病院に入院し、私が側についているときに見舞に来たこともあります。「ああ、うつしたなあ」と思つて死んでしまいたい程苦しみました。婚約も解消になつてしまつた寿美子ちやんのことを考えると、何と罪深いことをしたんだろうかと、それ以後は会うのも辛くてさけるようにしていました。」(原第一一八号証の三)

(三) 他人からの仕打

中には、原告患者らの長年の経験からスモン・ウイルス説を信じられないとして、克服してきたものも少くない。しかし、患者ら家族を取り巻く目は厳しかつた。科学的判断力を備えていない一般人が報道機関の流すウイルス説に驚き、スモン患者につれない態度をとつたとしても、どうして非難することができよう。が、原告患者ら家族の被つた精神的、社会的打撃は又無視しえない程大きかつた。

(1) 九三番住吉キミ子

「スモン病ウイルスだと新聞等で報道されました。それからというものは、村の人達は私や主人には口もきかなくなつてしまいました。私の家族は家にこもつてしまう生活が続きました。長男は「お前のお母さんは伝染病げな、うつるけん遊ぼごつなか」等と言われたといつて帰つてきたこともありました。その頃、私達の風呂は共同風呂でした。当然私のことが話題になります。「伝染病ならうつろたい、気しよくの悪か」等ということが私や主人の耳に入りました。それからは夜の一二時までは村の人達が入りますので、一二時過ぎて、主人におんぶしてもらい、寝ている子供達をおこして風呂に行きました。……この頃には村内の人達との付き合いにも行事にも一切出ませんでした。……完全に村八分にされ、村から追われることになつたのです。」(原第九三号証の三)

五経済的被害

スモン発病により、治りたい一心から、藁にもすがる気持で、色んな薬を飲み、治療方法を試した者は数多い。その為に支出した医療費は莫大なものに上つている。貯金を使い果たした者、不動産を処分せざるをえなかつた者、それでも足りずに、生活保護を受けざるをえなくなつた者、生活保護までいかなくても、配偶者や子供達の収入で、ようやく治療費をまかなつてきた者は多い。もとより、医療機関での治療継続を希望しながらも、費用が続かず、或は不治の病とあきらめ、意に反して自宅療養に切りかえざるをえなかつた者も数多い。昭和四七年七月には被告国がスモンを特定疾患に指定し、その直接治療費の患者自己負担については月額一万円を限度として公費で支給することとし、昭和四八年度からは更に直接医療費の自己負担分の全額公費負担が制度化されるに至つたことは公知の事実であるが、なお多くの問題を内包している。

又、医療費程にすべての患者家族にみられるわけではないが、前記のように原告患者らの運動機能障害による日常生活の不十分さを補うため、住宅の改造等を余儀なくされた家庭も数多い。

労働能力の喪失、低下によつて、失職し、又は収入減をきたしている者も枚挙にいとまがない。

日常の買物・外出においても、タクシーを利用せざるをえなかつたりで、目に見えないようでも費用がかさんでいる例は多い。

六長年月の闘病生活と時間の喪失

1 はじめに

スモン発病以来、原告患者らは今日まで七年ないし二〇年近くの長年月にわたる闘病生活を強いられてきている。原告患者らも又、一回きりの貴重な人生において、若人、青壮年者、老人を問わず、それぞれにかけがえのない時間であつた筈である。これまで長期の入通院治療を含め、闘病生活に費消してきた時間、これから闘病生活に使わざるをえない時間の長さを考えるとき、その重みを忘れ去ることはできない。しかもその闘病生活の多くは、その夫又は妻が、或いは老いた両親が、或いは幼ない子供らが、時には自己の婚期を逸してまで、原告患者らに日夜付添い介護し、重症者の手足となり、経済的にもこれを支えてきたもので、これら家族の犠牲において何とか今日まで維持されてきているのである。その姿の一端を法廷で、或いは所在尋問の現場で目にしてきた。その労苦のことを改めて想起せざるをえない。

しかし、原告患者らの多くが、その家族に対する感謝の念とともに、家族を自分から解放してやりたい一念にかられてきている現実も目のあたりにしてきた。今後も、家族の犠牲を続けていいという道理はない。それをしなくてもすむ救済の方途こそが早急に考慮されねばならない。

長期の介助の疲労から家族介助者自身が床に臥す事態も幾つかみられる。

2 三番中島美代子

「スモン発症後、日曜、祭日は経済的負担を軽くするため家族が付添つてくれました。……発症当時小学六年生の長男勝也は、休みのたびに私に付添い、排便の処理までしてくれました。春、夏休みもずつと付添つてくれました。」(原第三号証の三)

3 八八番山本典子

スモンにより失明し、かつ歩行も思うままにならない右原告は、夫広高の献身的な介助と励ましで今日まで来ている。右原告は夫に感謝しつつも、それに対する苦悩を次のようにうたつた。

「すまないと思う心のそのひとにむくゆる日々はいつの日にやら」(原第八八号証の四)

4 九三番住吉キミ子

右原告の夫である証人住吉敏昭は、スモンに罹患した妻の右原告を入院させ、家に弱い祖母(八五才位)と二人の男児、一人の女児を抱え、全くどん底の状態にあつた当時の生活について、次のように証言している。

「昭和四二年頃長女のミルク代に困り、毎日朝方か、晩遅くなつてから、ビニール袋一つを持つて、町まででかけ、歩いて一軒一軒回り、飲みほして外に出してある空ビンをさかさにして残りのミルクをビニール袋に集め、それを長女のミルクにと飲ませました。子供たちの食事にも困り、飲食店の残りご飯をもらつて歩き、それをビニール袋に入れて持つて帰つて洗つて炊きなおして、食べさせました。どんな味がしたか、それは口では言えないんですよ。」

5 夫婦ともスモン

夫婦そろつてスモンに罹患した者もいる。三四番佐野ハルエと七九番亡佐野瀧吉夫婦、一二三番三宅博文と一三五番三宅アヤ子夫婦がそうである。

昭和四八年九月二六日施行の亡佐野瀧吉方の検証結果と同原告ら本人尋問の結果から認められる当時生存中の佐野瀧吉とその妻佐野ハルエの日常生活の一端は、そのきびしさを静かに訴えている。

スモンにより失明した三宅博文は夫婦ともスモンに罹患したことにつき、

「私達に降りかかつた残酷な現実を運命にまかせる他ありませんでした。これでもかこれでもかと襲いかかつてくる不幸に立ち向う力も失つてしまい疲れ果ててしまいました。妻は入院することは寝たきりの私と幼い子供がいるので出来ないことでした。それ故、妻は血のにじむ思いで這いずりまわつて世話し続けてくれました。その時の私の家庭は極限状態でありました。ただ生きているというだけのものでした。私の失明と妻の発病が重なり、私は心配と苦しさのあまりノイローゼになつてしまいました。」(原第一二三号証の三)と述べているが、その妻三宅アヤ子も本人尋問において、最近自分の病状も悪いことから、夫の身の回りの介護や生きることへの力づけということをする気力も、徐々に失われてきた旨供述している。そのせいか、三宅博文も本人尋問において、排便、排尿に関して、「排便は私が家内の手を少しでもはぶくために、手さぐりで一定の所に新聞紙をおいてもらつていれば、自分でもやつと手さぐりでやります。ナイロンを手さぐりで敷き、その上に新聞紙をおいて、その上に横になつて尻を出し、尻をつき出してします。排尿は……横になつてしますけれど、もう目が見えないので、どの位しびんに入つているかわかりません。そのような時は、もう入つているのも気付かずに、こぼれていつもゆかをよごしたり、衣服をよごしたりしてめちやくちやです。」と供述し、凄惨な生活の一端を吐露している。

第三  スモン被害の広がり

一日常生活の現状

1 粗描

前記した腹部症状、知覚異常や痛みを伴つた神経症状、歩行障害、視力障害等の後遺症に悩まされている原告患者らの日常生活の現状は、不便とか不自由とかいうよりも、むしろ人間的営みに少しでも近づこうとする苦闘の連続といつた表現が、より真実に近似するものである。

朝起きて夜寝るまでの原告患者らの生活は、健康人には想像もつかないようなものである。平均的なものの一日を追つてみても、「朝目覚めても、すぐ起き上れるわけではなく、寝床の中で足をもみほぐし、膝を屈伸させて準備運動をやり、それから両腕を使つて、どうにか起き上る。次いで洗面、これも簡単には出来ないので、洗面台や壁に一方の腕をつき、或いは体を支えて歯をみがき、そして顔を洗う。便所では、しやがんだり、立ち上つたりがスムーズに出来ないうえに、これに排便、排尿障害が加わり、苦痛の日課となる。着衣も下肢を中心にのろのろと時間をかけてやる外ない。食事も慢性的な腹部症状をかかえているため、十分楽しむことはできない。外出や仕事は大仕事である。先ず足の異常知覚と痛みのため履物から制限される。草履にゴムをつけて、草履が脱げないように工夫をしている者、ズツクをはいている者、皮靴や下駄、サンダル等は履けないという者が多い。外出しても、凸凹道、階段、歩道橋、横断歩道等で疲れ、痛み、信号機の信号が変わらないうちに渡りおえなければならないつらさ等が待ちうけている。乗物に乗るのも大変である。乗り降りが苦痛であるうえ、混雑した乗物には乗れない。たとえ吊革につかまつても、揺られながら立つていることには耐えられない。いきおいタクシーに乗ることにもなるが、費用もかさむ。夜の入浴も一日の疲れをいやし、憩いの一時というには程遠い。先ず脱衣に苦労し、タイルの上でころばぬ様細心の注意を払い、苦痛をこらえながら浴槽をまたいで入るが、熱さ加減が健康人と違うことから、ここでも苦労する。」のである。勿論、程度の差はあれ、家族の介助をうけて右のことをやる人も多い。全盲、又は寝たきりの患者らは、右のことさえ自力ではできず、やるとしても家族の全介助ということになる。

こういう日常生活で楽しかろう筈がない。

2 買物、洗濯、掃除、炊事

右の四大家事は、もともと主婦がやつていたものである。ところが、主婦がスモンに罹患後その役割と分担は、質・量ともに大きく変化せざるをえなかつた。寝たきりの又は失明の主婦の場合は勿論右の四大家事は何ひとつできない。どうにか日常生活を独力でやれるようになつた者も、夫或いは子供、親、等々の協力を得て、ようやく右家事を遂行している程度で満足なことはできない。その場合でも、炊事場を改造して、腰かけたまま炊事ができるようにする等の配慮が必要であつた。

3 スモン患者の日常生活構造

当裁判所に職務上顕著な事実によれば、昭和四九、五〇年度のスモン班は、スモン患者の日常生活構造につき調査した結果「労働、余暇時間が減少し、身辺処理、医療、休息時間が増加し、また生活行動の種類の減少、つまり質的単純化がみられ、一般に生活内容の早期老化がある。これは、スモンでは単に運動障害だけでなく、患者をとりまく家族や社会環境における地位や役割の喪失、変化が生活構造と行動に影響を与えていることを示している。」と報告していることが認められるが、本件原告患者らにもほぼ共通して右のような事実が認められる。

4 他の神経疾患との比較

当裁判所に職務上顕著な事実によれば、昭和五一年度スモン班の安藤一也らは、他の神経疾患とスモン患者の日常生活動作を比較調査した結果、全体としての日常生活動作の自覚的難易度は、スモンでは陳旧性脳卒中片麻痺よりは平均値がやや高く、痙性対麻痺、筋萎縮性疾患(筋強直性ジストロフイー症など)、ジストニアなどの神経疾患とほぼ同一水準にあることがわかつた、と報告していることが認められる。

二失われた人生

この世に生まれた人間は、幼少時代の後、児童、生徒と成長して青年時代に入り、ある者は更に勉学に励み、ある者は就職して社会人となり、ある者は恋をし、結婚し、子供を生み育て、老人となつてこの世から消えていく。この人生には、それぞれに夢があり、ドラマがある。希望と平穏があつてこそ価値ある人生であり、絶望あつての人生であつてはならない。しかし、原告患者らは、スモン罹患によつて重大な障壁に立ち向かわざるをえなくなつた。スモン発病によつて、人生は大きく大きく狂いはじめた。勉学を断念し、結婚をあきらめ、仕事をなくし、更には家庭の平和や老後の平穏をなくした者がいかに多いことか。スモン発病時の年齢によつて、その態様には差異はあるが、その肉体的・精神的苦痛と長年月にわたる重篤な後遺症により、失われた人生の代価は余りに大きい。この面からも、青年期の発病者の場合は、長い将来における多くの可能性が失われたことにより、その家族の精神的負担も又格別大きいものと思われる。

1 一六番篠原萬里子

「生ける屍と化した私の体は、苦痛のみが残り、殆どの機能が無残に破壊されました。胸まで上がつたマヒは、直腸・膀胱障害で苦しめられ、又胸まで上がつた痙れんの苦痛に加えて、そのうずき、そして悪寒、硬直、発汗と発狂しそうです。現在の気温三四度、この暑さの真只中、私は平ぺつたいアンカを硬直の強い背にあてています。首すじから背、腰、足と続く硬直は直立不動、この異様な苦痛は筆舌で表わすことはできません。それに胸まで上がつた痙れんは、呼吸を止めると同時に、動物そのもののうめきを発して耐えます。又、マヒした半身は、骨をえぐられるうずきで眠れません。それでも私は、もう痛み止め、眠り薬、安定剤も受けつけない体質となり、全くそれに対する処置はできず、自分の力でただただ耐えぬくだけです。ベツトの上の二四時間は、こうして食事中に排泄があつたり、痙れんがおきたり、一日の洗濯物が常に二〇枚をこえます。この様な体で私はどうして生きたらよいのでしようか。闘病一〇年にして兄弟も精神的にも経済的にも疲れて、次々と遠のいて行きました。最後の介護人の妹も、遂に疲労が重なり、病院通いとなり、無理ができなくなりました。もう何一つ生きる人間としての資格の持ちあわせはなく、生きていればという大きな喜びも小さな喜びもさらにありません。なぜ私は生きているのでしようか。気が狂いそうです。被害者とはこのような残酷なものなのでしようか。八〇才の母はかすかな残り火の人生で、あらん限りの力を私に注いでいる、その姿は悲愴そのものです。」(原第一六号証の三)

2 四一番牛島寿美子

「スモンになつたのが二六才の時でしたが、私は現在三〇才を過ぎました。若い頃父母が病気だつたため、家のため一生懸命働らきずくめで、これから人並みに結婚しようとしていたやさきにスモンになつたのです。結婚の約束をしていた男の人には私から直接病院に来てもらつて断りました。この時の気持は誰にもわかつてもらえないでしよう。私の人生の一番大切な時期に、スモンは私の将来を全て奪い去つたのです。」(原第四一号証の三)

3 一二九番川畑寿重

右原告は本人尋問の際次のように供述した。

「夫から見捨てられ、子供とは離別をよぎなくされて、文字どおり家庭破壊、そして一家離散の苦しみを味わいました。スモン発病以来一二年余りの歳月が経過しました。その大部分は私は精神障害者として世間から隔離されている精神病院の中で、スモンによる肉体の苦痛に耐えて過ごしてまいりました。ひと口に一二年といいましても、それは本当に辛い長い日々でした。南ケ丘精神病院に生活し始めましてから七年の間、その間何度死のうと思つたかしれません。でもそんな時、私は真優子のことを思い、真優子をしのぶことで毎日が、その毎日が慰められていたといいますか、心なごんでおりました。でも、きちがい病院にはいつたおばさんのことなんか聞きたくないといつて、耳をふさぐ真優子だということを聞かされました。その真優子への思いも消さなければならないような苦しい心境なんです。きちがいだと嫌われていても、長い間私は親である気持を捨てきれずにおりました。現在真優子は千葉県の公立高校に通つておりますが、もうすべて、何もかも私から離れてしまつて、私の手の届かないところにいます。……スモンによつて私が失つたものは、あまりにも大きいのです。そして私は不自由なからだで、精神障害者としての烙印を背負つて、これからも苦しみに耐えて生きていかなければなりません。本当に、私の生活には希望がないのです。」

4 一四五番尾木正子

右原告は門鉄病院に入院中の昭和四七年「三日間の健康を私に与えて下さい」と題する次のような詩に心情をあらわしている。

「神様お願い 三日間の健康を私に与えてください

以前の健康な姿を三日間

そして 私は静かにこのベツトにもどつて来ます

そして 永遠の花園へ第二の幸福を求めて旅立ちます

一日目 朝早く起き たんすの中の衣類を全部出して 虫干しし 押入れの夜具を全部日光に当てシーツカバーすべて洗濯する 毛布類はクリーニングに出す 夜具を充分買揃える 昼から家の中の大掃除をする 夜充枝と二人で風呂に入り 手の先から足の先迄きれいにきれいに洗つてやる 洗髪も念入りにしてやる 風呂上り爪をつんでやる 夕食は充枝の好きなカレーライスを親子三人でかこむ 主人とビールをたしなみながら一寸スキヤキもよかろう 充枝の好きなドリフターズにテレビのチヤンネルをセツトし笑いながらの食事 夜は充枝と語り明かしたい 学校の事 勉強の事 将来のこと

二日目 充枝と主人の下着類 総て洗濯しつくろい物をする 充枝の小さくなつた服を一寸手を人れて着られる物はいつでも着れる様 四季を通じてここ三年間着られる程度に衣服を整えて買つてきてやる

三日目 親子三人町へ出る 色々と見て廻り目の正月をする そして充枝の学用品 身の廻りの必要品を総て買う 主人にも記念のネクタイを そしてきれいなレストランで親子揃つて好みの食事をする あたたかい お別れの食事ね

三日間の健康 有がとう もう私には死だつて何だつて いつ来ても幸せよ」(原第一四五号証の三)

(充枝とは昭和三六年生れの一人娘のことである。)

同原告はその後夫と事実上の離婚状態にある。

三家庭破壊―二次被害

重篤かつ長年月のスモンとの闘病生活は、スモン患者を抱える家庭にも大きな波紋を投げかけずにはおかなかつた。

介助に疲れ、家庭内の葛藤から長女(当時二二才)に家出された九六番花田カヅエ、配偶者に離婚された三三番川崎龍哉、一二六番懸野ユキ子、一二九番川畑寿重、事実上の離婚状態にある八番和藤勝美、八二番浦縄次郎、一四五番尾木正子、そこまで至らなくても些細なことで口論し、いがみあう家庭内の出来事は、多くの原告患者らが供述している。

しかし、よく考えてみれば、原告患者らだけが被害者なのではない。原告患者を捨てた者も別の意味の被害者にほかならない。そういう者を非難するよりも、そうならざるをえなくしたスモン被害の根の深さにこそ目を向けなければならない。

右のような極限状態にまで追いこまれなくても、原告患者らは重篤かつ長期、しかもいつ治ゆするとの見込のない身体障害を背負つていることから、ある程度の日常生活を独力、又は少々の介助でやり遂げられるようになつている者でさえ、日常生活上種々の不自由を強いられており、スモン発病前の家庭内における役割を十分に果しえなくなつている。このことは、他の家族の家庭生活、社会生活にも多かれ少かれひずみを生じさせてきた。重症患者を抱える家族は言うまでもない。即ち、患者を抱えた家族の構成員が学生であるときは、欠席、中途退学、もしくは上級学校への進学の断念、青年であるときは結婚を断念してまで介助、家事に専念するもの、事業計画を断念するもの、壮年者で家屋建設資金まで治療費に投入し、その目途がたたなくなつた者、思い切つて仕事に専念できなくなつた者、老人の場合、二人して子供や孫達との楽しい生活、或いは旅行など計画していたのに拘らず、それが実現不可能になつた者、その他家族員で生活設計の変更を余儀なくされた者は数多い。そこから生じる不満のうつ積が、スモン患者と家族員のそれぞれの心を痛め、家庭内の平和を乱し、楽しかるべき家庭、相互に助け合うべき家族員を暗くするのである。その原因が、スモン患者の存在にあり、しかも予後に展望が見出せないことが、スモン患者の家族員に対する精神的負目になつていることは殆どの者が述懐している。

第四  その他の問題

一加令とスモン

一〇年、二〇年に及ぶ長年月の闘病生活は、中高年令層の多い原告患者らを、それ以上の速さで老化させた。

当裁判所に職務上顕著な事実によれば、昭和五一年度スモン班は、「スモン発生以来既に永年を経た現状では、症状は慢性固定化の傾向があり、一方では患者は次第に加令による老令化がみられるので、このような段階における日常生活上留意すべき点をまとめた指針とでもいうべきものが是非必要とされている。最も必要と考えられる数項目は

① スモンの現在の諸症状は後遺症であり、徐々ではあるが軽快することが多く、少なくとも悪化することはないので、正常の生活に少しでも復帰しうる様勇気をもつてリハビリテーシヨンなどに心がけることが望ましい。ただし、薬物治療に過度の期待は抱かない方がよい。

② 高令者、重症者は合併症も少なくないので、絶えず医師の観察下にあることが望ましい。

③ 日常生活上に特に制限はないが、下肢運動障害による外傷には充分留意することが必要である。(歩行障害による捻挫などがかなりみられるので、特に注意すべきである。)。

④ 保温に留意することが望ましい(下肢の冷えは著しく、冷えが強いと歩行もより障害される。したがつて、保温には充分注意すべきである。)。

⑤ 食事療法上は、合併症がなければ特に配慮はいらない。

⑥ 患者のおかれている現状に照らして、医師を含め、家族、友人など周囲のあたたかい配慮が望ましい。」と総括していることが認められる。

そして、すべての原告患者らは、自分達の将来、老後の健康状態に大きな不安と危惧感を抱いているのである。

二合併症とスモン

後記損害各論でも認定しているとおり、年老いた原告患者らを中心に、幾つもの合併症を併発している。スモン罹患前から別の病気をもつていたのに更にスモン病に罹患し、いよいよ身体を衰弱させた者、スモン病に罹患後に他の病気を併発し、益々身体を衰弱させた者など様々である。もともと心臓病を煩つていた二〇番田中小一はスモン罹患後六年余にして、又、もともとパーキンソン症候群を煩つていた四番中村和弘はスモン罹患後九年余にして、いずれも本件訴訟係属中に不帰の客となつた。

三医原病と医療疎外

スモンが医原病として日本に多発したことは、被告国、被告会社らは勿論、他の製薬関連業者、医師、医学・薬学関係に携わる学者、政治家、行政官、そしてその他のすべての国民に多くの課題を残している。

スモンは終つたのではない。原告患者らを含め、日本には一万人を超えるスモン患者が具体的救済の手を待ち望んでいる。今早急に治療と救済のため万全を期する取組みがなされなければならない。

そしてここで、多数の原告患者らがスモン罹患後今日に至るまで、医療機関から喜んで迎えられなかつたばかりか、却つて嫌悪の情さえ示され、有効な治療法がないことと相まつて、充分な治療、更に差し当つて最も重要なリハビリテーシヨンさえ満足に受けられずに来ている現状、即ち医療疎外ともいうべき状況も反省してみることが必要であろう。

四救済の立ち遅れ

原告患者らを含め、全国で一万人をこすとみられているスモン患者らに対し、被告らは未だ実質的救済に立ち上つているとはいえない。殊に被告田辺にいたつては、スモンの原因につきキノホルム説を真つ向から否定し、いわゆる井上ウイルス説を強固に主張しているのであるが、その意図が奈辺にあるのかを別にしても、その道義性には疑問を禁じえない。原告患者ら家族を含め全国の多数のスモン患者らが、これまで多年にわたつて放置され、又、スモン・ウイルス説等により、数々の仕打ちに涙してきたことを、改めて想起するべきであろう。

食品類製造企業に勤務している九二番鈴木陽一は、自分達の製品に瑕疵があつて消費者に多数の下痢、腹痛などをおこしたら、製品を回収するのは勿論、社会的信用は零になり、下手をすると営業停止、ひいては倒産にもなりかねないと前置きし、「今度のキノホルムの事件の場合、私どもは、お医者様にこれで治るよといつてのまされて、結果はただ厚生省の通達で発売中止になつたと。すみませんでも何でもない。大企業の方では一応企業の安全ということもお考えになるんでしようけれども、国家が許可したものであるから、これはよその国ではこういう例はないではないかというような通り一遍の言いがかりといいますか、発言だけで今のところはすんでいるというような状況でございます。……早く患者の救済ということに製薬会社が力を貸す、目を向けるというんですか、はつきりした態勢を示してあげると、希望を向けさせてあげるというのが、ぜひやつていただきたい」と穏やかに本人尋問を結んだ。

他の原告らと家族もすべて、早期救済を口々に激しく、声を限りに迫りつづけている。被告らは速やかにその叫びに答えるべきである。

第五  おわりに――原告らの訴えるもの

以上に述べてきた種々の被害は、それぞれが個別的なもの、孤立的なものでなく、互いに密接に不可分な総体として複合して、原告患者らを包み込み、日夜休む間もなく喘ぎ苦しめている。その根源が肉体的苦痛にあることからの叫び、安全であると信頼して飲んだ薬が毒であつたことを知つた悲しみからの叫びであることに、裁判所も被告らも、よく耳を傾けなければならない。これこそが本裁判の原点であるからである。

それは

第一に「もとの体にかえせ」との叫びにみられる早期完全救済への当然の願いであり、

第二に、「薬害根絶」との訴えにみられる道義性の高さである。一七番高砂佳枝は、スモンで青春をなくし、婚約者との結婚をあきらめ、六年の闘病生活を経て到達した心境を次のように述べている。「同じ患者に原田澄子さんがいます。その人が今年のスモン県民集会のときに、心の歌のひとつとして出されたものに、「こわれたる この身が役に立つという 薬害訴え 今日も街ゆく」スモンにかかつて私の希望することを何ひとつ自分でできない、それでも私の身体でやれることがあつた。健康な人よりも誰よりも。そして、すべての人々のためになることが。私は本当に教えられました。」(原第一七号証の三)薬害根絶という訴訟当事者の域をこえた国民的課題にどう答えるかが、今問われている。

第九章  損害各論

第一  はじめに

そこで、以下原告患者らの個々の損害を具体的に判断していくことになるが、なおその前提として次のような諸点を考慮しておく必要がある。

一スモンの認定

1 スモン協の臨床診断指針

原告患者らがキノホルム剤の服用によつてスモンに罹患したことが本訴請求の基礎であることはいうまでもないが、スモンに罹患したということは、前述したところからも明らかなように、現段階では患者の症状がスモン協の定めた前記診断指針に合致するということであろう。

しかし、スモンは昭和三〇年頃から各地に症例の報告が出はじめ、同三七、八年頃にこれが全国的に飛躍的に増加してきたもので、これらは腹部症状を伴う特異な神経障害といつた点で基本的にはほぼ共通の症状を呈してはいたが、その細部は多種多様であつたため、一つの独立した疾患であるか否かが論議されたような経緯もあり、その後、これが一つの疾患単位として一応結論づけられ、その診断の確定化と実態把握の正確化に役立てるため右診断指針が決定採用されたとはいうものの、このような経過に照らせば、その症状に多彩な内容を持つており、右診断指針に一〇〇%合致するものばかりではなく、若干の不一致があるものを含んでいる。そのことは右診断指針自体「……することがある」「……がよく見られる」「……することが多い」「……は稀である」といつた表現をとつていることからも窺われる。すなわち、右診断指針にほぼ合致するものを定型スモンとするならば、多少符合度の低い非定型スモンというものがあり得るということである。

そして、スモンにはもともと末梢神経疾患、脊髄疾患、視神経疾患その他の類似疾患があるとされており、これらとの鑑別は、殊に右非定型スモンとの関係で、問題があるように思われる。本件訴訟においてもそれらのことを理由に被告らから専門家による鑑定の必要性が主張された。

しかしながら、スモンの症状パターンは極めてユニーク(特異的)であり、その鑑別は臨床的には必ずしも困難でないとされているのみならず、その困難をいうものの多くはスモンの原因がキノホルムであるとする説の出現前のものであり、今日右キノホルム説の確立にともない、神経症状発現前のキノホルム剤服用の有無を前記診断指針に加えて鑑別を行なうならば、その診断は一層容易であろうとされている。

2 統一診断書について

本件訴訟において原告側は、原告患者ごとにそれがいずれもスモンであるとする原第一ないし第一七五号証の各一の診断書(いわゆる統一診断書)を提出した。証人本庄庸の証言によれば、右統一診断書はスモン患者らを守る会の呼び掛けに応じ、スモン患者の診断を行ないこれを支持する目的をもつて結成されたスモン医師団の構成メンバーにより作成されたもので、右医師団のメンバーは個々の患者を原則として三〜四日入院させたうえ、視診、問診、神経学的諸検査等を詳細に行ない統一カルテを作成し、これに基づいて右診断をしたというのである。しかし、右医師団のメンバーの多くは内科医であつて必ずしも神経科医ではない。医師団の結成にあたつては、スモン診断につき他の類似疾患との鑑別を可能にするように統一カルテの作成を準備し、診断の精度を高めるために前記鹿児島大学医学部の井形教授を招いて、その講演を聞き、スモン患者診察の実際を見分し、問題点の討議をするなどし、更にその後個別患者の診断についても問題があれば、相互に検討を重ねてきたというのであるが、そのメンバーの経歴等は全く明らかにされておらず、経験や能力は未知のままであり、しかも右医師団結成の目的などからすると、統一診断書の診断の正確性については幾分の危惧の念を禁じ得なかつた。

スモンについての十分な知識と経験を備え、しかも訴訟の局外にある公正な第三者を得ることが可能であるならば、おそらくそれによる診断ないし鑑定が最も望ましいものであろう。しかし、本件訴訟においてはその後の訴訟の過程で、かなりの数の診療録(カルテ)や、本訴提起前に作成された大学病院、公立病院等を含む各病院のスモン診断書、病状記録等が提出され、結果的に右統一診断書の信頼度についての検討の機会を得ることができた。その結果は、少なくともここに弁論の終結を見た原告患者らに限り、統一診断書の診断は大筋において一応信頼を置き得るものであつたといえる。勿論、右医師団のメンバーは大半の患者について当時のカルテ等を入手検討しておらず、患者本人に対する問診、神経学的検査等を主体にしているために、その発症前後の詳細については多少正確を欠くものがあり、また、その症状経過、程度等についての表現にいささか過剰ではないかと思われる点が見受けられないではない(もとより、カルテの記載は病院に応じて千差万別であり、すべてが患者の訴えや症状経過を詳細に記載しているわけではないから、その記載がないことをもつて直ちに患者の訴えるような症状等がなかつたと速断し得ないことはいうまでもないが。)。しかし、これらの点は投薬関連あるいは症度の判定において若干の問題を残したけれども、スモン診断の大筋については特に破綻を生ぜしめなかつた。結局、これらの問題点を補うことができるならば、スモンの診断には必ずしも専門家による鑑別を要しないということである。

そこで、当裁判所としては原告患者らの供述録取書、各本人尋問の結果に、右統一診断書、カルテ、病状記録、スモン診断書更には後記一号投薬証明書等を総合して、原告患者らのスモン罹患の点を判断することになるが、スモン診断指針に多少符合度の低いいわゆる非定型スモンもあり得ることは前記のとおりであり、又、被告らにおいても類似疾患名などを挙げて、原告患者らのスモン罹患の事実をかなり争つているので、先ずスモンの臨床症状について、次にその類似疾患について、今少し詳細に見ておくこととする。

3 スモンの臨床症状

〈証拠〉を総合すれば、以下の事実を認めることができる。

(一) 腹部症状

(1) 内容

腹部症状は本症に特異なものであると考えられており、これには、下痢ばかりでなく、腹痛、便秘、鼓腸、悪心、嘔吐などが含まれる、最も頻度の高いのは腹痛であり、一〇〇%から三〇%まで報告者によりまちまちであるが、スモン協の集計では約七〇%を占めている。痛みの性格は鈍痛から疝痛まで種々である。激痛に対して鎮痙剤や鎮痛剤が効かない場合もあり、これを本症の一つの特徴とする者もある。次に、スモン協集計によれば、約六四%が下痢を呈している。その内容は、水様性下痢から粘液性、粘液血性下痢、軟便までまちまちで、回数も一日一回から一〇数回に至るものまである。この下痢も一般に抗生物質や止潟剤に反応しがたいようである。その他の腹部症状は腹痛、下痢に比べるとその頻度は少ないが、時には頑固な便秘(下痢より頻度が高いとする報告もある。)を訴えるものがある。

(2) 腹部症状の経過に伴う分析

祖父江は、キノホルム説が提唱される以前に、スモンの腹部症状を、①神経症状発現前慢性的にみられるもの ②神経症状の発現と時期的に密着してみられるもの(前駆腹部症状) ③神経症状発現後の経過中に慢性的にみられるものの三つに分けて観察し、その結果を、次のように報告している。

まず、①の神経症状発現前の腹部症状については、少なくとも発症一年以前から発病時まで継続する慢性腹部症状を持つていたものは約八〇%であり、下痢(六四%)、腹痛(36.7%)、便秘、胃部膨満、嘔気など長年にわたり多彩な腹部症状を示す症例が多かつた。次に、右①とは異なり、より際立つた神経症状の前駆として②の腹部症状を挙げているが、前駆腹部症状のはつきりしている症例は87.6%であり、そのうち腹痛、下痢が36.8%で、特に腹痛は全体で63.5%に及び、約半数が激しい腹痛に見舞われている。更に、神経症状発現後も前駆腹部症状が持続することがあり(約四〇%)、又このような前駆症状の持続としての腹部症状とは別に、③の神経症状発現後の慢性期に間歇的又は持続的にみられる腹部症状があつて、発症後六か月以上を経た症例でも六六%にこれを認めており、下痢、便秘、腹痛、膨満感、食思不振など内容的には多彩で、神経症状発現前にみられる慢性的なものと類似していた。

(3) 腹部症状と神経症状の関連

これについては、(1)腹部症状から神経症状発症までの間にある程度の間隔が存在する症例 ②腹部症状に引続き神経症状を呈する症例 ③神経症状の発現後なお腹部症状の持続する症例の三つの型が認められるところ、祖父江らは、前駆腹部症状の種類により、腹痛単独のものは②の型が圧倒的に多いが、腹痛・下痢併存のものでは②③型が多く、下痢のみのものでは③②①の順に多いと、各型の頻度に差のあることを指摘していた。

腹部症状と神経症状の間隔は数日の場合が多いが、祖父江らによれば腹部症状の種類とは無関係に大半(八三%)が一か月以内であるという。

ところで、スモンの病因としてキノホルムが注目されて以来、キノホルム服用と腹部症状についての検討が行なわれるようになつた。

井形らは、キノホルム投与前の腹部症状が軽度でかつ多岐にわたり、下痢も水様便、粘液便など種々のものが含まれているのに対して、投与後は腹痛が圧倒的に多く、便秘、イレウス様症状を伴い、下痢は少なく、あつても激しい水様便ではないことを観察し、投与後の腹部症状のパターンが従来からスモンに特徴的と考えられてきた腹部症状に比較的よく一致するものとしている。

一方、安藤らも、スモンの腹部症状の中で特徴的な激しい腹痛はキノホルム使用後に高率に発現し、高度の膨満、便秘もキノホルムにより生じたものと推定されるとしている。

そして、被告田辺が後記(4)の主張において引用するように、昭和四〇年三月の日本神経学会総会においてつとに冲中重雄(虎の門病院)は、腹痛、下痢などの腹部症状は、腸管感染症に基づくばかりでなく、その病理所見からみて交換神経線維の高度の変化の存在することから、自律神経線維病変による腸管支配異常が腹痛、下痢その他の胃腸症状の原因となりうる可能性も否定できない旨を指摘していたが、その後大村らはスモンが腹部症状のみの時期に、すでに深部知覚障害ことに振動覚の低下及び反射異常が出現していた症例を認めており、このことは腹部症状がすでに神経症状の一分症であることを示すものかも知れないとされていた。

そして、キノホルム説の確立した今日においては、臨床診断指針に一項目として掲げられている腹部症状は、キノホルム剤服用の契機となつた一般的な腹部症状と、キノホルム剤の作用によると考えられる前記井形、安藤らの指摘するような腹部症状(祖父江の前記用語法とは異なるが、今日ではこれを前駆腹部症状と呼ぶのが一般的である。)とに分けられることは、スモン研究者のほぼ一致して認めるところである。

(4) 被告田辺の主張について

ところで被告田辺は、損害各論に関する主張中で、キノホルム剤の服用によつても治癒しない腹部症状を、一方でウイルス性を示唆するものとしながら、全てスモンに特有の前駆腹部症状としてとらえ(前示したような一般的な腹部症状を特に区別することなく。)、この症状の発現以前にキノホルム剤の服用が認められない原告患者は全てキノホルム非服用スモン患者であると主張している。

なるほど、スモンの腹部症状を前記のように一般的な腹部症状と前駆腹部症状とに分けたところで、常にそれと区別しうるほどの症状の変化が見られるわけでもなく、時間的にも接続し、同一の症状が持続して多少その間に変化、増強が見られる程度のことも多く、臨床上必ずしもこれを明確に区別し得るものでもない。しかし、それが明確に区別できないからといつて直ちにキノホルム剤服用の契機になつた一般的腹部症状にまで遡り、これがキノホルム剤の服用により容易に治癒しなかつたからといつて、そのときすでにスモンの神経症状の一分症としての前駆腹部症状(冲中のいう自律神経線維の病変に基づく腸管支配異常による腹痛、下痢その他の胃腸症状)があつたとするのであれば、原告患者らは勿論スモン患者の殆どは、その後にキノホルム剤を服用しており(キノホルム剤が腹痛、下痢等の多彩な胃腸疾患によく効く薬として宣伝販売され、かつ、使用されていたことから、このことは自然である。)、前駆腹部症状発現前キノホルム剤非服用となる。

しかしながら、スモンの腹部症状ことに自律神経症状の発現といわれている前駆腹部症状についての右の如き把握は、前記の今日におけるスモン研究者の有する認識とは明らかに異なつており、むしろ独自のものであつて、到底賛同できない。もし、被告田辺がなお前駆腹部症状発現前キノホルム剤非服用をいうのであれば、前記の用語法に則つて、原告患者の前駆腹部症状の発現時期を今少し正確にとらえたうえ、それ以前の非服用を問題にすべきである。しかし、そのような前提に立つての主張、立証はなされていないので、結局、この趣旨の被告田辺の主張は、各論において逐一判断を示すまでもなく、失当であるといわなければならない。

(二) 神経症状

(1) 初発神経症状

スモンの神経症状は、両下肢ことに足部のしびれ感で始まることが多い。しかしながら、少数ではあるが、下肢全体のしびれや、大腿、腰、下腹部のしびれ感、或いは歩行障害、下肢の冷感・筋痛、足の知覚過敏、更には脱力、倦怠感、視力低下等で始まるものもあると報告されている。

(2) 神経症状の完成

本症の神経症状の完成は急性ないし亜急性で、数日から二週間とされているが、時には一ないし二か月にわたり進行するものもある。症状は上向性の進展をたどるが、少数例ながら、下肢全体に同時にしびれをきたすものや、下行性の進展を示すものも認められたとされている。

(3) 知覚障害

知覚障害はスモンにおける必発の症状であり、かつ中核的な症状で最後まで残存し、患者を長く悩ませる症状である。本症の知覚障害は両側性で(スモン協の報告では72.02%)未梢優位性であり、その上界は不鮮明で明らかな横断性レベルを示さない。知覚の障害レベルは腰・腹部で停止するものが多いが、時には上肢にまで及ぶものもある。上肢の知覚障害は、しばしば下肢の知覚障害が上向して腹部に及ぶ頃に出現するが、下肢のそれに比べて頻度は低く、しかも軽度で一過性であることが特徴である。

知覚障害の内容は特異であり、患者は長時間正座した際に起こるような異常感、即ちしびれを感じることが非常に多い。

他覚的には、触覚、痛覚、温度覚、深部知覚の障害が認められるが、多くは知覚の鈍麻で、ときに過敏な場合もある。しかしながら、これに後記のような異常知覚が加わるためにしばしば判定が困難となる。

スモン協の報告では、異常知覚ありというものが92.53%、「ものがついている」が41.02%、「しめつけられる」が31.49%、「ジンジンする」が50.60%、その他の異常知覚が6.76%で、下肢の深部知覚異常ありというものが55.74%となつている。

そして、これらの知覚障害は日によつて程度が変化し、特に寒冷、運動、便秘、女性では月経時に増強することがあるとされる。

(4) 運動障害

上肢の運動麻痺は少ないが、下肢の運動麻痺は非常に多く、起立、歩行が障害されるが、一般に不全麻痺のことが多い。運動障害の頻度については諸家により三一%ら一〇〇%まで、さまざまであるが、スモン協報告では、下肢の筋力低下を示したものは59.2%、上肢の運動障害は6.17%となつている。

(5) 腱反射及び異常反射

下肢の深部反射については、膝蓋腱反射が亢進し、アキレス腱反射はしばしば減弱ないし消失する傾向が認められている。しかしながら、腱反射は、末梢神経障害と脊髄障害との組合せで決定されるものであるから、末梢神経障害優位の場合には、右両腱反射がいずれも減弱ないし消失する症例がある。この場合、末梢神経炎との鑑別が紛らわしいが、経過中の腱反射の変動に注意しておれば、病初に減弱ないし消失していた膝蓋腱反射が次第に亢進してくる症例も多い。これは初期に存在した末梢神経障害の改善とともに、脊髄錐体路の障害が前景に出てきたものと理解される。

スモン協報告では、錐体路徴候を認めるものは57.85%、下肢腱反射亢進ありとするものは44.10%、バビンスキー反射陽性例は13.53%となつている。

(6) 視神経障害

視力障害は、下肢の知覚異常あるいは脱力感などの神経障害を訴えてから一か月又はそれ以上を経てから発現するものが多く(種々の報告があるが、一か月から六か月以内に殆どが出現し、そのうち三か月以内が約五〇%とされている。)、神経障害の発現と同時又はこれに先行することはまれである。一般に、両眼の視力障害が同時に現われ、その変化は平行した経過をとる。視野は両側性の中心暗点と求心性の視野狭窄とである。眼底所見は、両側に同程度の乳頭全面褪色ないし耳側褪色が認められている。奥田らは眼底病変を単性視神経萎縮型、軸性視神経萎縮型、視神経炎型の三型に分類しているが、視力低下と同時に眼底に病的所見を認めることは少なく、むしろ初期では視野、色覚に異常が検出されることが多く、検眼鏡的に眼底病変が確認されるのはかなり遅れるだろうとされる。

視力障害は、スモン重篤例に多く、又再燃に際して出現することは諸家によつて認められている。

眼症状は視力減退(自覚的)、霧視から全盲に近い状態に至るものまでその程度は種々で、それが一過性で軽快するものもあれば、終始全盲で経過する悲惨な症例もある。

スモン協報告では、両側性視力障害の頻度は20.13%、全盲は2.8%となつている。

(7) 脳神経障害、精神症状

複視、構音障害、嚥下障害、聴力障害などの脳神経症状を訴えるものもある。又、軽度の精神症状を呈するものがかなりあり、一般に抑うつ傾向を示すが、これが本症固有の症状であるか否かを断定するには困難を感じる場合もあるといわれている。

スモン協報告では、これら脳、精神症状を含めて6.71%とされており、頻度の多いものではないが、球麻痺症状が本症の直接死因となることが多い点は注目に値する。

4 類似疾患について

スモン班昭和五一年度研究業績中の「スモンの類似疾患に関する研究」(六四頁以下)において、スモンとその類似疾患との鑑別上の要点が、ほぼ網罹的に述べられていることは、当裁判所に顕著な事実である。右研究報告の内容に、更に、〈証拠〉を総合すれば、次のように各疾患とその鑑別点を認めることができる。

(一) 多発性硬化症

多発性硬化症では左右非対称性の運動及び感覚障害があり、左右不同の四肢の不全麻痺を示し、深部反射は上下肢ともに亢進することが多く、腹部症状、手袋、靴下型の感覚障害はみられない。又本症は高令者における多発が少ない。

スモンにおいては、しばしば深部反射が低下するが、これはスモンの場合末梢神経障害があるためであり、脱髄疾患との差異といえる。

(二) デビツク病

スモンの重症例においては、強い視力障害と下肢の完全麻痺を呈する場合があり、この病像はデビツク病に類似する。しかしながら、デビツク病では腹部症状を伴うことはなく、下肢の感覚障害と運動障害とが急激にかつ殆ど同時に出現し、感覚障害のレベルは明確で、上肢の運動障害も強く、上下肢のおかされ方は非対称性で、膀胱障害も長くつづく。症状の寛解と再燃を示すものもあるが、下肢の異常感覚はスモンのように強くない。

(三) ギラン・バレー症候群

本症は上気道炎ないし胃腸炎を先駆することがあり、運動障害が優位に立つ。錐体路徴候は稀で、下肢の深部反射は殆ど消失又は減弱する。顔面神経障害が最も多く、次いで構音障害、嚥下障害も多いが、視力障害は殆どない。髄液は蚕白細胞解離を示し、経過は良好で六か月以内に治癒するものが多い。

(四) 糖尿病性ニユーロパチー

本症は、糖尿病のコントロールが不十分な人にみられる。多くは感覚障害が優先し、初発症状では下肢のビリビリ感を含む異常感覚と痛みで、軽度又は中等度の下肢の脱力を示すが、完全麻痺をみることは稀である。アキレス腱反射は多くは消失し、膝蓋腱反射は約半数で消失する。他覚的感覚障害は下肢の遠位部にみられ、深部覚障害もしばしば認められる。筋の圧痛もみられる。膀胱障害、瞳孔異常を示すことがあり、又眼筋麻痺、顔面筋力低下をみることもある。腹部症状はなく、錐体路症状はみられないところがスモンとは異なる。

(五) 脊髄癆

下肢の電撃痛、深部感覚障害による失語症状、瞳孔異常、膝蓋腱反射消失等を呈する。発症が緩徐で、下肢の異常感覚はなく、錐体路障害もみられない点でスモンとは鑑別できる。

(六) クロラムフエニコールによる神経障害

本薬剤は骨髄障害を起こすことが多いが、時に視力障害、末梢神経障害を示し、又頭痛、精神症状、内眼筋麻痺をみることもある。視力障害と末梢神経障害の組合せは症例により異なる。クロラムフエニコールの長期大量投与によつて起こり、両側下肢遠位部の感覚障害が主となり、灼熱感、ビリビリ感などの異常感覚があり、時にバビンスキー反射をみる。視力障害は軽度のものから失明に至るものまである。本薬剤を長期にわたつて投与されており、しかも運動障害が軽く、腹部症状のないことがスモンとの鑑別点である。

(七) エタンブトールによる神経障害

抗結核剤には、ストレプトマイシン(SM、以下いずれもかつこ内のとおり略記する。)、パラアミノサルチル酸ナトリウム(PAS)、イソニコチン酸ヒドラジド(INH又はINAH)などの一次抗結核剤と、エタンブトール(EB)を含め、カナマイシン(KM)、サイクロセリン(CS)、エチオナミド(TH)などの二次抗結核剤があるが、これらはその副作用の一つとして神経系に対する障害を示すものが多いとされている。そのうち原告患者中にも服用例が認められ、まず代表的なEBとINHをとりあげることとする。

先ずEBには、ニユーロパチーの他に脊髄、視神経の障害を起こすことがあるとされる。服用開始から二か月以内で約六〇%、四か月以内で九〇%が発症し、足のしびれで発症するものが半数近く、感覚障害の範囲はL1(第一腰髄)のレベルまでのものが多い。上肢の感覚障害は約三〇%にみられる。感覚障害は表在覚、深部覚ともにおかされる。四肢の筋力低下を伴うものがあり、深部反射は膝蓋腱反射亢進、アキレス腱反射低下ないし消失例が多い。視力低下は高度のものが48.5%にみられる。

スモンとの鑑別は、腹部症状のないこと、足、下腿などにスモンの様な特異な異常感覚を伴わないことによる。

(八) イソニコチン酸ヒドラジド(INH)による神経障害

INHによつて生じるニユーロパチーは、手指、足趾の異常感覚で始まり、次第に進行して手袋、靴下型の感覚障害を呈する。表在覚障害の方が深部覚障害よりも強い。症状が進むと運動障害が現われ、筋力低下を来す。深部反射は膝蓋腱反射、アキレス腱反射とも低下又は消失する。服用開始から発症までの期間は三年までと四年以上が相半ばし、一年未満は約一〇%に過ぎず、逆に六年以上が三〇%も占めている。

スモンとの鑑別は、上肢の感覚障害が早期にみられ、下肢の感覚障害は多くは膝以下に止まること、視力低下、腹部症状はみられないことによる。

(九) ビタミンB12欠乏(悪性貧血)

本症は、後索性運動失調、四肢遠位部に強い異常感覚、下肢に著しい筋力低下、深部反射の低下又は亢進、錐体路症状などの臨床像を呈する。異常感覚は下肢のみならず上肢、腹部、胸部にも出現することがあり、他覚的深部覚低下を伴う。時に表在覚低下をみることもある。他に高色素性貧血、舌炎、胃液低酸性、巨大赤芽球出現などの一般内科的所見がある。又胃全摘後数年経つてビタミンB12欠乏症状が出現する例は必ずしも稀でない。

一般内科的所見に注意すればスモンとの鑑別は可能であり、胃腸症状もみられないが、神経症状の上での鑑別は必ずしも容易でない。深部感覚障害、運動障害が共に強く、又眼症状は極めて稀である。

(一〇) ペラグラ

本症は、ビタミンB1複合体特にニコチン酸を主とする欠乏状態により起こり、胃腸症状(食欲不振、嘔吐、下痢)、対称性皮膚発疹、舌炎、精神症状、上下肢の感覚障害と異常感覚、四肢遠位部の脱力、深部反射の減弱ないし消失、錐体路症状、瞳孔反応減弱、振せん、錐体外路症状等を呈する。

全身症状と末梢神経以外の精神症状、瞳孔反射減弱、錐体外路症状などに注目すれば、スモンとの鑑別は可能である。

二キノホルム剤の服用

1 はじめに――立証の必要性

次に当然のことであるが、原告患者が発症前(症状の増悪が主張されているものについてはそれ以前)にキノホルム剤を服用したか否かが検討されねばならない。

前述したように、スモン協による二回の全国的なキノホルム剤服用調査の結果は約一五%の非服用例を報告し、キノホルム剤を服用しないスモンが存在するかのごときものであつたが、その後の検討により右非服用例は、調査の不完全によつて実際は服用した者が非服用として報告され、あるいは誤診によつてスモンでないものがスモンとされたりしたものを含み、むしろ疑問があるとされ、更に研究の積み重ねによつても、キノホルム以外にスモンの原因として見るべきものが一向に見出されず、昭和四七年のスモン協総会での「わが国でスモンと診断された患者の大多数は、キノホルム剤の服用によつて神経障害を起こしたものと判断される。」との総括から、一歩進めて「キノホルムなきところにスモンなし」とさえいわれるまでに、今やスモンの原因はキノホルムであり、キノホルムが唯一の原因であるとされるに至つているのである。勿論、科学の限界からして一〇〇%そうであるとまで断定はできないとしても、そこに極めて高度の蓋然性があることはもはや争い得ないように思われる。

そうだとすれば、原告患者がスモンに罹患していることが明確に診断されるならば、そのことは当然にキノホルム剤の服用を推認させるはずであり、改めてキノホルム剤服用の立証は必要がないかのごとくである。しかし、いやしくもキノホルム剤の服用によつてスモンに罹患したとし、その責任を製薬企業に問う以上、発症の原因がどの製薬企業の製剤であるかを明らかにしなければならないのは当然であり、また一方、キノホルム剤の服用の多少にかかわらず全ての患者がスモンに罹患するものでもないので、右薬品名のみならず、その投薬の時期(期間)と量とが、少なくとも発症ないし増悪との関連を推認させる程度には明らかにされねばならない。

2  投薬証明書について

原告らは本件訴訟において投薬の期間及び量はその必要がないとして、訴訟提起前にあらかじめ右投薬の期間と量の記載がある投薬証明書(いわゆる一号投薬証明書)を医療機関から交付を受けていながら、各原告患者らにつき投薬を行なつた病院名とその初診、終診日及び薬品名のみを記載した投薬証明書(原第一ないし第一七四号証の各二)を証拠として提出した。しかし、これによつては右病院でキノホルム剤が投与された事実は明らかになるにしても、初診日と終診日との間が甚だしきは数年に及んでおり、果してその間のどの時点で投薬がなされたか不明であり、発症との関連を確認するすべがない。原告患者本人尋問の結果等によつても、投薬内容を熟知しないのが殆どであつて、これによつて補うこともできない。加えて、患者らが同一時期に、あるいはその時期を若干前後して、二か所以上の病院で診療を受け、それぞれ投薬を受けることはしばしばであり、かかる事例においてその必要性は一層明らかであろう。本件訴訟の場合、前記のようにカルテが提出され、又、いわゆる一号投薬証明書も結局提出され、その点はかなり明確にされるに至つた(現にその必要があつたことは後に個別に判断したところからも明白であろう。)。

しかし、以上のことは投薬病院による、それも期間と量とを具体的に記載した証明書の存在を絶対の要件とするものでないことは勿論である。すでに医療機関のカルテ等の保存期間が経過し、投薬関係を証明すべき資料の失われているものもかなりの数に達し、又、医療機関の中には本件のような紛争に巻き込まれ、あるいは自己の責任を追及されることをおそれて、容易に投薬関係を明らかにしようとしないものも間間ないではない。そのような場合、前記内容の投薬証明書のみではなく、これに代り得る資料によつての立証が許されてしかるべきである。所詮はその資料の証拠価値の問題にすぎない。そして、発症前にキノホルム剤の投与が考えられるような腹部症状等を訴えて入通院していた等の事実があり、引続き出現した神経症状がスモンと明確に診断されたような事実が明らかにされるならば、その間のキノホルム剤の服用の立証はさほど困難ではあるまい。

これを要するに、スモンの明確な診断はキノホルム剤の服用を推認させるものであり、他面、キノホルム剤服用の事実はスモンの診断を補強するものといえるであろう。

三損害額の算定

1 包括請求について

ところで原告らは、原告患者らがスモンに罹患したことにより、精神的、肉体的苦痛はもとより、社会的、家庭的、経済的にあらゆる損害を被つたとし、これら患者について生じた損害のすべてを包括したもの(人間破壊に対する損害)として、三段階に分けた一定額の請求をしている。そして、原告患者らがスモン発病以来少なくとも七年余をすでに経過し、その間の入通院による治療費、交通費、付添看護料その他の諸雑費、更には車椅子、補装具、住居の改善費などの支出を余儀なくされ、また、その間十分に稼働できず、あるいは完全に職を失つたため、発病から現在まで、更には将来に向つて、その得べかりし利益の損害を被つていることは、十分に想像できるところであるが、これら多項目の損害を個々に立証していくことは非常に煩瑣であり、特にそれが長期間に及ぶときは事実上困難でさえもある。そこで、このような場合には、これらの諸損害と精神的、肉体的苦痛に対する慰藉料とを併せ包括したものとして、一定の損害額を主張し請求することも、特に将来別訴の提起等によつて不都合を生じるおそれなどがない限り、許されるものというべきである。

2 算定に際し考慮すべき事項

そこで、当裁判所はこれら多項目の損害を内容とする総損害額を認定判断することになるが、その際次のような諸点を考慮した。

(一) 障害の程度(重症度)

原告患者らは同じくスモンに罹患しているとはいうものの、その発症の態様、障害の部位・程度、最近の症状等を含めて検討すると、そこにはおのずから軽重の差があり、これに基づく精神的・肉体的苦痛は勿論経済的損失にも当然相違があると見られるので、これを考慮しないことは却つて不合理である。

しかもその際、重症者のうちでも失明者、歩行不能者若しくはこれに準ずるような超重症者については、その被害の深刻さもさることながら、長期間にわたり常時親族その他による付添介護を必要としており(他の患者も多くはその家庭においてあるいは職場において大なり小なりの介助を受けてはいるが。)、特別の配慮がなされねばならない。

(二) 発症時の年令

スモンの症状は一般に回復が困難であり、殊に神経症状は容易に軽減せず長期間にわたつて持続するとされる。その間の神精的、肉体的苦痛の大きさ、逸失利益の損害等を考えるうえで、発症時の年令は十分に斟酌さるべきであり、特に年若くして発症した患者に対しては、その人生の最も重要な時期をスモン被害のうちに送つたことが考慮されねばならない。

(三) 治療期間

入通院等の治療期間は一面、スモン患者の症状の程度を裏付けるものではあるが(勿論、症状が軽快しないにもかかわらず、経済的理由から或いは適切な治療方法がないことから、治療を断念して入通院をやめた者もあり、その期間が短いことのみから軽症と速断することはできないが。)、その間の治療費、交通費、その他の諸雑費の支出による損害を測るうえにおいても必要である。

(四) 職業関係

原告患者が発症当時どのような職業に就き、それがスモン罹患によりどのような経過(休業、復業、失業、転職等)をたどつたかは、その逸失利益の損害とともに、それに伴う精神的苦痛と併せて、十分に考慮されねばならない。それが主婦である場合についても、スモン罹患により家庭内の仕事に従事することがどのように制約されたか、同様の観点で考慮されねばならない。

(五) 家族構成

患者の家族構成もまた考慮の必要がある。発症時その患者が一家の経済を支える者であつたとき、あるいは幼い子女を抱える母親であつたときなど、その被害の甚大さは十分に想像できるところであり、患者を抱える家族の発症から現在まで、更に将来にわたつての苦しみも理解しなければならない。

3 損害額算定の基準時

本件原告患者らは早い者で昭和三四年、それから同四五年九月八日前記行政措置によりキノホルム剤の販売使用が中止されるまでの間に、それぞれキノホルム剤を服用しスモンが発病したとされているところ、原告らはいずれもその損害額に右行政措置の日を起算日として遅延損害金を併せ請求している。ところで、スモンの各種症状は時の経過によつて多少の軽減を見るものがあるにしても、完全に治癒することは殆どないとされており、殊にその中核をなす神経症状は長期間持続して患者らを悩ませている。原告患者らもすでに前記したように七年ないし二〇年近くの歳月をこのスモンの症状に耐えてきているのである。そして、当裁判所も提出の各証拠によつて、その発症からごく最近までの病状経過を含め原告患者を取り巻く諸般の事情を検討してきた。

そこで、当裁判所が認定判断した原告患者らの損害額は、スモン発症後から本件口頭弁論終結の時点に至るものを、将来への展望を含めて、口頭弁論終結時において評価したところであり、したがつて遅延損害金の起算日もまた右口頭弁論終結の日とすべきである。そして、そのような認定判断はこの種事案の処理については妥当なものと考える。

第二  損害額

〈編注、原告番号一は投薬証明書を有する者、同七はいわゆる推定投薬証明書を有する者、同八〇は投薬証明書を持たない者である。〉

一原告越智義信

〈証拠〉並びに昭和四九年一一月二二日右原告方において施行の検証の結果によれば、次のように認められる。

1 同原告は大正一三年三月一六日生れで、旧中野高等無線電信学校を卒業後、昭和一七年から満州国の治安部に警務司として勤め、同一九年からは兵役に就いていたところ、終戦とともに郷里の福岡に帰り、しばらくは炭鉱関係の仕事につき、同二九年からは炭鉱の自営もしてみたが、これは経営不振で失敗に終つた。同三六年結婚したが子供はない。この頃から手に職を持つことを考え左官職の見習に入り、以後左官職を続けてきたが、そのかたわら同四四年七月には社会保険労務士の資格を取得し、老後の生活設計に備えてきた。

2 昭和四四年七月中旬頃から食欲不振で下痢が続き、近医で胃透視を受けたところ、胃には異常がないが肝臓が弱つているといわれ、福岡市西区姪の浜の早良病院を紹介されたので、同年九月一日同病院を受診したが、同病院では肝硬変又は慢性肝炎の診断で早速入院となつた。入院後、精密検査を受けたが、更に下痢が激しくなり、これに対し九月一〇日強力メキサホルム錠(以下「強力メキサ錠」と略記する。)を一日九錠あて三日分、同月二〇日同じく二日分、一〇月一八日から翌四五年八月一三日まで同じく一日九錠あて連続して投与を受けた。

3 右投薬を受けるようになつた後も下痢が続き、やがて下腹部痛や腹部膨満があり、吐き気を伴つて食欲が全くなくなつていたところ、同四四年一二月末には両足の裏にしびれ感が始まり、足を地につけていても宙に浮いているような感じがあつた。この異常な感じは徐々に上向し、翌四五年一月五日頃には腰のあたりに達していたが、それとともにジンジンするような痛みも起つてきた。そして一月一一日頃からは眼の前に虹がかかつたような感じで視力障害も発生し、新聞も読めなくなつたので、同月二三日眼科医を受診したところ、視神経の萎縮を指摘された。一月下旬には下肢のしびれや痛みが更に強まり上向していたが、二月中旬には乳頭部付近まで達し、その頃しばらくは殆ど寝た切りの状態になつた。その後、症状は一時軽快して歩行もできるようになつていたが、六月中旬には再び腰の痛みやしびれが増強して、しばらくは起立歩行とも困難になり、同月下旬には視力もいよいよ低下して(同月二二日現在0.01)殆ど失明状態になつた。

4 同病院では発症後間もなくの頃から、右原告の症状をスモンと診断していたが、その間も引続き強力メキサ錠の投与を続け、キノホルム説の発表がなされた後、同四五年八月一三日をもつて右投薬を中止した。同年九月一五日右病院を退院し、以後自宅で静養しながら月に一、二回右病院に通院を続けてきた。ところが同五一年三月一日高血圧に基づく痙れん発作のため自宅で倒れ、即日入院して三か月間治療を受け、五月三〇日退院した。(なお、右原告をはじめ原告患者ら(すでに死亡していた者を除く。)はいずれも前記統一診断書を作成のため、スモン医師団を構成する医師により、それぞれの病院において改めて諸検査を受け、少なくともここに弁論の終結を見た原告患者らはすべてスモンとの診断を受けているのであるが、その点付記を相当とする場合のほかは特に記載しない。)

5 最近の症状は、胸部以下の知覚障害と視力障害及び歩行障害であるが、視力は眼底に視神経萎縮が認められ、殆ど失明に近く(眼前指数一〇cmとも三〇cmともいう。)、また歩行は独歩ができず、通常は一方で杖をつき、他方で人の肩などにつかまりながら歩くが、長時間の歩行は困難である。

なお、同原告にはかねて飲酒癖があり、スモン発病前の昭和四三年八月頃から肝硬変症または慢性肝炎で治療を受けて来ており、また、前記したように同五一年三月には高血圧による痙れん発作のため倒れたこともあり、これらが右原告の現在の症状に何ほどかの影響を及ぼしていることは否定できないが、その症状の主たるものはスモンによるものと認められ、その影響は当裁判所の判断を左右するほどのものではない。

6 同原告は四五才でスモンに罹患したが、殆ど失明に近く、しかも杖に頼り妻の肩にすがつてようやく歩行できる程度であるから、すべてについて妻の介助を受けている。発病当時は左官としての仕事も安定し、子供もいないところから、老後の生活に備えて社会保険労務士の資格も取得していたが、スモン発病によりこれら収入の道を閉ざされ、かねての貯えも使い果し、いまは生活保護を頼りに妻と二人で細々と生活している。

以上認定のとおりであつて、同原告は強力メキサ錠の服用によりスモンの発病を見たものというべきところ、その損害額としては前記諸般の事情を考慮し金四三〇〇万円とするのが相当である。(従つて被告チバ、被告武田及び被告国が同原告に対して損害賠償責任を負う。以下の原告患者らについては、責任を負う被告をかつこ( )書きで、単に「チバ」「武田」「田辺」「国」と表示することとする。)

三原告中島美代子〈省略〉

四(亡中村和弘相続人)原告中村清子、同中村陽一、同中村健実、同中村和泉〈省略〉

五原告別宮逸郎〈省略〉

六原告松延ツヤ子〈省略〉

七原告宮津三紀子

〈証拠〉によれば、次のように認められる。

1 同原告は昭和一八年八月二七日生れで、高校を卒業後、洋裁を勉強したり会社勤めをしたりしたが、同四二年頃からは自宅にあつて結婚の準備などをしていた。

2 昭和四三年九月下旬頃、下痢を伴つた腹痛があり、大牟田市三川町の藤本医院を受診し、約一か月間同病院で治療を受けた後、同年一一月初旬頃同市諏訪町の田中医院へ転医し、同医院で同月中旬まで治療を受けたが、右両医院に通院中、いずれもカルテが現存しないため、投薬の量、期間とも明確ではないが、それぞれエマホルムの投与を受けた。

3 右各医院で投薬を受けるようになり、腹痛は一時軽快したが、下痢が続いていたので通院を続けていたところ、同年一〇月下旬には全身がだるく力が抜けたような感じで食欲も減退してきた。そして、一〇月末もしくは一一月初め頃から足先にしびれが始まり、これが徐々に上向して腰のあたりに達するとともに、両下肢に脱力感があつて歩行も不安定になつたが、一一月一四日頃には複視も出現した。

4 右のような状態になつたので、同年一一月一六日同市不知火町の大牟田市立病院を受診し、同月一九日から同病院に入院したが、同病院において同月一六日から翌四四年一月二〇日頃までの間、強力メキサ錠を一日六錠あて連続して投与を受けた。病状記録によれば、同年四月一八日まで引続いて強力メキサ錠の投与がなされたかのごとくであるが、カルテの同年一月二一日の欄には「メキサホルム中止」の記載があり、その後の投薬は明らかでない。

5 右病院での診断は胃炎、腸炎及びスモンであつたが、入院後間もなく、下肢のしびれや脱力が更に増強して、起立歩行とも不能になり、ベツドに寝た切りとなつた。そして、同四三年一一月下旬には両手の指先もしびれるようになり、一二月上旬には視力が低下して五mも離れると物が見えないほどであつた(なお同原告の供述録取書によれば、その視力は発病前は左右とも1.5であつたのが、当時右0.01、左0.15と急に低下したというのであるが、この頃眼科で検査を受けた形跡は見当らず、その点正確ではない。統一診断書によれば、右の視力は後記のように同四七年二月頃福岡盲学校に入学前のものと認められるのであるが、その間さしたる変化もないところから、そのように述べているものと思われる。)。しかし、症状はこの頃が最悪期で一二月中旬頃からは四肢のしびれが次第に減弱し、翌四四年一月上旬には手の症状は殆ど軽快した。そこで、徐々に下肢の屈伸運動やマツサージなど機能回復の訓練が始められ、二月に入ると平行棒につかまつて立つような練習も始めたが、十分な成績も上らないまま、同年五月二四日退院した。

6 引続きリハビリのため、その設備のある熊本県荒尾市の荒尾市民病院に入院し、同四五年一〇月頃まで約一年七か月機能回復訓練に努めたが、両足に補装具をつけ、平行棒などにつかまつて歩ける程度にしか回復しなかつた。そこで、しばく自宅で療養した後、同四六年三月から前記九州労災病院に入院し、再びリハビリに努めた結果、両足に補装具をつけ二本杖を使用すれば一〇m程度はどうにか歩けるようになり、同年一一月頃退院した。退院後も夜間に母親の介助を受けて歩行練習に努めていたが、更に幾分かは進歩があり、五〇m程度は歩けるようになつている。

7 最近の症状は、胸部以下の知覚障害と視力障害及び歩行障害であるが、視力は右0.2、左0.3で視野狭窄があり、眼底では両側ともかなり著明な耳側蒼白が認められている。歩行は松葉杖、補装具を使用してようやく可能であり、器具なしでは起立もできない。しかし、右器具を使用しても一〇mの歩行に三〇秒を要し、五〇m程度が限度である。

8 同原告は二五才でスモンが発病した。当時かなり進行した縁談もあり、結婚したらデザイナーの道を目指しながら働き続けよう、努力して幸福な家庭を築いていこうと、希望に胸をふくらませていたが、スモンはすべての夢を打ち砕いてしまつた。しかも、発病により視力は著しく低下し、昭和四七年二月頃には右が0.01、左が0.15となるに及び(現在は幾分改善を見ているが)、更に将来にわたり視力が低下していくことに不安を感じ、幾分でも見えるうちに点字でも勉強したいと考え、同年四月決意して福岡盲学校に入学し、三年間で一応鍼灸、マツサージの資格なども取得した。しかし、外出さえも自由にできない体力のため、これを生かすこともできず、現在は年老いた両親の庇護のもとに、自分の身の回りのことだけをしながら、その日を送つている。

以上認定のとおりであつて、同原告はエマホルムの服用によりスモンの発病を見、更に強力メキサ錠の服用によりその症状の増悪を見たものというべきところ、その損害額としては前記諸般の事情を考慮し金三八〇〇万円とするのが相当である。(チバ・武田・田辺・国)

八原告和藤勝美〈省略〉

九原告阿部康子〈省略〉

一〇原告井上美知子〈省略〉

一一原告岡部千代子〈省略〉

一二原告川口進〈省略〉

一三原告熊谷喜久男〈省略〉

一四原告児嶋政仁〈省略〉

一五原告酒井ナツヨ〈省略〉

一六原告篠原萬里子〈省略〉

一七原告高砂佳枝〈省略〉

一八原告高橋千代子〈省略〉

一九原告田中重雄〈省略〉

二〇(亡田中小一相続人)原告木村倭文子、同田中君江、同田中良文〈省略〉

二一原告坪井洪〈省略〉

二二原告藤シノブ〈省略〉

二四原告長尾ヤエコ〈省略〉

二五原告西利雄〈省略〉

二六原告原田澄子〈省略〉

二七原告前田顕〈省略〉

二八原告前田ツタエ〈省略〉

二九原告間地高明〈省略〉

三〇原告松本ヨシエ〈省略〉

三一原告宮本摂子〈省略〉

三二原告牟田要〈省略〉

三三原告川崎龍哉〈省略〉

三四原告佐野ハルエ〈省略〉

三五原告諸岡冨美子〈省略〉

三六原告山本ヨシエ〈省略〉

三七原告古賀喜規〈省略〉

三八原告池田ミツエ〈省略〉

三九原告石松サワノ〈省略〉

四一原告牛島寿美子〈省略〉

四二原告梅崎エツ〈省略〉

四三原告江崎シゲノ〈省略〉

四四原告大賀利平次〈省略〉

四五原告鐘ケ江スガエ〈省略〉

四六原告古賀邦芳〈省略〉

四七原告坂井清〈省略〉

四八原告白尾サトリ〈省略〉

四九原告冨森アサ子〈省略〉

五〇原告福山カツ〈省略〉

五一原告船崎周一〈省略〉

五二原告森フジ子〈省略〉

五三原告山口〈省略〉

五四原告山口豊〈省略〉

五五原告雲丸正利〈省略〉

五六原告龍作一〈省略〉

五七原告龍ミヨカ〈省略〉

五八〜六〇(亡栗原義一相続人)原告栗原礼子、同栗原知子、同栗原佳子〈省略〉

六一〜六五(亡芳野カヨノ相続人)原告塚本安子、同芳野憲二、同時枝知子、同高木吉広、同高木祐治〈省略〉

六六原告鳥羽道子〈省略〉

六七原告細井タツ子〈省略〉

七〇原告岩本キミエ〈省略〉

七一原告権丈トモエ〈省略〉

七二原告坂本義知〈省略〉

七三原告近見タネ〈省略〉

七四原告原田ミサエ〈省略〉

七五原告原富男〈省略〉

七六原告的場マサ子〈省略〉

七七原告吉田冨美子〈省略〉

七八原告山口シズエ〈省略〉

七九(亡佐野瀧吉相続人)原告佐野ハルエ、同古賀昭子、同待鳥礼子、同福成信子、同佐野義明〈省略〉

八〇原告出雲タエノ

〈証拠〉によれば、次のように認められる。

1 同原告は大正一一年七月一八日生れで、小学校を卒業すると、すぐお寺や病院に数年間子守りや女中として住み込みで働き、その後、家に帰つて裁縫などを習つていたが、昭和一八年に三井三池鉱業所の鉱員であつた夫と結婚し、四人の子をもうけた。同三二年一二月にコタツの角に胸を打ちつけ痛みが止まらないので、翌三三年二月頃検査を受けたところ、肋膜炎ということで三か月ばかり自宅で静養したことがある。

2 昭和三四年五月頃から下痢気味となり、なかなか止まらないので同年六月初め頃、熊本県荒尾市の伊藤医院を受診し、通院しながら投薬治療を受けていたが、一か月近く経つても下痢は軽快せず、却つてひどくなり、時にはきりきり痛む腹痛を伴うようになつていた。

3 同年七月初めにはいよいよ腹痛も強まり、通院するのもようやくといつた状態になつていたが、その頃の夕方、両方の足の裏にジンジンするようなしびれ感が始まり、そのしびれ感は次第に強まるとともに足の方に上昇してきて、同夜半から明け方にかけて腰のあたりまで拡がつてきた。同時に両足とも大腿部から下は何かゴムで締めつけられたような感じであつたが、それとともに両下肢が長時間座つていてしびれたときのように力が入らず、立とうとしてもよろけて容易に立てなかつた。何日か経つてしびれが少し和らいだ頃、足の裏はがばがばして、皮膚の上に何か厚いものをかぶせている感じであつた。その後、特に調子の良いときは一Km位離れている伊藤医院に歩いて通つたが、足に力が入らず、履物が脱げても気がつかないといつた状態で、思うように歩けず、大抵は夫の自転車に乗せてもらつて通院していた。夫と四人の子供の世話で入院できずにいたが、高校二年の長女が夏休みになり、やつと一か月ばかり右医院に入院した。しかし、症状は一向に軽快せず、退院後も通院を続けたが、体は衰弱してもはや歩いての通院はできなかつた。特に下痢が続くと、下肢のしびれが強まり、足に何かさわると電気にでもかかつたようにビリビリ痛み、また排尿、排便の障害もあつた。そして、この頃、舌の中央部分が黒つぽく変色していることに気付いた。

4 同年一一月から翌三五年二月末まで三池鉱業所病院(天領本院)に入院して治療を受けたが、ここでも原因がはつきりしなかつた。右入院当時、一時期物が二重に見えた。もつぱら廊下などで伝い歩きの練習に努めていたが、入院を継続してもこれ以上改善しないといわれ退院した。退院後、同年九月頃まで同病院の四山分院に通院を続けていたが、ここでも右原告の病気はどうしようもないといわれ、腹が立つと同時に落胆して以後病院での治療を受けていない。しかし、この頃には少しは歩けるようになり、家事なども立つてするようになつていたが、通院も往きは夫に自転車で送つてもらい、帰りは夫が迎えに来るまで病院から三分の一位の道のりをゆつくり歩いていた。その後、鍼灸などの治療を受けたが、次第に激しい下痢や腹痛はなくなり、軽い下痢や鈍痛に変つて行つた。同四八年夫が三池鉱業所を退職したのを機会に福岡市に移転し、現住所に居住するに至つているが、その間、同四七年一〇月一八日九大病院神経内科を受診し、スモンとの診断を受けた。

5 最近の症状は、股関節以下の知覚障害と歩行障害が主たるもので、歩行は独歩が可能であるが、軽度の痙性歩行で、物につまずきやすく、階段の昇降も手すりがなければ困難である。

6 なお、右原告については発症当時通院していた伊藤医院において、カルテが現存していないとして投薬証明書の発行を拒み、他に格別の資料もないので、右医院においてどのような投薬がなされたかを明らかにすることはできない。しかし、右原告が下痢を訴えて同医院に通院するようになり、投薬治療を受けているうちスモンに特徴的な激しい腹痛があり、足の裏からスモンの神経症状が出現するに至つた経過からすれば、当時服用した薬剤中にキノホルム剤が含まれていたことが強く推認され、これに疑問を抱かせるような事情もない。そして、後に三池鉱業所病院に入院中に一時期複視があり、また緑舌と思われるものがあつたことは、一層これを補強するものである(もつとも、緑舌については右原告自身本訴提起当時はその旨申立てておらず、疑問がないではないが、その点いずれであつても結論を左右するものではない。)。

7 同原告は昭和三四年、三六才のときスモンが発病した。すでに一八年間の闘病生活を経ているが、今でも体に無理をするとすぐ下痢を起し、しびれが増強する。歩行は普通の倍も時間がかかり、途中でしばしば休まねばならない。自宅の近くに坂道があるが、夫のバンドにつかまるか杖をつかねばならない状態である。スモンはこの原告の肉体だけでなく、その直後に発生した三井三池争議と共に同入方の経済生活を破綻させた。治療費はかさむうえ内職もできず、そのため満足な家具、電気製品が買えず、人に覗かれるのをいやがつて、夏の暑いときでも窓をしめていた。また、長女は折角高校二年に進学していたが、右原告が家事など十分にできなかつたため、中退して約二年間は家事を手伝い、その後、洋品店に勤めるようになつたが、給料は全額家に入れていた。このように苦労を掛けたので、長女が結婚するとき訪問着でもと思い反物を購入したが、その訪問着も第一回の月賦が支払えず、結局、呉服商に取戻された。

以上認定のとおりであつて、同原告は医薬品名こそ明らかではないがキノホルム剤の服用によりスモンの発病を見たものというべきところ、その損害額としては前記諸般の事情を考慮し金二〇〇〇万円とするのが相当である。(国)

八一原告宇野善文〈省略〉

八二原告浦縄次郎〈省略〉

八三原告小田日出丸〈省略〉

八四原告早稲田緑〈省略〉

八五原告伊藤ヨシ〈省略〉

八六原告橋爪貞男〈省略〉

八七原告原田昭雄〈省略〉

八八原告山元典子〈省略〉

八九原告山本松子〈省略〉

九〇原告芳川憲夫〈省略〉

九一原告城後ヤスエ〈省略〉

九二原告鈴木陽一〈省略〉

九三原告住吉キミ子〈省略〉

九四原告田浦ヤエノ〈省略〉

九五原告中村静子〈省略〉

九六原告花田カヅエ〈省略〉

九七原告馬場ハツエ〈省略〉

九八原告原ナツ〈略省〉

九九原告松延静枝〈省略〉

一〇〇原告松橋カオル〈省略〉

一〇一原告安沢春美〈省略〉

一〇二原告武末キミヨ〈省略〉

一〇三原告井上政子〈省略〉

一〇四原告大村英信〈省略〉

一〇五原告川野正博〈省略〉

一〇六原告草場重弘〈省略〉

一〇七原告徳永シヅエ〈省略〉

一〇八原告徳永ハナエ〈省略〉

一〇九原告奈良恭子〈省略〉

一一〇原告不破宮子〈省略〉

一一一原告松延ツルエ〈省略〉

一一二原告和田民之助〈省略〉

一一八原告吉村富子〈省略〉

一二〇原告中村国一〈省略〉

一二一原告松尾大次郎〈省略〉

一二三原告三宅博文〈省略〉

一二四原告大久保タキ〈省略〉

一二五原告大塚トキエ〈省略〉

一二六原告懸野ユキコ〈省略〉

一二七原告川野治平〈省略〉

一二八原告河野タミ〈省略〉

一二九原告川畑寿重〈省略〉

一三〇原告木下スズ子〈省略〉

一三一原告佐伯勇〈省略〉

一三二原告佐渡村ミツ子〈省略〉

一三三原告高見キクノ〈省略〉

一三四原告細川サキ〈省略〉

一三五原告三宅アヤ子〈省略〉

一三六原告宮本章〈省略〉

一三七原告山本秀子〈省略〉

一三九〜一四四(亡西林清人相続人)原告西林トヨ子、同西林光美、同江上直美、同西林美代子、同西林絹子、同西林英厚〈省略〉

一四五原告尾木正子〈省略〉

一四六原告朽網タツエ〈省略〉

一四七原告古沢利雄〈省略〉

一四九原告石原広喜〈省略〉

一五〇原告入江栞〈省略〉

一五二原告加藤ヨシノ〈省略〉

一五三原告梶原キヨ子〈省略〉

一五四原告河野初子〈省略〉

一五五原告坂田ハツヨ〈省略〉

一五六原告末松松〈省略〉

一五七原告田中トメ〈省略〉

一五八原告堤徳福〈省略〉

一五九原告中田ミキ子〈省略〉

一六〇原告宮本里子〈省略〉

一六一原告本石章〈省略〉

一六二原告柳田ヒサノ〈省略〉

一六六(亡山本太良治相続人)原告山本セン、同丸山都子〈省略〉

一六八原告有山太郎〈省略〉

一七〇原告藤孝子〈省略〉

一七一原告松本アサ子〈省略〉

一七二原告栗栖喜美子〈省略〉

一七三原告細川寿恵子〈省略〉

一七四原告吉松正蔵〈省略〉

一七五原告吉松チヨコ〈省略〉

第三  弁護士費用〈省略〉

第一〇章  結論

以上の次第で、原告らの被告会社(別紙(一)原告別請求・認容一覧表の「被告会社」欄に○印の付されたもの)及び被告国に対する請求は、同表の「備考」欄に棄却とある被告会社の関係(原告権丈トモエ、同的場マサ子及び同松橋カオルの被告チバ及び同武田に対する各請求、原告細井タツ子の被告田辺に対する請求)を除き、各自それぞれ⑥「認容額・合計」欄記載の金員及びそのうち④「認容額・損害額」欄記載の金員に対する本件各不法行為時の後で、本件口頭弁論終結の日である昭和五三年一二月一四日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるので、原告らの本訴請求をその範囲で正当として認容し、その余は失当であるから、原告らの右被告らに対するその余の請求並びに原告権丈トモエ、同的場マサ子及び同松橋カオルの被告チバ及び同武田に対する各請求、原告細井タツ子の被告田辺に対する請求を、いずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二ないし九四条を各適用し、なお仮執行の宣言は右「⑥認容額・合計」欄記載の金員の各三分の一の限度において相当と認め、また仮執行免脱の宣言は仮執行の宣言を右のように限定する以上、相当でないと認めるのでこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(権藤義臣 簑田孝行 古賀寛)

別紙

(一)

原告別請求・認容一覧表

(注) 「被告会社」欄の○印は当該原告に関係のある被告会社を示す。ただし、「備考」欄に被告会社名と共に棄却とあるのは、右被告会社に対する請求が

全部棄却されたことを意味する。

被告国は原告ら全員に関係があるので表示を省略する。

請求額・認容額につき特に表示のあるものを除き単位は万円である。(単位 万円)

原告番号

1

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20

21

22

24

25

26

27

28

29

30

31

32

33

34

35

36

37

38

39

41

42

43

44

45

46

47

48

原告氏名

越智義信

中島美代子

中村清子

中村陽一

中村和泉

中村健実

別宮逸郎

松延ツヤ子

宮津三紀子

和藤勝美

阿部康子

井上美知子

岡部千代子

川口進

熊谷喜久男

児嶋政仁

酒井ナツヨ

篠原萬理子

高砂佳枝

高橋千代子

田中重雄

木村倭文子

田中君江

田中良文

坪井洪

藤シノブ

長尾ヤエコ

西利雄

原田澄子

前田顕

前田ツタエ

間地高明

松本ヨシエ

宮本摂子

牟田要

川崎龍哉

佐野ハルエ

諸岡冨美子

山本ヨシエ

古賀喜規

池田ミツエ

石松サワノ

牛島寿美子

梅崎エツ

江崎シゲノ

大賀利平次

鐘ケ江スガエ

古賀邦芳

坂井清

白尾サトリ

被告会社

チバ武田

田辺

請求額

①損害額

五〇〇〇

四〇〇〇

一三三三万三三三三円

八八八万

八八八八円

八八八万

八八八八円

八八八万

八八八八円

五〇〇〇

五〇〇〇

五〇〇〇

五〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

五〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

一三三三万三三三三円

一三三三万三三三三円

一三三三万三三三三円

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

五〇〇〇

四〇〇〇

五〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

②弁護士費用

五〇〇

四〇〇

一三三万

三三三三円

八八万

八八八八円

八八万

八八八八円

八八万

八八八八円

五〇〇

五〇〇

五〇〇

五〇〇

四〇〇

四〇〇

四〇〇

四〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

五〇〇

四〇〇

三〇〇

四〇〇

一三三万

三三三三円

一三三万

三三三三円

一三三万

三三三三円

三〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

五〇〇

四〇〇

五〇〇

四〇〇

三〇〇

四〇〇

四〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

③合計

五五〇〇

四四〇〇

一四六六万六六六六円

九七七万

七七七六円

九七七万

七七七六円

九七七万

七七七六円

五五〇〇

五五〇〇

五五〇〇

五五〇〇

四四〇〇

四四〇〇

四四〇〇

四四〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

五五〇〇

四四〇〇

三三〇〇

四四〇〇

一四六六万六六六六円

一四六六万六六六六円

一四六六万六六六六円

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

五五〇〇

四四〇〇

五五〇〇

四四〇〇

三三〇〇

四四〇〇

四四〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

認容額

④損害額

四三〇〇

三四〇〇

一三三三万三三三三円

八八八万

八八八八円

八八八万

八八八八円

八八八万

八八八八円

四〇〇〇

三八〇〇

三八〇〇

四六〇〇

三二〇〇

三五〇〇

二八〇〇

三〇〇〇

二二〇〇

三二〇〇

一三〇〇

四四〇〇

三四〇〇

二七〇〇

三五〇〇

一一〇〇

一一〇〇

一一〇〇

三〇〇〇

一三〇〇

二五〇〇

一四〇〇

三〇〇〇

二〇〇〇

二〇〇〇

二〇〇〇

一八〇〇

二二〇〇

一八〇〇

四三〇〇

一八〇〇

三八〇〇

二七〇〇

二〇〇〇

二五〇〇

二八〇〇

三四〇〇

一七〇〇

一八〇〇

一四〇〇

二〇〇〇

二二〇〇

二二〇〇

二〇〇〇

⑤弁護士費用

三二二

二五五

一〇〇

六六

六六

六六

三〇〇

二八五

二八五

三四五

二四〇

二六二

二一〇

二二五

一六五

二四〇

九七

三三〇

二五五

二〇二

二六二

八二

八二

八二

二二五

九七

一八七

一〇五

二二五

一五〇

一五〇

一五〇

一三五

一六五

一三五

三二二

一三五

二八五

二〇二

一五〇

一八五

二一〇

二五五

一二七

一三五

一〇五

一五〇

一六五

一六五

一五〇

⑥合計

四六二二

三六五五

一四三三万三三三三円

九五四万

八八八八円

九五四万

八八八八円

九五四万

八八八八円

四三〇〇

四〇八五

四〇八五

四九四五

三四四〇

三七六二

三〇一〇

三二二五

二三六五

三四四〇

一三九七

四七三〇

三六五五

二九〇二

三七六二

一一八二

一一八二

一一八二

三二二五

一三九七

二六八七

一五〇五

三二二五

二一五〇

二一五〇

二一五〇

一九三五

二三六五

一九三五

四六二二

一九三五

四〇八五

二九〇二

二一五〇

二六八七

三〇一〇

三六五五

一八二七

一九三五

一五〇五

二一五〇

二三六五

二三六五

二一五〇

備考

49

50

51

52

53

54

55

56

57

58

59

60

61

62

63

64

65

66

67

70

71

72

73

74

75

76

77

78

79

80

81

82

83

84

85

86

87

88

89

90

91

92

93

94

95

96

97

98

99

冨森アサ子

福山カツ

船崎周一

森フジ子

山口

山口豊

雪丸正利

龍作一

龍ミヨカ

栗原礼子

栗原知子

栗原佳子

塚本安子

芳野憲二

時枝知子

高木吉広

高木祐治

鳥羽道子

細井タツ子

岩本キミエ

権丈トモエ

坂本義和

近見タネ

原田ミサエ

原富男

的場マサ子

吉田冨美子

山口シズエ

佐野ハルエ

古賀昭子

待鳥礼子

福成信子

佐野義明

出雲タエノ

宇野善文

浦縄次郎

小田日出丸

早稲田録

伊藤ヨシ

橋瓜貞男

原田昭雄

山元典子

山本松子

芳川憲夫

城後ヤスエ

鈴木陽一

住吉キミ子

田浦ヤエノ

中村静子

花田カヅエ

馬場ハツエ

原ナツ

松延静枝

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

一三三三

一三三三

一三三三

一三三三

一三三三

四四四

四四四

四四四

五〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

一三三三

六六六

六六六

六六六

六六六

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

五〇〇〇

四〇〇〇

五〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

一三三

一三三

一三三

一三三

一三三

四四

四四

四四

五〇〇

四〇〇

四〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

一三三

六六

六六

六六

六六

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

四〇〇

四〇〇

五〇〇

四〇〇

五〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

一四六六

一四六六

一四六六

一四六六

一四六六

四八八

四八八

四八八

五五〇〇

四四〇〇

四四〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

一四六六

七三二

七三二

七三二

七三二

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

四四〇〇

四四〇〇

五五〇〇

四四〇〇

五五〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

二〇〇〇

二五〇〇

一五〇〇

二八〇〇

二〇〇〇

二〇〇〇

一五〇〇

二〇〇〇

一三〇〇

一二〇〇

一二〇〇

一二〇〇

九〇〇

九〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三六〇〇

三八〇〇

二二〇〇

二〇〇〇

二〇〇〇

一八〇〇

一八〇〇

一八〇〇

二〇〇〇

二〇〇〇

一七〇〇

一一〇〇

五五〇

五五〇

五五〇

五五〇

二〇〇〇

一五〇〇

二〇〇〇

二二〇〇

一七〇〇

二七〇〇

三二〇〇

三五〇〇

三八〇〇

三六〇〇

四三〇〇

一〇〇〇

二四〇〇

三八〇〇

二五〇〇

一〇〇〇

二〇〇〇

二〇〇〇

一七〇〇

一二〇〇

一五〇

一八七

一一二

二一〇

一五〇

一五〇

一一二

一五〇

九七

九〇

九〇

九〇

六七

六七

二二

二二

二二

二七〇

二八五

一六五

一五〇

一五〇

一三五

一三五

一三五

一五〇

一五〇

一二七

八二

四一

四一

四一

四一

一五〇

一一二

一五〇

一六五

一二七

二〇二

二四〇

二六二

二八五

二七〇

三二二

七五

一八〇

二八五

一八七

七五

一五〇

一五〇

一二七

九〇

二一五〇

二六八七

一六一二

三〇一〇

二一五〇

二一五〇

一六一二

二一五〇

一三九七

一二九〇

一二九〇

一二九〇

九六七

九六七

三二二

三二二

三二二

三八七〇

四〇八五

二三六五

二一五〇

二一五〇

一九三五

一九三五

一九三五

二一五〇

二一五〇

一八二七

一一八二

五九一

五九一

五九一

五九一

二一五〇

一六一二

二一五〇

二三六五

一八二七

二九〇二

三四四〇

三七六二

四〇八五

三八七〇

四六二二

一〇七五

二五八〇

四〇八五

二六八七

一〇七五

二一五〇

二一五〇

一八二七

一二九〇

田辺棄却

チバ

・武田棄却

チバ

・武田棄却

100

101

102

103

104

105

106

107

108

109

110

111

112

118

120

121

123

124

125

126

127

128

129

130

131

132

133

134

135

136

137

139

140

141

142

143

144

145

146

147

149

150

152

153

154

155

156

157

158

159

160

161

162

松橋カオル

安沢春美

武未キミ

井上政子

大村英信

川野正博

草場重弘

徳永シヅエ

徳永ハナエ

奈良恭子

不破宮子

松延ツルエ

和田民之助

吉村富子

中村国一

松尾大次郎

三宅博文

大久保タキ

大塚トキエ

懸野ユキコ

川野治平

河野タ

川畑寿重

木下スズ子

佐伯勇

佐渡村ミツ子

高見キク

細川サキ

三宅アヤ子

宮本章

山本秀子

西林ト

ヨ子

西林光美

江上直美

西林美代子

西林絹子

西林英厚

尾木正子

朽網タツエ

古沢利雄

石原広喜

入江栞

加藤ヨシノ

梶原キヨ子

河野初子

坂田ハツヨ

末松松

田中ト

提徳福

中田ミキ子

宮本里子

本石章

柳田ヒサノ

四〇〇〇

三〇〇〇

五〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

五〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

一三三三

五三三

五三三

五三三

五三三

五三三

五〇〇〇

五〇〇〇

五〇〇〇

四〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇

三〇〇

五〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

五〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

四〇〇

四〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

一三三

五三

五三

五三

五三

五三

五〇〇

五〇〇

五〇〇

四〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

五五〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

五五〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

四四〇〇

四四〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

一四六六

五八六

五八六

五八六

五八六

五八六

五五〇〇

五五〇〇

五五〇〇

四四〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

三二〇〇

二七〇〇

三八〇〇

一八〇〇

一五〇〇

三〇〇〇

二二〇〇

一八〇〇

二五〇〇

一八〇〇

三〇〇〇

二〇〇〇

二八〇〇

二二〇〇

二〇〇〇

二〇〇〇

四六〇〇

一八〇〇

二二〇〇

二七〇〇

二二〇〇

一八〇〇

二四〇〇

二四〇〇

三二〇〇

一八〇〇

二五〇〇

一七〇〇

二〇〇〇

二〇〇〇

三二〇〇

九〇〇

三六〇

三六〇

三六〇

三六〇

三六〇

四〇〇〇

三四〇〇

四五〇〇

三五〇〇

二五〇〇

一七〇〇

一八〇〇

二七〇〇

一七〇〇

二五〇〇

二八〇〇

二四〇〇

一八〇〇

二〇〇〇

二七〇〇

一〇〇〇

二四〇

二〇二

二八五

一三五

一一二

二二五

一六五

一三五

一八七

一三五

二二五

一五〇

二一〇

一六五

一五〇

一五〇

三四五

一三五

一六五

二〇二

一六五

一三五

一八〇

一八〇

二四〇

一三五

一八七

一二七

一五〇

一五〇

二四〇

六七

二七

二七

二七

二七

二七

三〇〇

二五五

三三七

二六二

一八七

一二七

一三五

二〇二

一二七

一八七

二一〇

一八〇

一三五

一五〇

二〇二

七五

三四四〇

二九〇二

四〇八五

一九三五

一六一二

三二二五

二三六五

一九三五

二六八七

一九三五

三二二五

二一五〇

三〇一〇

二三六五

二一五〇

二一五〇

四九四五

一九三五

二三六五

二九〇二

二三六五

一九三五

二五八〇

二五八〇

三四四〇

一九三五

二六八七

一八二七

二一五〇

二一五〇

三四四〇

九六七

三八七

三八七

三八七

三八七

三八七

四三〇〇

三六五五

四八三七

三七六二

二六八七

一八二七

一九三五

二九〇二

一八二七

二六八七

三〇一〇

二五八〇

一九三五

二一五〇

二九〇二

一〇七五

チバ

武田棄却

166

168

170

171

172

173

174

175

山本セン

丸山都子

有山太郎

藤孝子

松本アサ子

栗栖喜美子

細川寿恵子

吉松正蔵

吉松チヨコ

一三三三

二六六六

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

三〇〇〇

四〇〇〇

三〇〇〇

一三三

二六六

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

三〇〇

四〇〇

三〇〇

一四六六

二九三二

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

三三〇〇

四四〇〇

三三〇〇

一二〇〇

二四〇〇

一四〇〇

二〇〇〇

二二〇〇

一八〇〇

一八〇〇

二〇〇〇

二〇〇〇

九〇

一八〇

一〇五

一五〇

一六五

一三五

一三五

一五〇

一五〇

一二九〇

二五八〇

一五〇五

二一五〇

二三六五

一九三五

一九三五

二一五〇

二一五〇

「認容金額一覧表」

注記・日本チバガイギー株式会社は「チバ」、

武田薬品工業株式会社は「武田」、

田辺製薬株式会社は「田辺」と

略記する。

番号

原告

被告

認容金額

(単位 万円)

内訳(単位 万円)

慰藉料

弁護士費用

1

青山友子

チバ、武田、国

二、〇四二

一、九〇〇

一四二

2

尾崎一

田辺、国

四、四〇七

四、一〇〇

三〇七

3

小原キヨエ

チバ、武田、田辺、国

一、三九七

一、三〇〇

九七

4

河原篤江

チバ、武田、国

三、三三二

三、一〇〇

二三二

5

菊崎周男

田辺、国

三、八七〇

三、六〇〇

二七〇

6

小牧道子

田辺、国

三、四四〇

三、二〇〇

二四〇

7

後藤スナエ

田辺、国

二、三六五

二、二〇〇

一六五

8

沢田進

田辺、国

二、二五七

二、一〇〇

一五七

9

繁村素子

チバ、武田、国

三、四四〇

三、二〇〇

二四〇

10

白川積

田辺、国

二、〇四二

一、九〇〇

一四二

11

堰楽静子

チバ、武田、国

二、二五七

二、一〇〇

一五七

12

中島ミヨ子

田辺、国

一、〇九六

一、〇二〇

七六

13

西村恒夫

チバ、武田、田辺、国

一、一二八

一、〇五〇

七八

14

新田愛子

チバ、武田、国

三、〇一〇

二、八〇〇

二一〇

15

橋本健一

チバ、武田、国

一、八二七

一、七〇〇

一三七

16

橋本義秋

田辺、国

三、五四七

三、三〇〇

二四七

17

干鯛ツヤ

チバ、武田、国

一、三九七

一、三〇〇

九七

18

福井ハルエ

チバ、武田、国

二、三六五

二、二〇〇

一六五

19

福田淳子

チバ、武田、田辺、国

三、八七〇

三、六〇〇

二七〇

20

松尾英子

チバ、武田、田辺、国

五、三七五

五、〇〇〇

三七五

21

丸山康子

チバ、武田、田辺、国

二、五八〇

二、四〇〇

一八〇

22

森スガノ

チバ、武田、国

一、三九七

一、三〇〇

九七

23

山本タケヨ

チバ、武田、国

二、三六五

二、二〇〇

一六五

24

吉村紀子

用辺、国

三、七六二

三、五〇〇

二六二

25

石川英子

田辺、国

三、〇一〇

二、八〇〇

二一〇

26

石田紀子

チバ、武田、国

二、三六五

(一、一八二)

二、二〇〇

(一、一〇〇)

一六五

(八二)

27

伊藤雪子

チバ、武田、田辺、国

一、六一二

一、五〇〇

一一二

28

大栗時夫

田辺、国

一、五〇五

一、四〇〇

一〇五

29

加藤トモエ

用辺、国

二、一五〇

二、〇〇〇

一五〇

30

川崎正清

チバ、武田、国

二、一九三

二、〇四〇

一五三

31

酒井千代子

田辺、国

一、二三六

一、一五〇

八六

32

立石好校

チバ、武田、国

二、二五七

二、一〇〇

一五七

33

立道雪子

チバ、武田、国

一、三九七

一、三〇〇

九七

34

廿日出千代子

チバ、武田、国

一、九三五

一、八〇〇

一三五

35

松本シナ

チバ、武田、国

二、五八〇

二、四〇〇

一八〇

36

松本直四郎

チバ、武田、国

一、六一二

一、五〇〇

一一二

37

峯松雄三郎

チバ、武田、田辺、国

五、三七五

五、〇〇〇

三七五

38

河本八枝子

田辺、国

二、七九五

二、六〇〇

一九五

39

合田正明

チバ、武田、国

二、六八七

二、五〇〇

一八七

40

滝野口秀子

チバ、武田、国

二、六八七

二、五〇〇

一八七

41

橋岡恵子

チバ、武田、国

二、一五〇

二、〇〇〇

一五〇

42

山本康子

チバ、武田、国

二、〇四二

一、九〇〇

一四二

43

横田トミ子

チバ、武田、国

八八一

八二〇

六一

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